アイレン[
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「どこまで知ってるの」

「どこまでって……何が?」

「とぼけないで」

焦る依織などつゆも知らず、踏切の中を全速力で列車は駆け抜けていく。
ごおごおと音を立て、二人の前を列車が走る。
宗介の短髪が強風に揺れていた。

「それは俺の台詞だよ」

訪れた沈黙。カーンカーンカーンと、バーが上がると同時にけたたましいサイレンがあたりに響き渡る。
踏切を渡る人々の中、依織と宗介だけが時が止まったかのようにその場に留まり、動けずにいた。

「依織は、何を、どこまで、知ってるの?」

その時見た幼馴染の顔を、依織は一生忘れないだろうと思った。
にぃっと、限界まで口角を釣り上げ邪悪に笑む。
宗介の内に秘めた闇が、初めて依織に牙を向けた瞬間だった。
鬼、悪魔、邪悪なんて表現では生ぬるい。それこそ邪神。そんな単語でしか形容しようがない、おぞましい顔。

「なにも」

震える声で気丈に告げた少女に、宗介は元どおりの貼り付けたような面で笑むだけだ。

「そっか」

首元に付けられた歯型が、にぶく傷んだ。
学校に着いても、依織は宗介の顔をまともに見ることができなかった。

「それじゃ、また帰りに」

靴箱の前でひらひらと手を振り、宗介はもたつく依織に背を向け階段を一人上って行ってしまった。
おはようと声を掛けてくれた友人の声がどこか遠くに聞こえた気がした。

夕方、学校から帰宅し、自室へと戻ろうと廊下を歩いていた依織の反対側から田口がやってきた。
よれた無地のYシャツ、ズボンのポケットに両腕を突っ込み、気だるげにこちらに向かってきていた男は、依織の存在に気づくやいなや、尻尾を振る犬のように満面の笑みを浮かべ駆け足気味でこちらへ向かってきた。

「おけぇりなさいやせ!お嬢!!」

田口に頭を下げられる度、依織の脳裏にはいくつかのの単語が過る。
極道映画、Vシネ、ヤクザの娘。
だが、今の依織にはそんな事はどうでもいい。
今の田口は酷く上機嫌に見えた。それもそうだろう。彼が鬱憤を晴らす現場を、依織はその目で目撃してしまった。
昨夜とは打って変わって朗らかな田口に、依織は思わず一歩後ずさっていた。

「た、だいま」

「どうかしやしたか?」

いかめしい眉をしかめ、頭を上げた田口は首をかしげた。
彼には昔からよくしてもらっている。
依織にとっての田口という男は、感覚的に言えば親戚のお兄さんである。
倉橋の本邸に女はあまりいない。男所帯の中、依織は蝶よ花よとばかりに可愛がられて育った。依織本人にもその自覚はある。
どれだけ顔だけで人を殺しそうな顔をしていても、それは田口とて例外ではない。
飴とおつまみの残りを貰った回数は数知れず。お年玉も依織の歳の数だけ貰っている。
宗介には昔から冷たく当たっていたが、ライバルとなり得る事のない依織には優しかった。
それなりに、情もあれば感謝もしている。
だが−−

「なんでもない」

逃げるように自身の横をすり抜けていった少女に、田口は怪訝な視線を向けていた。

「あれが噂に聞く思春期ってやつか……」

的外れな発言だけが、誰に届くでもなく虚しく廊下に響き渡っていた。


*  *  *


「お前はアホだ。正真正銘のアホ、馬鹿、このうすらとんかち!」

その日の晩、かつてのように蔵の地下に現れた依織へ飛んできた第一声はそれだった。
確かに馬鹿だな、と依織自身も自覚している。
あれだけ酷い目に合い、宗介からも散々念を押されていたというのに、こうして懲りずに真壁の元を訪れている。

(馬鹿でアホなのは認めざるを得ないけど、うすらとんかちって……)

幾ら何でも古すぎやしないか。
依織は半笑いのまま、鉄格子へ近付き、格子の間に指をかけ、壁を背に腰掛けている真壁を見下ろした。

「おっさんくさ」

「誰がおっさんだ誰がァ!!あァ!?」

少しばかり身を乗り出し、野良猫のように毛を逆立てた男に、依織はぶっと吹き出してしまった。
真壁は大きい。座っていても、かつての依織と同じくらい身長があった。
昔なら、立っている依織と座っている真壁。二人の視線は同じだった。
それが今は、依織が真壁を見下ろす形となっている。
昨夜とは打って変わって血色も良く、かつてのように冗談を飛ばしてくる真壁に、依織は酷く安堵していた。

「相変わらず変な女だ」

溜息を吐き、真壁は視線を逸らした。
男の目には、どこか迷いがあった。
負い目など感じる必要はないというのに。
負い目どころか、あの時の依織を満たしていたのは底知れぬ充足感だけだった。
今、確かに自分は必要とされているのだという勝手な自己満足と、自分の一部が真壁の糧となり血肉となるのだ、という仄暗い悦び。それだけが依織を蝕んでいた。

