偽りの言葉
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結局、由香は茜の見せた物憂げな顔が忘れられず、どうにも寝付けなかった。
最終的に、由香が睡魔に負け夢の世界へ旅立ったのは早朝五時の事だった。

朝六時三十分。ガンガンと頭にダイレクトに響いてくる、起床時間を知らせる目覚ましの音に、無理矢理意識を覚醒させられる。
眠気に閉じかける瞼を必死に押し開けて、由香は制服に腕を通した。
此処で我儘を言って睡眠を続けるべきじゃない。
ばしばしと気合を入れるように両頬を叩き、由香は部屋の扉を開けた。

と、同じくつい先程部屋から出てきたのであろう和真と鉢合わせた。
彼の顔色も普段より心なしか悪い気がする。

「隈、凄いぞ」

気遣いと昨日の謝罪の言葉を掛けようとして、先を越された。
和真は由香の目の下を不機嫌そうに指差した。

「寝れなかったのか」

「……和真こそ」

「俺は慣れてるからいい」

「慣れてるって……」

それは、いつも夜な夜な吸血鬼退治に出かけているという意味と受け取ってもいいのだろうか。
さも、当たり前のように言ってのける和真に、胸を締め付けられた気がした。

無茶はしないで、と口を開きかけて、その言葉を彼に掛けるのは身勝手な自己満足でしかないと、必死に出掛けた言葉を引っ込めた。

彼には彼の矜持なり信念がある。
そこに由香が口を挟む事は和真に対する冒涜だ。
和真自身が選択した事なら文句は言えない。
和真に口を挟むなと言っておきながら、彼に対しては文句を付けるのはフェアではない。
由香は俯き歯を食いしばった。

「おはよう、由香」

背後から突如聞こえた穏やかな声と共に、肩にぽんと両手を載せられた。
びくり、といきなりの事に心臓が跳ねる。
それから、しばらくしても鼓動はなかなか収まる兆しを見せなかった。

「二人共どうかした?なんだか憔悴してない?」

聞こえる声は間違いなく兄の物だ。
肩に置かれた腕には力が込められておらず、柔らかく触れられているだけ。
とにかく、何としても兄に体調不良を悟られまいと、由香は必死に笑顔を繕った。

「お、おはよう。お兄ちゃん。……なんでもない。心配しないで」

「こいつもこう言ってる事だし、お前には関係ねぇよ。いい加減に妹離れしろシスコン」

叶夜から引き離そうと和真が助け舟を出してくれるのだが、叶夜は一歩も引かない。
睨み付けられ、あからさまな苛立ちを向けられて尚、叶夜は微笑みを崩さなかった。

「関係なくはないと思うけど?由香は僕の妹だ。なら、体調を気遣うのは当然じゃないかな?……顔色が悪いね、眠れなかった?」

叶夜は由香の肩越しに少女の顔を伺い見た。
耳にかかる吐息に、そのあまりの距離の近さに、由香は真っ赤になりながら咄嗟に叶夜の腕を振り払っていた。

「だ、だ、大丈夫!本当に大丈夫……だから!!」

「と言う事らしいが、どうするんだ?お前、これ以上こいつを追求するのは大人気ないんじゃないのか」

言いながら、和真は由香と叶夜の間に立ち塞がった。いつの間にかたくましくなった従兄の背中越しに見た叶夜は、心底愉快そうに口の端を上げていた。
暗い感情を隠しもしない顔に、悪寒がした。
だが、次に瞬きをした瞬間。
叶夜の表情は普段由香が目にする優しい兄のものに変貌していた。

「そうだね。由香が気にするなって言うなら、僕は大人しく引き下がるよ」

にこにこと微笑みながら、叶夜は由香に目線を向けた。

「怖がらせてしまったならごめんね、由香」

眉根を下げ申し訳なさそうに微笑む叶夜は、由香の良く知る兄だった。

「……ううん。大丈夫。私こそ、心配させてごめんなさい。……本当に、なんでもないの。少し、寝不足なだけだから」

それは嘘ではない。今も気を抜けば寝てしまいそうな程眠い。
しかし、叶夜には知らせるべきではないのだ。
キャロラインの事も、ロザリアの事も。
昨晩大事な妹が殺されかかったと知ったなら、きっと叶夜は正気ではいられなくなる。
それだけは避けなければと、由香は誤魔化すように微笑みを浮かべた。

食卓の空気は、昨晩と比べて比較的穏やかなものだった。
叶夜はこの前のように変な接触を求めてくる事はなく至って普通、可奈も茜も明るくいつも通り、和真だけはぴりぴりとした雰囲気で叶夜を終始睨み付けていたが、朝の事もあり、仕方のない事だった。

その後、無理矢理行きも由香を送り届けようとする叶夜を、茜と和真二人がかりで止めるというひと悶着があったものの、それ以外は至って普通。変化無しだ。
帰りに迎えに来るという叶夜の決定が覆る事もなかった。
ただ1つ変化があるとすれば、授業中に襲い来る睡魔が何時もの比ではないという事ぐらいだろうか。

