脇役の後悔
ーーーーーーーーーーーーーーー
(寝れない……よ……)
一人自室のベッドにうつ伏せになり、由香はぐっと強く手でシーツを握り締めた。
なんとか高ぶった精神を収めようと必死に目を閉じてみるのだが、全く持って落ち着いてはくれない。
和真の部屋で散々泣かせてもらったおかげか、多少は混乱していた思考が纏まっていたが、それでも嫌な興奮は収まらない。
とにかく着替えて寝ろと和真に活を入れられ、言われたとおりに部屋に戻りパジャマに着替え、彼に言われたとおりに寝ようとしてみたが、全く寝付けない。
あんな事があった後で寝れる程図太くはなかった。
血を流し、それでも由香に対しては笑顔を向けてくれた少女の事を考えれば、嫌でも血の気が引いていく。
ぶんぶんと、後ろ向きな考えをかき消すように枕に頭を押し付け左右に振る。
(……何か飲もう)
温かいものでも飲めば落ち着くかもしれないと、未だに鮮明にならない思考で考え、由香は両手をつき、ゆっくりと身体を起こした。
時計は深夜の三時。和真の部屋から戻った時は二時だったので、もう一時間、時間を棒に降った事になる。
そろそろ寝なければ明日に響く。
もしふらつきでもしたら、また周りの人に余計な心配を掛けてしまう。
(これ以上、迷惑を掛けたくない)
由香は千鳥足で部屋の戸を開け、階段を音を立てないように降り、リビングへ向かった。
意外な事に、こんな時間にも関わらずリビングにはうっすらと明かりがついていた。
一人でいたかった由香には、ほんの少し居心地悪く感じられ、こっそり上に帰ろうとした。
リビングの戸が誰かにより押し開けられたのは、そんな時だった。
「由香ちゃん?」
茜は驚いたように目を見開いていたが、やがて、目を細め聖母のように微笑んだ。
その柔らかな笑みが、今の由香には例えようのない程に眩しいものに見えた。
「どうしたの?こんな時間に。寝られないの?」
彼女はただ穏やかに微笑むだけだ。
明らかに動揺し、瞳を揺らす由香の異変に、気付かないでいてくれる。
気付いてなお、優しい母代わりであろうとしてくれる。
由香がこくり、と首を縦に振ると、彼女はこっちよ、と由香を手招きし食卓の椅子に座らせた。
食卓には既に彼女が飲んでいたのであろうマグカップが置いてあり、彼女の言葉があながち由香を気付かっての嘘でもない事が窺い知れた。
茜自身はキッチンへと向かい、由香の分のお茶を用意し始めた。
「ちょっと待っててね。こういう時は温かいものでも飲んで、リラックスすれば眠れるものよ」
「い、いえ……お、お気遣いなく!」
「いいのいいの。私もなんだか眠れなくて、起きてきちゃったんだし。話相手が出来て嬉しいくらいなんだから」
「その……ありがとうございます……」
礼の言葉に、茜は困ったように微笑んだ。
しばらく、無言の時間が続く。
やがて、茜が温かい紅茶の入ったマグカップを持ち現れた。
「はい、どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
茜は、由香の向かいの席に座ると自身も紅茶を啜り始めた。
もう一度、沈黙が訪れる。秒針の音だけが室内にこだましていた。
「嘉隆さん、どこに行ったのかしらね……」
ほぅ、と茜はカップから口を離し、物憂げに息を吐いた。
彼女も心細いのだろう。
具体的に何が起こっているのかまでは知らないのだろうが、おそらく何か起こっているという事は勘づいている。
それでも、彼女は揺るがないものとして、日常の中に存在していてくれる。
茜の包み込むような優しさが、由香の緊張を少しずつ解していった。
「早く、帰って来るといいですね……。伯父さん」
「そうね……。あの人、普段は子供みたいにお茶目な人なのに、時々凄く怖い顔をする時があるの。だから、心配」
茜の言葉に、あの日見た嘉隆の横顔が脳裏を過る。確固たる決意を感じさせる、獣じみた、穏やかさとは程遠い眼。
商社マンは隠れ蓑であり、本当は吸血鬼ハンター等という仕事をしていると知ったのなら、茜は、この優しい人はどう思うのだろうか。
「……貴女を見てると、奏の事を思い出すの」
唐突に、茜は目を細め微笑みながら、由香の瞳を真っ直ぐ見詰めた。
「お母……さん?」
「やっぱり親子なのね。こうして一緒に暮らしていてよく分かったわ。本当に、何から何まであの子によく似てる」
「お母さんと私は……違……います」
由香の中の、青桐奏という女性像は暗く脆く、そして何よりドロドロとしたものに塗れている。
彼女の事が嫌いだった訳ではないが、あの人は由香にとっては檻だったのだ。
暗い沼の底のような、逃げ場所のない鳥籠。
重く暗い、息の出来ない水の底のような。
そんな場所での、唯一の救いが叶夜だった。
叶夜がいなければ、今の由香はいないと言っても過言でもない。