「で?……体の方は?」

ドスの利いた声で何を言うかと思えば、どうやら心配してくれているらしい。
まっすぐに依織を見つめる赤い瞳は伏せ目がちになっていた。
ぞわりと、依織の体の奥から何かよからぬものが湧き上がってくる。
昨晩、意識を失う寸前に見た真壁の顔が脳裏を過る。あんなに必死な真壁は本当に初めて見た。
いつも良いように弄ばれていた幼少期が色鮮やかに蘇ってくる。依織はまだ小さな子供で、今だって真壁に比べれば依織なんて人間はちっぽけで安っぽいしがない小娘でしかない。
真壁が吸血鬼だというのは、昨日で痛いほど理解した。
そんな自分が、ほんの少しでも真壁修一という男から特別に思われているとするのならば、それはどんなに。

「名前」

「あ?」

掛けられた怒号にもひるまず、依織は続きを紡ぎ出していく。

「お前じゃなくて、依織」

「突然何言って」

「昨日は呼んでくれたじゃない」

瞬間、苦虫を噛み潰したような顔になった真壁に、依織は堪えきれずにまたしても吹き出していた。

「お前ってやつは!人が真面目に心配してやってるってのに!!」

「あ、心配してくれてたんだ」

「お前は俺をなんだと」

「なんだっていいじゃない、別に」

しゃがみこみ、依織は座っている真壁に視線を合わせた。
じっと見つめていると、ふいと居心地悪気に真壁の視線は逸らされた。

「変なやつ」

呆れたような呟きにも、依織はめげなかった。

「そうよ、私は変なやつなの。そもそも、こんな所に何回も来てる時点で普通じゃないわよ」

「あーもう!!お前には負けたっ!!もういい好きにしろ!俺は知らん!!」

「うん、そうする」

ちらり、と伺うように戻された真壁の瞳と視線がかち合った。
依織はきょとんと瞬きを数度繰り返し、まじまじと真壁の瞳の中を覗き込んだ。
赤い目は鈍く輝くだけで何も読み取らせてはくれない。轟々と山火事のように激しく燃える炎ではなく、暖炉の奥で燻っている鈍い焔。薄暗くも人を捉えて離さない居心地の良い不気味さに、依織は魅入られていた。
この目が好きだ。呆れと絶望の中に入り混じった物騒さと、微かな光。その中に自分が写り込んでいるのは酷く心地いい。

不意に、真壁が立ち上がる。
ここに来て、久方ぶりに依織は真壁の長身さを思い知った。
微かな蝋燭の灯りに照らされた暗く長い影が依織の上に落ちる。
真壁が依織に一歩一歩と近づいてくる度に鎖が地面に擦れる鈍く重い音が依織の耳に入り込んできた。
吸血鬼は、依織が鉄格子から手を伸ばせば触れられる、という距離までやってくると、その場に胡座をかき、座り込んだ。
すぐ近くに、目と鼻の先に、真壁の顔がある。

「昨日はその……ほんとに悪かった」

申し訳なさそうに首筋に視線を落とし、唐突に下げられた頭に、依織の方が困惑してしまった。

「あれは、その……」

「気にしてない」

言うと同時に、依織は下げられた真壁の頭の上におもむろに手を乗せた。
わしゃわしゃと伸ばされっぱなしの長い黒髪を、野良犬を撫でる感覚でかき乱していく。
最初はびくりと肩を震わせていた真壁も、止めても無駄だと悟ったのか、苦い顔をしながら依織にされるがままになっていた。

「真壁は悪くない」

「なら、軽蔑したか?お前の身内を」

「それは……嫌いになってない……って言ったら嘘になる」

真壁は倉橋という家に囚われた獣であり、それと同時に都合のいいサンドバックでもあり、ストレスのはけ口だ。
こんな所に吸血鬼が囚われている理由なんて、最初からそれくらいしかなかった筈だ。昨夜の事件で、依織はようやくそれを理解した。きっと依織は、自分の家がしている事から目を逸らしたかっただけなのだ。
もしも、この世にいる吸血鬼全てが真壁のような人間だとすれば、倉橋の家がしている事は鬼畜以外の何者でもない。
考えてゾッとした。
鬼畜どころか、それではただの虐殺だ。
世界史の教科書に出てくるような迫害と何も変わらない。

「吸血鬼って、みんな真壁みたいにお人好しなの?」

「俺がお人好しかはともかく、俺はあまり同種ってやつに出逢った事はねぇし、詳しくは知らねぇよ。ただ、そうだな……」

真壁の顔がどこか懐かしむようなものに変わった。
だがそれは一瞬の事であり、次の瞬間には心底嫌そうに顔を歪めていた。

「人間と同じで、吸血鬼にも色々いんだよ、色々。だからまぁ、お前の家が必ずしも間違ってるとは言い切れねぇと思うぞ」

「真壁は嫌じゃないの?」

「吸血鬼が殺されるのが?別に、どうでもいいさ。俺とは関わりのない赤の他人なんだ。そりゃ、多少は同情するが、俺は我が身がかわいい。ここでサンドバックになってりゃ、命ととりあえずの食料は確保されるんだ。そんなら、俺はストレス発散器具兼ペットでいる道を選ぶね」