「青桐さん、大丈夫?」

昼食の時間。弁当の入った包みを開きながら、依織は心配そうに由香の顔を覗きみた。

「え?あ……うん。ちょっと……寝不足」

「……何かあった?」

「……何でもないよ、大丈夫」

いくら彼女が良くしてくれるからと言って、これ以上深いところに彼女を巻き込む事は出来なかった。
それに、昨日の出来事は全て由香の責任だ。由香の不甲斐なさが招いた事態。キャロラインの苛立ちは当然のものだった。
それを、何でこんなことに、と嘆くのはお門違い、責任転嫁もいいところだ。

起きてしまった事はどうにもならない。
全部受け止めて消化する事しか、由香には出来ない。

「青桐さんに話す気がないなら無理には聞かないけど。……で?デート計画の方は順調?」

「ちょっと、厳しい……かも……」

ぱくりと卵焼きを箸でつまみながら告げられた依織の言葉に、苦笑いで返す。
叶夜からの外出禁止令は、解かれる兆しが全くない。
これで日曜日デートするなどと言ったら、心配症な叶夜の事だ。相手の男を殺すだの本気で言いそうで怖い。

「外出禁止令、解いてもらえないかお兄さんに相談してみれば?」

「え……、そ、それは」

「もっと強く出てもいいんじゃないの。青桐さんは」

「で、でも」

「ルフラン先生とはもう約束してしまったんだし、今更断れないと思うけど」

箸を置き、依織は真っ直ぐに由香の瞳を射抜いた。

「好きなんでしょう、ルフラン先生の事」

確かにキースの事は好きだ。
名前を聞くだけで顔が赤くなる程度には自覚している。

だか、周りを散々振り回しておいて自分だけがいい思いをしてもいいものなのか、それは許されてもいいものなのか、という自問を何度も何度も繰り返してしまう。

浮かぶのは、心の底から青桐由香という人間の存在を全否定し憎んでいる赤い髪の女性と、自分の全てを犠牲にしてでも必死に守ろうとしてくれた少女。
そして誰よりも自分を愛し、そばで見守っていてくれた、幼少期の由香の全てと言っても過言ではない優しい兄の姿。

それらの思いを蹂躙し、芽生えた仄かな恋心に身を委ねられる程、由香は真っ直ぐな人間ではなかった。

だからこそ、差し伸べられた甘やかな誘惑に素直に乗る事が出来ない。

「全てを選ぶ事なんて出来ない」

「……え?」

「選び取れるのはいつだって限られたものだけ。これだけは言っておくけど、全てを選ぶなんて都合のいい事は出来ない」

「……依織ちゃん」

「そろそろ腹を括った方がいいと思う。たくさんのものを犠牲にしてたった一つの物を選び取る。……吸血鬼の花嫁って、そういうモノだから」

そう、どこか遠くを見ながら呟く彼女は、空の彼方に向かって呼び掛けているようにも見えた。

倉橋依織という少女が何者か、等由香には想像も着かない。
だが、彼女が心の奥底に抱えるものは、由香のような矮小な少女とは違い、酷く重厚で濃密なものであるような気がした。

「お前、いい加減に諦めたらどうだ」

「……何の事?」

放課後、叶夜は相変わらずにこにこと、笑いながら夕日を背に校門の前に立っていた。
陽炎がゆらゆらと輝き、瞬きをした瞬間には消えてしまいそうな、そんな儚さと妖しさを纏った叶夜は、何時も以上に魅惑的に写った。
妹である由香ですら息を呑むそれに、彼を幼少より恋い慕う少女が呑まれない訳がなく、可奈は両手を胸の前で握り締め、一心に叶夜を見詰めていた。

しかし、叶夜がその目に写すのは何時だって由香だ。
和真と話しながらも、目線はただ真っ直ぐに迷う事なく由香を捉え続ける。

「……お兄ちゃん」

「うん?どうしたの?」

意を決し、叶夜の目を真っ直ぐ睨みつけ、由香は震える声を必死に紡いでいった。

「わ、私、迎えに来てもらわなくても大丈夫だから……!だ、だからお兄ちゃんはもっと自分の好きな事を!」

「由香は気にしなくていいんだよ。これは、僕が好きでやってるんだから」

だが、叶夜は聞く耳を持たない。
見るに見かねたのか、和真は大きく溜め息をつくと、急に由香の手首を掴み走り出した。

「え!?か、かず……!」

「俺達は用があるからお前らは先に帰ってろ!」

「ちょ、兄さん!?」

今まで叶夜に見とれていた可奈は、いきなりの事態に声を張り上げ和真を怒鳴りつけていた。

流石に今回は叶夜も和真の行動が予想出来なかったのか、あからさまに驚いた顔をして、ぽかんと声も出せずに走り去る二人を見守っていた。

そこで可奈は、はた、と気付いた。

(もしかして、叶兄と二人で帰れる!?)

