アイレン\
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中学3年に上がっても、依織は真壁の元を訪れるのをやめなかった。
時折思い出したかのように自身の元を訪れるショートカットの少女に、檻の中の獣は深いため息を吐きながらも、決して拒む事はない。依織は正直思い上がっていた。
真壁に特別に思われている、こんな自分でも受け入れてくれる、殺さずにいてくれる。
「お前、いつまでこんな事続ける気だ」
いつものように蔵に訪れた依織に、真壁は改まってそんな事を聞いてきた。
「……分からない」
依織はしゃがみこみ、檻の中をじっと見つめていた。
その視線は真壁を見ているようで、虚空を捉えるだけだ。
先の事なんて何も分からない。
ただ確定しているのは、高校には行かせてもらえないという、そんな残酷な未来だけだ。
この家にとっては、依織には教養などという余計なものはないほうが都合がいいらしい。
倉橋という家に一生縛られ続けるだけの人形、都合のいい母体、それが依織に求められた振る舞いだった。
依織に残された時間はあと1年しかない。
未来を切り開こうなんて思っちゃいない。
だからこそ残された貴重な時間を、依織は悔いのないように過ごしたかった。
國依は最近益々生き生きとしている。大人扱いされるのが、吸血鬼を殺せるのが何より嬉しいらしかった。
反対に、依織との距離は開いていった。その理由はだいたい見当がつく。
宗介は何を考えているのかよく分からない。
少なくとも、依織はあれ以来宗介の仮面の下を見ていない。
笑顔のまま淡々と「仕事」に取り掛かる宗介の姿は恐怖すら感じる。
「お前さ、婚約者がいるんだってな」
現実から目を逸らそうとするとする依織を真壁は許さなかった。
視線を下ろした依織をさらに追い詰めようと追求を続ける。
誰かが真壁に余計な事を吹き込んだらしい。
「……だから何?」
「こんなとこで油売っててもいいのか」
「束の間の自由を楽しんでるんだから、邪魔しないで」
ここでの逢瀬がばれていない、だなんて都合のいい事を思っちゃいない。
あと1年、というタイムリミットがあるからこそ依織の所業は黙認されている。
「束の間の自由……か」
赤い目が不気味に輝きを増し、濁った水晶体に光が射す。
片膝を立て意味深に呟いた男はおもむろに顔を上げる。
「お前はそれでいいのか」
「それでいいも何も、私にはどうする事も出来ないんだから」
真壁の言い方からして、彼は依織の事情について全て知っているらしかった。
「もしもだ、もしもだぞ。俺ならお前の運命を変えてやれるかもしれないって言ったらどうする?」
言って自分で後悔したのか、真壁は嘲笑を浮かべながら首を横に振った。
「……老体の戯言だ。忘れてくれ」
「そうね」
どうしようもない。どうしようもないなら、希望なんて持たないほうがいい。
だが、もう少しだけなら夢を見ても許される。遠くでオケラの鳴き声がした。
翌朝、朝食の席で依織はずっと真壁の言葉の真意を掴もうと頭を動かし続けていた。
横には相変わらず白米を掻き込み続けている宗介がいる。
ちらりと横目で伺えば、頭一つ分依織より成長した横顔が目に付いた。
鼻筋の通った顔は二人の通う中学でもかなり評判だ。客観的に見ても、宗介はかっこいいと依織は思う。
さぞおモテになるんでしょうね、と皮肉もこめて一度煽った事もあったが、俺は依織一筋だよ、といつもの笑顔でさらっとかわされたしまった。確かに宗介が誰かに愛を囁く場面も、もっと言えば告白されている現場すら一度も見た事がない。
よっぽど上手いかわし方をしているのか。いや、そもそも裏でどんな圧力をかけているんだか、と彼の本性を知る少女は両手で持っていた湯飲みをそっと長机に置き、依織は一つため息を吐いた。
今は國依はいない。かつて依織の横にいたはずの少年には、依織よりも大事なものが出来てしまった。
鷹子だけが変わらず、宗介の茶碗に米をよそっていた。
別に宗介が嫌いな訳ではない。
物件として悪くはなく、自分以外にこいつの嫁が務まるとも思えない。
かつては諦めていた。自分には宗介と結婚するという決められた未来しかなく、この家から出る事のない囚われの存在として一生を送るのだと。そこに、真壁は新たな選択肢を提示してきた。真壁なら、運命を変えられる。
吸血鬼である、真壁にしか出来ない事。
