10.すべてのはじまり
暗いカーテンを締め切った部屋の中で、一人の黒髪の男が、掌の中で一つの命を作り上げようとしていた。

男の手の中で小さくも夜空の星の様に輝くそれは、光を失うと、1歳ほどの少女の姿と成って、男の腕の中に小さく収まった。

少女の茶色の美しい長髪を撫でながら、男は微笑を溢した。

「……お前の名はイヴ。イヴだよ」

まだ言葉も知らない少女─イヴは男の姿を認識すると、答える様ににっこりと微笑んだ。

「……ユウ様。その子がイヴちゃん?」


部屋の扉を開けて、入ってきた優しげな面持ちの女性は、イヴの姿を確認するとやんわりと笑みを浮かべた。

女性が近寄ってイヴの頬を軽く突っつくと、イヴはきゃっきゃと嬉しそうな声を上げて、手足をばたつかせた。

その姿が愛らしくて、女性は表情を更に和らげた。

「……デレデレだね、リリス」

男、ユウは自分の腕の中に収まっているイヴと、リリスを交互に見て半ば呆れ気味に溜め息を吐いた。

「あら、だってこの子とっても可愛いらしいじゃありませんか」

そんなユウには目もくれず、リリスはユウの腕の中からイヴを半ば強引に奪い取って抱き締めた。

ぷにぷにと幼子独特の肌は気持ちが良い。

「……流石私の妹。うーん!かわいい」

きゃっきゃとリリスの腕の中で暴れるイヴの顔付きは、希望に満ちていて実に愛らしかった。
深い海を思わせる瑠璃色の瞳は、どこか人を寄せ付ける魅力がある。

「それはそうだろうね、なんせ僕が作った子だから。可愛くて当然」

ユウは自慢げに笑った。

「……これからこの子をどうするおつもりですか?」

ユウがこの少女をどうするのか。正直それがリリスには一番気掛かりだった。

(ユウ様の事だから、なにか考えているでしょうけれど)

ユウは目的もなく命を作り上げたりしない。

それ相応の理由がある筈。

「……僕としては、アダムの小間使いにしようと思っているんだけど。」

最近アダムは事在る事に、ユウに対して「仕事が多い」だの、「ダルい、死ぬ」だの会う度に必死の形相で詰め寄ってくるのだ。

挙げ句の果てには、「それ相応の対応をしなければ、仕事をボイコットする」と言い出す始末。

実は、ユウの分の仕事も押し付けているから、当然といえば当然なのだが、あえてユウは娘に知られないようにごほんと咳払いをひとつした。

「……小間使いがいれば、少しはアダムも楽になると思ってね」

本当は僕が楽したいだけなんだけど。

それを言うと彼の妻であるリリスに殴られそうなので、絶対に言えない。

「そうですわね、アダムも最近「ダルいダルい」とぼやいていましたし……」

ごめん、それ僕のせい。

それは良い事ですね、と満足そうなリリスに、ユウは心の中で詫びを入れた。

「……ところで、この子は誰が育てるのですか?決まっていないのなら、私が――」

「いや、実はレボルトに任せようと思っているんだ」

「は……?」

リリスは、自らの言葉を遮る様にして告げられた言葉に蒼白した。
レボルトとは、使用人頭兼執事長の青年の事である。
彼は確かに綺麗な顔をしており、頭も良く、仕事が出来て、回りの者からも信頼されている。
だが、一つだけ重大な欠点がある。
レボルトは、究極なまでに人嫌いなのだ。
それはもう酷いもので、仕事以外のプライベートで人と話す事はなく、友人なし、恋人なし、本人も人嫌いを言及しているという筋金入りの人嫌い。
その昔、彼が人嫌いな事を知らない愚かなメイドが、レボルトに告白したらしいのだか、数々の罵詈雑言を浴びせられた挙げ句、滅多刺しされそうになった、というのをリリスは聞いている。

そんな男に子供の世話を任せて、大丈夫な訳がない。
レボルトの様に破綻した性格になるに決まっている。

(いけないわ!こればかりはなにがなんでも阻止しなければ!!)

