06.記憶の欠片
「――様、行きましょう」

レボルトと初めて出会ったあの薔薇園で、一人の男が女性に手を差し伸べていた。薔薇園には、甘い雰囲気が満ちている。

「今行くわ」

名前の部分はノイズがかかった様に聞こえなかったが、女性が男の手を取った瞬間、ぶわっと白い花弁が舞い散った。

(綺麗……)

伊吹は景色の一部になった様に、ボーッと二人を見ていた。

絵画の様な光景に目眩がする。
恋人と思われる二人は、始終笑顔だった。

(幸せなんだろうなぁ……)

子供の頃は、自分も母親の様にいい男の人を見つけて、幸せな結婚生活が送りたいと思っていし、将来の夢はお嫁さんだった。

だがそんなもの自分には関係のない世界の話。

自分には愛する人なんていないし、これからだって出来ないだろう。

そしてこんな自分を愛してくれる人もいない。

虚ろな瞳でもう一度薔薇園を見つめる。

そこには、もう恋人達の姿はなかった。
いつのまにか恋人達は、伊吹に気付かずに去っていってしまったようだ。

ゆっくりと目蓋を閉じれば世界が黒く塗り替えられる。

目蓋の裏の闇だけが伊吹の世界。伊吹だけの箱庭。

『伊吹、ママお仕事があるの』

そうね……知ってる。

『伊吹、ママ今年も誕生日帰れそうにないのごめんなさい』

仕方ないわよね、母さんは忙しいから。

『愛してるわ、伊吹。だから一人でもお留守番できるわね?』

大丈夫よ、母さん。私は強い子だから。

いつだって置いていかれるのは自分。
手を伸ばしたって、母は待ってくれない。
父さんと一緒に仕事という名の母の楽園へいってしまう。

分かっているつもりだっただけで、やっぱり自分は子供だった。
母が自分を大切にしてくれている事は、解っている。

頭では理解している、だが心は「愛してるという証拠が欲しい」と悲鳴を上げているのだ。

(…みんな私を置いていく。ねえ、貴方も同じなんでしょう?)

暗闇の中に浮かび上がった男の影に手を伸ばす。
届かないと解っていて伸ばした手。

だが空を切るはずと思われていた伊吹の手は、振り返った男によって身体事包みこまれた。

(夢……?)

伊吹が目を開けると、見知らぬ部屋のベッドの上だった。

そこで先程までの光景が夢だという事に気付く。
夢の中で夢を見るというおかしな現象。

夢の中の夢なのだから結論として、全て夢ということになるのだが。

(それにしても……いつになったら覚めるのかしら…)

中々この夢は覚める気配がない。
そろそろ現実の世界が恋しくなってきた。

とりあえず、状況を整理しようと気だるい身体を起こそうとする。
しかし、伊吹の上になにか重いものがのし掛かっていて起き上がれなかった。

不思議と嫌悪感のわかない重みの正体を確かめようと、身体を後ろに向けた所にいたのは

「レ……レボルト……!?」

自分を抱き枕にして眠っているレボルトだった。

(なっ……なんでいるの!?)

伊吹は思わずポカンとなってしまった。

「ちょっと!?レボルト!起きて!」

バンバンとレボルトの胸板を叩く。
するとレボルトが微かに目蓋を開けた。

「ああ、イヴ。おはよう」

「ええ、おはよう…ってそうじゃなくて!」

「……ん?」

心底気持ちよさそうなレボルトがこの上なく憎たらしい。
レボルトは不機嫌な伊吹をギュッと抱き締めた。みるみる顔が茹で蛸の様になっていく様子に微笑する。

「いいから離してっ!そして出ていって!」

年頃の女の子が就寝中の部屋に、男が侵入してくるのはどうかと思う。

「いいじゃないか、倒れかけた君を助けたのは俺なんだよ?それに……此処は俺の部屋だ。」

世界がグルンと回転する。
訳が解らず頭上を見上げれば、先程まで後ろで伊吹を抱き締めていた男が見えた。

(これって……もしかしなくても押し倒されてるの?)

いくら恋愛経験がない伊吹でも解る。
自分は確実にレボルトに押し倒されている。
しかもここはレボルトの部屋、確実に身の危険を感じる。

「なにをするつもり……?」

「別に?……なにもしないよ」

なにもしないと言いながら、先程からレボルトの右手はあらぬ方向に向かっている。

伊吹は太股を触っている男の右手を軽く叩いた。

「連れないなぁ」と不服そうに言うレボルトを睨み付ける。

「ごめんごめん、ちょっと調子に乗りすぎたよ」

(どこが『ちょっと』よ)

先程までの行為を『ちょっと』と言えるレボルトを寧ろ尊敬する。

軽蔑の目でレボルトを睨む。すると、突然レボルトが改まった真面目な顔をした。

ずっと真面目な顔をしていればかっこいいのに、と柄にもない事を考えたが、レボルトを喜ばせるだけな気がするので言わないでおく。

「聞きたいことがあるんだけど、いい?」

「嫌って言ってもどうせ聞くんでしょ?」

「君の物分かりがよくて助かったよ」

拒否すれば殺すとでも言いたげなレボルトの目を見れば、誰だってそう考えると思う。
伊吹は呆れながら「なにが聞きたいの?」と先を促した。

「イヴ、さっき倒れた時、血が見えなかった?」

「え……なんで……」

(なんで解ったの?)

何故レボルトは自分が見た幻覚の事を知っているのだろうか。

アダムに殺されかける幻覚、室内は人の血でベッタリと塗りつぶされており、アダムの顔も血の色に染まっていた。

「図星?」

コクコクと首を上下に振ると、レボルトが悲しげに笑った。

何処かで見たことのある表情だと、伊吹は記憶の片隅で思った。

「そっか。……ねえイヴ、ひとつだけ聞いて欲しい事があるんだけど……いい?」

「なに……?」

「これからどんな事があっても、自分を信じて欲しい。どんな事が起きても」

レボルトは伊吹を強く抱き締めた。

それはいつもの邪な感情が混じったものではなく、すがる様なものだった。

まるで母親に甘える小さな子供の様な行為。
同情するように伊吹がそっとレボルトの頭を撫でると、抱き締める力が更に強くなった。

そのままレボルトの背中を撫でてやること数分。

男の穏やかな寝息が聞こえてきた。

何故彼が自分に甘えてくれたのかは解らないが、レボルトの安心しきった寝顔を見ていると、伊吹自身も安心感に包まれていくのが解った。

時刻は深夜の3時。

起きるには早すぎる時間。

(夢なんだし…ちょっとぐらい調子に乗っても…大丈夫よね?)

伊吹は体制を整えると、レボルトの胸にくるまれる様にして眠りに着いた。


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