その意図するであろうものを理解した瞬間、依織は手にしていた箸を思いっきり落としてしまった。
カラカラという音を立て、箸が机の下に転がっていく。
「依織?」
名を呼ばれはっと目を瞬けば、目と鼻の先に宗介の顔があった。
「ごめん、ちょっとぼーっとしてて」
ぎこちない笑顔に宗介の眉間に皺が寄る。
落ちた箸を拾おうと机の下に伸ばされた依織の手首を掴み、険しい顔のまま口を開く。
「手、震えてる」
返された沈黙、大きく見開かれた眼鏡越しに揺れる紫に、依織の手首を掴む力が増す。
「一体、何を隠してるんだ?」
「何も」
冷静を装っているようで、依織の声は震えを帯びている。
心の奥をひた隠しにするかのごとく、依織は硬く強く手のひらを握りしめた。
「俺には何も話してくれないんだな」
「え……?」
「ごほん」
それまで黙って成り行きを見守っていた鷹子の咳払いを合図に、呆気なく依織の手首を解放し、宗介はあっけらかんとした笑みを浮かべ立ち上がった。
「うお、やっべ。もうこんな時間か。行くぞ!」
「ちょっ……と!!」
一度離した依織の手首を再度掴み、無理矢理少女を座布団から立ち上がらせると、二人分の鞄を空いたもう片方の腕で掴み取るとずかずかと玄関へ依織を引っ張って行った。
足が絡み転びそうになる依織を無視し、宗介は鷹子に行ってきますと軽く手を振り、依織を外に連れ出す。
背後からは鷹子の声が聞こえていた。
靴を履き、連れられるがままに家の門をくぐってすぐ、宗介は本来通る予定のない倉橋本邸を出てすぐの角を曲がり、薄暗い裏路地と依織を引き込んだ。
二人分の鞄を乱雑に道の突き当たりに投げ、依織の頭のすぐ横に両腕を突きつけ、壁に縫い付ける。
「なんでもない訳ないだろ。……もう一度だけ聞く。一体、俺に、何を、隠してるんだ」
凄味すら感じさせる宗介の真顔に、依織は何も答えられなかった。
「どんな依織だって受け入れてみせる、愛してみせるって、 前に言ったよな? 今だって、大概の事は許せるし、今依織が誰を好きだって構わない、この際今だけなんだし、浮気だって大目に見ようって。そう、思ってたよ」
過去形だった。自虐的な笑みに影がかかる。
「最終的に依織が俺のものになるんだったら、なんだって良い。……けどさ、今依織が考えてるだろう事だけは絶対に駄目だ。誰が許しても俺だけは許さない」
「……まるで、私を本当に愛してるみたいな言い方をするのね」
「ああ、愛してるよ」
真剣に返された言葉に、依織は凍りついた。
認めたくなかった、気付きたくなかった。否、本当はずっと前から知っていた筈だった。
気付いていて、見ない振りをしていた。
冗談のように零される言葉を冗談だと流し、彼の気持ちを見ようとしなかった。
真剣に受け止め、動けなくなるのが怖かった。
宗介が黙認しているのを良い事に、依織は甘えていた。
「ずっと前から、依織だけが欲しかった」
真っ直ぐにぶつけられた好意に、依織の中の罪悪感は際限なく膨らんでいく。
「私は……わ、たし……は」
駄目だ。彼の想いには答えられない。
脳裏を過るのは暗い目をした壮年の男だった。
言い淀む依織に痺れを切らしたのか、依織の足の間に自身の片足を押し込み、宗介は依織に顔を近付けた。
「もう二度とあの男には会わないって、俺の花嫁になるって誓って」
ぐりぐりとわざとらしく足を動かし、宗介は依織の耳を食むような形で囁きかける。
助けは来ない。薄暗い路地に二人きり。
助けを呼んだところで、相手は家に決められた婚約者だ。カップルの痴話喧嘩くらいにしか思われない。
「誓わないって、言ったら」
「この場で犯す」
放たれた重低音、完全に座り切った目に本気なのだと悟った。
「依織が俺を選んでくれるなら、その時までは待ってあげる。どうする? あ、俺はどっちでもいいよ。どうせ、依織は俺の妻になるんだから」
今囚われるか、一年後囚われるか。
どのみち未来は変わらない。それならば−−
「……分か……った」
「ちゃんと言って」
延命措置だとは分かっている。それでも、依織はもう少しだけ自由でいたかった。
煽るように浮かべられた笑み、刺激を加えようとあからさまに押し上げられた足。
依織は思わず出そうになる扇情的な声を必死に堪え宗介を睨みつけるも、返ってくるのはわざとらしい笑みだけだった。
「もう蔵には行、かない」
「うん、それで?」
「ちゃん……っと、そ、すけと、けっこ、ん、する、から!」