リリスは、金槌で頭を殴られたような衝撃からなんとか平静を取り戻すと、信じられないと言った口調でユウに反論した。

「……冗談ですよね?」

「本気だよ?」

「何を考えているんですかっ!!この能無し!可愛い可愛いイヴちゃんを、あんな最低な男に任せられるわけないじゃないですかっ!」

(……何気に酷い事を言われている気がする。)

だが、なんと言われようがユウに引く気はなかった。

「子供でも育ててみれば、奴の人嫌いも少しはマシになるかなーって」

人の親になれば、流石に人を滅多刺しにしよう等とは思わないだろう。

たぶん。

「……私は納得いきません」

リリスは、己の腕の中にいる小さな少女を見つめた。
どうやらユウと話している間に寝てしまったらしい。

(本当に……可愛いらしい子)

この子があの鉄仮面のレボルトに託されると考えると、リリスは頭が痛かった。

「……私が育ててはいけないのですか?」

「駄目。……今回はレボルトに任せる。……彼もそろそろ変わらないと、ね?」

「……仕方ありませんね」

リリスは頑ななユウに、渋々といった様子で頷いた。

「会いに行くのは自由ですものね」

「うん、いつでも可愛い妹分を見に行っておいで」

リリスは、最後にイヴの額に親愛の意を込めて口付けを落とした。

「この子の誕生に祝福を」

ゴーンゴーンと、祝福の鐘の音が城中に響き渡った。

*  *  *

「……で?わざわざ俺の所まで"これ"を連れてきた訳ですか」

ユウから説明を聞いたレボルトは、呆れ顔で自分の足元に突っ立っているイヴを指差した。

珍しくユウがレボルトの部屋に来たらこの惨状だ。

嫌な予感はすると思っていたが、まさか子育てをしろと言われるとは思わなかった。

ストレスのせいで唯でさえ深い眉間の皺が、今日は三割増だ。

それにしても─何故自分によってくるのだろうか、この子供は。

(…なんで俺が餓鬼の世話を)

あっちに行けとイヴにガンを飛ばすも、イヴには効果がないようでむしろ逆効果だった。
満面の笑みが痛い。

「まあまあ、そんなこと言わずに……ね?ね?」

「ね?とか言わないでくださいよ気持ち悪い。絶対に嫌です。というか、勝手に心を読まないでくださいませんか」

「いつもの事だろう?慣れなよ、それぐらい」

「慣れたくありません。…ってこれを置いて帰ろうとしないでくれませんか」

(……まさか本気で俺に子守りさせる気ですか?)

自分でも、ろくな人間にならないと思うのだが。

「そのまさかだよ。まあ、頑張ってね!」

だが、ユウはそんなレボルトの心配もそっちのけで、それだけ言うと、瞬間移動でとっとと何処かへ消え失せてしまった。

最後に「その子に酷い事したら、リリスに殺されると思ってね」という脅し付きで。

「はぁ……」

(……俺にどうしろと?)

レボルトは、イヴを見て盛大に溜め息を吐いた。

流石に放置するのはいかがなものかと思うので、なによりリリスは怒ると面倒くさいので、イヴと目線を合わせるべく、とりあえずしゃがんで見ることにした。
眉間の皺も、努力して二割減ぐらいにしてみる。


「……名前は?」

「……いう゛」

「イヴ……?」

レボルトの言葉に反応して、イヴが満足気にコクンコクンと頷いた。
どうやらイヴで合っているらしい。

(……さて、これからどうしますか。)

子育てどころか、子守りすらしたことがないので全く子供との接し方が分からない。
レボルトが本日何度目かの溜め息を吐いた時、右頬にペチンと何か柔らかい物が当たる感触がした。
考えて込んでいた意識を覚醒させ確認すると、謎の感触はイヴの手だったらしい。


「……なにか?」

「……」

「……は?」

「れ……おる……ほ?」


イヴはきょとんとしていたが、それ以上に茫然としたのはレボルトの方だった。
今なんと言った?この子供は。

「……もう一回」

「……れおるほ」

(……微妙に違いますが『レボルト』と発音したいんですかね。)

「……レーボールート」

「……れーぼーるーと?」

馬鹿かと思えば意外に物覚えはいいらしい。

よく出来たという意を込めて、軽く頭を撫でてやると、パアッと花開くようにイヴは微笑んだ。
そのままいきなりぎゅーと抱き着かれた。

「変わってますね、貴女は」

どうやらなつかれたらしい。
こんな自分のどこがいいのだろうか。
イヴを凝視するも、にこにことした笑顔が返ってくるだけ。

この小娘に自分はとことん振り回されそうな気がすると、レボルトは複雑な表情でイヴの頭を再び撫でるしかなかった。
こうして、二人の奇妙な関係は始まったのだった。

prev next

TOP/ 戻る