だから茜の言葉に、由香は首を横に振った。
あの人と同じになりたくはなかった。
あんなにも重いものを、由香は他人に強要したくなかった。
「外見は勿論だけど、全部一人で抱え込んじゃうところ……とか、本当は誰より優しいところとか。表面上は似ていなくとも、根本が似てるのよ。貴女達二人は」
くすくすと喉の奥を鳴らし、茜は、はにかむ。
茜の語る青桐奏像は、由香の知っているものとは掛け離れている。
あの人は優しいなんて表現を出来るような人じゃなかった。ただ重苦しいだけの人だった。その筈だった。
だが、姉である茜が言うのなら、彼女の本来の性格はそういうものなのだろう。
だとすれば、何が彼女をあそこまで変えたのか。
はた、とそこまで考え、茜の言葉に引っ掛かりを覚える。
「全部一人で抱え込んじゃう……って……私はそんな」
「あら、伯母さんにはお見通しなんだから。最近の由香ちゃんは、無理しすぎよ」
こつん、と頬杖をつき、茜は笑いながら由香の額を軽く指で叩いてみせた。
「和真と嘉隆さんと、特に由香ちゃん。私に何か隠してるでしょう?」
茜は肩を揺らし、声をあげ、おかしそうに笑う。
ここで彼女に吸血鬼について知られるのはまずい。彼女までを危険に巻き込む訳にはいかない。
「そ、そんな事は」
「あるでしょう?伯母さんを舐めると痛い目見るわよ?……ふふ、由香ちゃんは嘘つくの下手よね。そういうところも似てる」
しみじみと呟き、茜は愛しげに目を細める。
心なしか、彼女の目には涙が浮かんでいるようにも見える。
由香にとっての実母。
彼女にとってはたった一人の妹。最後に残った大切な肉親がいなくなってしまった。更に死体は消え、最後の時を見る事も出来ない。
由香には祖父母がいない。
茜と奏の姉妹は、早くに両親を亡くしている。
従って、奏は茜にとっては娘同然の少女だった筈だ。
彼女の悲しみは由香には計り知れない。
それでも彼女は笑い続ける。
涙は見せずに、不幸など何も知らない純粋な少女のように。
なんて強く気高い美しい女性なのだろうと、由香は素直に茜に尊敬の念を抱いた。
「あ、あの!……嘉隆伯父さんと伯母さんは、どうして結婚したんですか!?」
涙ぐんでしまった茜を元気付けようと、由香は無理に明るい声音を作り微笑んだ。
きっと無理をしていることはお見通しだろうが、茜は涙を収めると、温和に笑み、どこか遠くを見ながら語り始めた。
「前にも言ったと思うけどね、私と奏と嘉隆さんは幼なじみの関係だったの。昔、この家はもっと山から離れた市街地にあってね、その時嘉隆さんの家が隣にあったの。それで、私達3人は年が近いのもあって、自然と仲良くなった。
でも、ちょっと事情があって中学生の時に今の場所に引っ越すことになって。校区は変わらないから良かったんだけど、かなり嘉隆さんの家とは場所が離れちゃってね……。
そのすぐ後に、病弱だったお母さん……由香ちゃんのおばあちゃんが亡くなってかなりゴタゴタして。
そんな時、嘉隆さん、大変だろうって家が遠いのにわざわざ三十分以上かけて自転車で家に手伝いに来てくれて。あれは嬉しかったかなぁ……。
お父さん、つまり由香ちゃんのおじいちゃんは仕事仕事でなかなか帰ってこない人だったから、本当に助かったわ」
昔の事を語る茜は、愛らしい少女そのものだった。きっと、その当時が、港……「橘茜(タチバナアカネ)」にとって人生で一番楽しかった時期なのだろう。
「高校生の時に嘉隆さんから告白してくれて。しばらくお付き合いしたんだけど、お父さん……由香ちゃんのおじいちゃんが海外で失踪したっていう連絡があって……。それからすぐ、嘉隆さんのお母さんの勧めもあって、あれよあれよと言う間に話が決まって、今に至る……という訳」
「なんだか、す、凄いですね……」
「確かに、自分でも凄い人生だったと思うわ」
茜は、気分を外した素振りを全く見せず、声を上げて盛大に笑った。
「でもね、私なんかより、貴女のお母さんの方が大変だったと思うわよ」
そう告げる茜の瞳には、彼女にしては珍しくどこか暗いものが宿っていた。
汚れのない硝子にあった一点のくもりは、底の見えない不気味さを持っていた。
「由香ちゃん、貴女は今幸せ?」
何故、彼女からロザリアと同じような言葉を茜から発せられたのか。
「え……」
「由香ちゃんは、本当に自分が心から大事に思う人を選ぶべきよ。貪欲になったっていいの。お願いだから、貴女は……貴女だけでも自分を大切にして頂戴ね」
一体、彼女は何を知っていると言うのか。
「あの……それってどういう」
「……内緒よ」
夫と同じ言葉を、茜は泣きそうになりながら、それでも笑顔を崩さずに告げ、くしゃりと不器用に由香の頭を撫でた。
よろしければ、クリックして投票にご協力ください。