だから早く足を退けろ。
歯を食いしばり気丈に自身を睨みつける少女に、宗介は満面の笑みを返し、依織の望み通り足を退けた。
「貴重なものも見れたし、今日はこれくらいで勘弁してあげる」
顔を赤らめ目を尖らせる依織に背を向け、宗介は放り投げた鞄を拾い上げた。
「約束、ちゃんと憶えていてくれよ。だって俺は」
「怒らせると怖い、でしょ。もう耳タコよ」
無理矢理宗介の腕から自身の鞄を奪い取り、依織は宗介に背を向け逃げるように走り出した。
初めて目にした幼馴染の明確な情欲の籠った眼差し、示された好意を振り払おうと頭を振り足を動かし続けるも、タールのように絡みついて離れてくれない。ベタベタと依織を汚していく。
「あれ、今日は彼氏とは一緒じゃない訳?めずらしいね、喧嘩でもした?」
校門の前、たまたま居合わせた友人にそんな事を言われた。
「……悪いのはあっちだから」
「え、ちょっと依織?」
悪いのは自分の方、全ては心を傾けてしまっている自分のせい。
依織が宗介を追い詰めた。それは分かっている。
分かっているからこそ、行き場のない不快感は収まりそうになかった。
それから月日は流れ、中学校の卒業式まであと一ヶ月という時分になった。
依織は宗介との約束通り蔵に通うのをやめた。宗介も約束通り依織に手を出そうとはしてこなかった。
真壁修一という男に対して、未練がないのかと言われれば、勿論ある。それどころか引きずりまくっている。
今だから言える事だが、依織の初恋は真壁だったのだ。
数えるのも馬鹿らしくなるほど歳上の、それも人間ですらない存在だが、確かに依織の心は奪われていた。
「旦那様がいるのに考え事?」
「未来の、でしょう」
「まあ、どっちでもいいじゃないか」
宗介は爽やかな笑いを零した。
縁側に腰を下ろしている依織に背後から覆いかぶさる形で抱きついている宗介は、白い息を口から吐きながら依織の腹部に回した腕に力を込めた。
2月の中旬、昼間でも寒いだけあって、夜は一層冷え込む。
「あと少しで、依織を俺だけのものに出来る」
どこか感慨深げに呟き、宗介は依織の首筋に顔を埋めた。
「律儀ね」
「約束を破るようなクズだとは思って欲しくないからな」
「あっそ。……前から疑問だったんだけど、私なんかのどこに惚れたの」
「んー……全部」
「はぁ?」
「そうそう、そういうとこが好きなんだ」
宗介は上機嫌で依織を強く背後から抱きしめた。
それからまた時は流れ、待って欲しいと願う依織を置き去りにして、いよいよ明日が卒業式という日になった。
「約束、憶えてるよな」
「分かってる」
夕飯の席、内緒話のようにして告げられた言葉に、依織は静かに頷いた。
明日は依織にとって人生最後の学校。だが、宗介や國依にとってはそうではない。
彼らは表向きは普通の子供と同じように高校、大学に進学し、教養を深めていく。
跡取りである國依に他に道はないが、宗介にはまだ掴み取れるものがある。
それが羨ましくもあり、同時に憎くもあった。
「姉様、一体何の話ですか?」
可愛らしかったのは過去の話。
今では、宗介程ではないが依織の身長をとっくに追い抜いた國依が、怪訝な眼差しを依織と宗介に向けた。
「んー、お子様な弟クンにはまだ早いかな」
「誰がお子様だ誰が!!お前だって僕と一つしか変わらないくせに!!」
「國依」
「すみません姉様」
依織の一声に縮こまる姿は昔のままだ。
確かに國依は依織を慕ってくれてはいる。父親の次に大切な人、になっただけで。
國依は妄信的な倉橋の信者だった。
依織が尊敬しているのは倉橋に従順な姉であり、依織本人ではない。
この数年で、依織はそれをひしひしと実感していた。
その日の晩、依織は縁側へ通じる自室の襖を開き、蔵を眺めていた。
かれこれ1年近く、あの蔵には近寄っていないことになる。
最後の自由の日に、無性に真壁に会いたくなった。
依織の心はあの日のまま、最後に蔵を訪れた日から止まったままだ。
「真壁……」
ぼそりと呟けば、ひときわ強い風が依織の髪を揺らした。
どうせ、明日の卒業式が終われば依織は囚われの身だ。
最後に一目会ったところで、咎められはしないだろう。
寝巻きの上にカーディガンをはおり、依織は久方ぶりに蔵への道を一歩一歩進んでいった。
これが最後かと思うと、感慨深いようにすら思えてきた。
じゃりじゃりと、砂利を踏み鳴らし、依織は久方ぶりに蔵の大扉の前に立った。