心配する依織をよそに、真壁は飄々としている。それどころか、ここから逃げる気はないという。
進んで捕らわれているとさえ捉えられる発言に、依織は顔を歪めた。

「それでいいの?」

「んな顔すんなよ、俺は好きでここにいんだし」

「私は嫌」

「嫌って言われてもだな」

「……こう……何かしたい事とかないの?」

そうだなぁ、と真壁は顎に腕を当て、眉をひそめながらウンウン唸り始めた。

「ねぇ事はねぇよ、一応」

ニヤニヤとした意味深な笑みを浮かべた男に、依織は眉をしかめる。

「何よ、その顔」

「別にぃ?ま、お子様にはまだ早いってこった」

「どういう意味」

「な、い、しょ、だ」

身を乗り出した依織の額をひとさし指で軽く押し、真壁は口の端を上げた。
その日、真壁は依織を眠らせはしなかった。
依織は自分の意思で真壁に会い、自分の足で寝室へと戻った。
依織を拒まなかった。

それだけの事にやけに興奮している自分がいた。
膝を抱え顔を埋め、依織は誰に見られるでもないのに、緩む頬を必死に隠していた。
月明かりだけが依織の姿を闇の中に浮かび上がらせる。
今夜はなかなか寝付けそうにない。

また、会いに行こう。そう、膝を抱える腕により一層強い力を込めた。
不服ではあるが、昨晩の出来事で真壁との関係が確実に変わった。越えてはいけない一線を越えてしまった。
もう後戻りはできない。するつもりも毛頭なかった。

翌朝、宗介はいつも通りだった。
特に依織を追求するでもなく、いつもと同じように大量の白米を掻き込んでは國依に気持ち悪いと罵られていた。
時折、何か言いたげな視線を依織に向けはするのだが、結局何も言わず、黙って米と一緒に飲み込んでいた。

毎晩ではないが、様子見もかねて、依織は再びかつてのように蔵を訪れるようになった。
元気そうな真壁を見る度、ほっと胸を撫で下ろし、鉄格子の先に囚われた獣をじっと見つめていた。
食事の現場を目撃しても、依織はもう逃げなかった。
何度目かの食事に遭遇した時、一度真壁に問いかけたことがある。

「美味しい?」

「さぁな」

忌々しげに女の首元から真壁は顔を上げた。
口の周りに付いた血を拭いもせずに、再び間髪入れずに首筋にむしゃぶりつく。

「こんなもん見てて楽しいか?」

「別に」

鬼に抱かれた女の顔は青い。
身体中の血という血を全て啜り取られている。
死にかけ、いや、もしかしたらもう死んでいるのかもしれない。
白目を剥いた女の形相からは全く生気を感じなかった。

楽しくはない。楽しくはないが、別段気持ち悪くもない。
この状況に慣れてしまった。無感動なのだ。それが一番恐ろしいと感じた。
ここにいると感覚が麻痺する。
楽しくもない、気持ち悪くもない、むしろ、どうして真壁は自分を食べてはくれないのだろうかと、いつしかそんな事を考えるようすらなっていた。

最初、真壁は依織を食い殺す為に呼び寄せたはずだ。
美味そうだとも言っていたし、実際に依織の血を口にした時、状況が状況とはいえ、真壁は吸い尽くさんばかりの勢いで依織の血を啜っていた。
もうとっくに治った筈の首筋がぞくりと甘やかに疼く。
そんなにも嫌そうに飲むくらいなら、そんな女の血なんて飲まなければいいのに。
真壁になら、いくらでもあげるのに。

黙って見つめていても、何も答えは返ってこない。

「ああクソッ」

喉の奥から絞り出されたそんな叫びを上げ、真壁は忌々しげに女の首を食い破った。

やがて一年が過ぎ、國依が中学に上がった。
宗介の時と同じように、國依も倉橋の人間として狩りに同行する事になったのだと、國依本人が嬉々として依織に語って聞かせた。
キラキラと輝く瞳で今日一匹殺したのだと話した時、依織は國依がどこか遠いところに行ってしまったように感じた。
いや、そもそも弟は最初から依織と違う場所を見ていたのだと、その時になって依織は初めて理解した。

國依も宗介も、なかなかに優秀な人材らしい。
だから、依織は待っている。
誰かがその鬱積を持って、真壁の元を訪れる日を。
この家は異常だ。だから、依織がおかしくとも責める者はいない。
誰にも、責めさせはしない。

「真壁」

この時を、ずっとずっと待っていた。
手負いの獣は虚ろな眼差しで依織を捕らえ、離さない。
ずるい事をしている自覚はあった。だが、こうでもしないと真壁から依織に触れてはくれないのだから仕方がないではないか。

檻の扉を開け、蹲ったまま動こうとしない真壁の側に座り込んだ。

「ま、か」

名前を呼び終える前に、依織の体は真壁の腕の中にあった。
そうだ、これでいい。これで、いい。
男が息を荒げる度、男の手首に取り付けられた鎖がじゃらりじゃらりと歪な音を立てる。
首筋にあてがわれた牙に、依織はそっと瞳を閉じた。






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