内心ガッツポーズになり、由香と共に去っていった兄に親指を立てる。
由香の好きな相手はおそらく和真ではない。
だから、和真が報われる事はないのだろう。

(兄さん、相変わらず素直じゃないなー……)

素直に気持ちを伝えなければ、鈍感な由香は気付かないだろうに。
それを分かっていながら言わない所が更にタチが悪い。

(まあ、兄さんそういう方面はほんとに才能ないっていうか、馬鹿だから……仕方ないか)

が、今は兄の恋路の事はどうでもいい。
目先の問題は、ずっと好きだった相手と二人きりで下校というこの状況だ。
シスコンの叶夜が妹から離れるまたとないチャンス。
もうこれを逃せば告白するチャンスは二度とないと言える程の絶好の機会。

「あ、あの……、叶兄。そ、その……」

「帰ろうか」

叶夜の声はどこまでも平坦なものだった。
由香がいる時には全く見せない余所行きの冷たい顔に、すっと恋に白熱していた頭が冷めていくのを感じた。
蘇るのは昨夜見た心底愛しげに妹の髪に口付けを繰り返す、異常なまでの執着心に塗れた叶夜の姿。
それを、必死に首を横に振り否定した。

道中、叶夜は無言だった。
賑やかな喧騒が溢れる帰り道、冷たい眼差しの男はどこまでも静かだった。
真っ直ぐに前だけを見詰め、由香と和真が何処に向かったのかを真剣に思案しているように見える。

その絶対零度の視線と横顔さえ、青桐叶夜という人間が浮かべる全ての表情が、可奈にとってはどこまでも甘美なものだった。

感嘆に溜め息をつきながら、そっと叶夜の横顔を覗き見る。

「可奈」

「な、なに!?」

唐突に名を呼び、叶夜は立ち止まった。
気が付けば、先程まで商店街の中を歩いて居た筈なのに、人気のない林の近くにまで来てしまっていた。
ここから港家まで五分も経たないうちに着く。
それが何故ここで立ち止まったのか。
可奈は高鳴る鼓動に期待をふくらませつつ、真っ直ぐに叶夜視線を一身に受けた。

途端、冷たかった叶夜の眼差しが、愛猫に向けるかのような優しいものに変化する。
突然の変化に困惑するも、好いた男に微笑まれては悪い気はしない。
舞い上がってしまいそうになるのを必死に抑え、可奈は叶夜の言葉を待った。

「可奈は、僕の事が好きなの?」

「え!?な、何をと、ととと突然!!」

「誤魔化さないで答えて欲しいな」

にこにこと、終始穏やかな顔で微笑むものだから、可奈は真っ赤になりながら俯く事しか出来なかった。
まともに言葉を紡ぐ事も出来やしない。

しばらく黙り込んでいると、叶夜の腕が可奈の頬に掛けられた。
昨夜見たような、慈愛に満ちた触れ方に、心臓はますます高鳴っていくばかりだ。

「きょ、きょ、叶兄。わ、わわわ、わた、わた、私!!」

「正直に答えて。僕の事が好き?」

柔らかく問い掛けてくる声に、こくりと可奈は小さく頷いた。

ああもう、罠でも嘘でもなんだっていい。

子供の頃からただ、この誰よりも高潔な人に憧れ続けていた。
この優しさが偽りだって構わない。
一時だけでも愛の言葉を囁いてくれるのなら、優しくしてくれるのなら、なんだって構わない。

いつの間にか、叶夜の顔がすぐ近くまで迫っていた。
その目の奥に確かに浮かんでいた嘲笑、侮蔑、といった負の感情等知らないと、可奈はただ眼鏡の奥の綺麗な目の色に溺れていた。

「可奈は僕に何をくれる?」

「な、何って」

「僕の為に、何をしてくれる?」

「わ、私」

淀む可奈を言いくるめるように、叶夜は微笑みの仮面を貼り付け甘く囁き続ける。

「僕も好きだよ、可奈の事が」

その目の奥に、一片たりとも愛など含まれていないとしても、誠実さの欠片もないのだとしても。

黙り込む可奈を抱き寄せれば、女から叶夜の顔は見えなくなる。
強く可奈の体に腕を這わせながら、叶夜は暗い笑いを堪えるのに必死だった。

だが、そんな事可奈は知りもしない。
長年の恋が叶ったのだと、恋焦がれ続けた男の腕に包まれているなんて、なんと幸せなのかと、ただその腕に身を委ねるだけだ。

偽りでもいい。
一時の幻でもいい。
今確かに、港可奈という人間は幸せなのだ。

そんな可奈の感情を知っていて、青桐叶夜は残酷な言葉を蜜のように注ぎ続ける。

そして、可奈の満ち足りた幸福そうな顔を見届けた瞬間。
叶夜は、可奈から見えない角度で、あからさまな軽蔑を少女に対して向けた。

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