相変わらず巨大な扉は幾重にも鎖が張り巡らされており、ただ事ではないという雰囲気を醸し出している。
依織が錠に触れた刹那、音を立て鎖は呆気なく外れてしまう。
これも真壁の言う「耐性」とやらの力なのかは定かではない。
確かなことは、依織にはこの蔵のロックは通じないという事だけだ。
ゆっくりと蔵の地下へと降りていく。
壁に取り付けられた燭台の炎は全て消えていた。
真っ暗闇を壁に手をつきながら慎重に下っていく。
「久しぶりだな」
先に声を発したのは真壁の方だった。
依織が階段を完全に降り切っても真壁は灯りを灯してはくれなかった。
瞳を閉ざしているのか、真壁の赤い目すらも見えない。バン、と激しい音を立て背後の扉が閉じる。
あたりは完全な暗闇だった。
何かがおかしい。胸に片腕を当て、依織はきょろきょろと視線を動かすも、闇に慣れていない瞳は何も捉える事はない。
「……灯りを点けて欲しいんだけど」
「まぁまぁ、そう焦るなよ」
闇に巣食う獣は戸惑う依織をあざけり笑う。クツクツとした今までに聞いた事のない不気味な笑い声を上げる。
幼子をたしなめるかのようにそんな風に告げた瞬間、赤い目が依織の眼前の暗闇に浮かび上がった。
「貴方、本当に真壁……?」
「おいおい、今更何言ってんだよ」
聞きなれた呆れ声に、ほっと一つため息を吐く。確かに目の前にいるのは真壁修一その人らしい。
「なぁ依織。お前明日には婚約者と事実上結婚するんだって?」
「……そうなるわね」
「俺の言った事は憶えてるよな」
「ええ」
「俺もあれから色々考えた。お前を困らせるような事を言ったのは素直に謝る。が、俺にもそれなりに覚悟ってもんがあんだよ」
再び声から表情が消える。冷淡な物言いは依織の知る真壁とはかけ離れていた。
「これが最後のチャンスだ。今度は濁さずにちゃんと聞いておくぞ。依織、俺の花嫁になる気はないか」
「……今更、そんな事言わないでよ」
もうこれ以上宗介を裏切る気はない。その筈だった。
今回ここを訪れたのは、真壁への想いに区切りを付ける為だ。
きっとひどい顔をしている。顔をくしゃくしゃにしてみっともなく涙を流している様など絶対に見せたくない。
灯りを消していて良かった。こんな顔を誰かに見られたら死んでしまう。吸血鬼である真壁には、もしかしたら見えてしまっているのかもしれない。だが、白日のもとに晒されるよりは幾分マシに思えた。
「それがお前の答えだな」
威圧的な真壁の言葉に、依織は黙り込んだ。
はい、とも、いいえ、とも答えないだなんて、傲慢にも程がある。
だが、依織とてそれどころではないのだ。
様々な感情が爆発し、頭の中をかき乱していく。
嬉しい、悲しい、怒り、そんな感情が混ぜこぜになってどす黒い色に染まっていく。
「分かった」
瞬間、強い力で腕を引かれた。
突然の事に、身構えていなかった依織はされるがままに床の上に倒れこむ。
何が起きているのかも理解できず、呆然と頭上の赤色を見上げた。
ようやく暗闇に慣れてきた依織の目が捉えたのは、真剣な眼差しで依織を組み敷く見慣れた男の姿だった。
「悪いな」
「何……を……」
「惚れた女をみすみす他の男に渡してやる程、俺は優しくねぇんだ」
ガチャン、と甲高い音を立て、鉄格子が閉じる音がした。
狭い部屋の中に二人きり、相手は吸血鬼、扉は二重に閉ざされており、逃れる事は不可能に近い。
ああ、だったら仕方ない。
逃げる事はできない、真壁が逃がしてくれない。
ああ、この男はどこまでも依織に甘い。
心のどこかで、こうなる事をきっと望んでいた。
寝巻きを暴き立てる優しい獣の首に、依織はそっと腕を回した。
瞬間、びくりと震え真壁の動きが止まった。
自分から始めたくせに、強引になりきれない。
そんな男だからこそ、依織の心は奪われたのだ。
「真壁」
どんな罵詈雑言が飛んでくるのかと、きっとびくびくしているに違いない。
もう、どうにでもなればいい。心の奥底で宗介への罪悪感を感じながら、依織は真壁の頭を自身へと引きつけた。
動揺する真壁を置き去りにし、依織はずっと心に秘め続けてきた言葉を甘やかに吐き出した。
今だけ告げる事を許される魔法の言葉。
日が昇るまでの短い短い束の間の夢幻。
「好きよ」
初めて目にした少女の満面の笑みを、真壁は心に深く刻み込んだ。
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