女王と下僕
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その娘は、この世に生を受けたことを誰からも祝福されはしなかった。
自らの腹の内から生れ出た、自分とも夫とも似ても似つかない赤毛の娘に、母親は発狂した。

それまで仲睦まじく暮らしてきた夫婦は当然のように離婚。
それからすぐに母親は自殺。
父親は失踪し、引き取り手のいなかった生まれたばかりの娘は、母方の叔父に引き取られることになる。

独身だった叔父は、ほとんど他人同然の姪に「詩織」と名付け、彼なりに一生懸命育てた。
最初は、ただの庇護欲だったのだ。
しかし、娘は人外の美しさを持っていた。
彼女は大きくなるにつれ、どんどん魅力的になり、凡庸な男であった叔父は、娘が離れていくことに、異常なまでの恐怖を抱き始めた。

到底ただの庇護欲とは呼べなくなったそれに気付いた時には、男の心はもう、どうしようもないぐらい壊れてしまっていた。

*    *    *

「おかえり、詩織」

優しい言葉と顔とは裏腹に、遠慮なく繰り出された拳を、詩織は避ける事もせず、当然のように享受した。
家に帰ってきて、第一声がそれかと口の端を噛みしめる。
大の男から繰り出された渾身の一撃をその身に受けたのだ。
体は吹っ飛び、先程自分が入ってきた玄関の扉にどん、と力強く打ち付けられる。
床に倒れこんだまま、詩織は動くことすら億劫だと、倒れこんだまま動こうとしなかった。
失念していた。
今日は、珍しく叔父の帰りが早い、ということを忘れていた。

それが癪に障ったのか、叔父は詩織の長い赤毛を無理やり掴み顔を上げさせた。

「学校は楽しかったか?え?……なんとか言えよ」

何も言わずに黙っていると、男の足が詩織の頭を踏み付けた。

「……ごめんな……さ……」

「あ!?それは何に対する謝罪だ!?え!?さては男か!?俺の事なんてもうどうでもよくなったんだろ!?え!?」

「違……っ!」

「黙れ黙れ黙れ!!もう何も聞きたくない!!」

バキッという音を立て、男の手により詩織の鼻は歪な形に咼む。
だがそれも一瞬の事。
みるみる鼻は再生し、元の美しい姿へと戻る。

「そうだお前はいつだってそうだ。いつも無表情で化け物みたいだよな!?俺以外の人間にお前の面倒は見れないんだよ詩織ぃぃぃ!!」

叔父に言われるまでもない。
そんな事は分かっている。
自分が普通とは違う事など最初から知っている。

人の腹から生まれでた異形。
それが坂下詩織という人間だった。

否、人間とは形容できはしないのかと、詩織は床に倒れたままクスクスと腹を抱え笑みを湛えた。

こんな、一瞬で怪我の治るようなモノを人間と呼んではいけない。

「何がおかしい!?」

怒鳴り声を上げ、叔父の暴行は留まる事を知らない。打ち付けられる拳を無感動に瞳に写し、襲い来る苦痛に耐える事しか、詩織には出来なかった。

なんでも、叔父が言うには全て詩織が悪いらしい。
昔は優しかったのだ。
それが、詩織が中学に上がった頃からだっただろうか。いつしか、叔父は詩織に対し理不尽な理由で暴力を奮うようになった。

きっかけはなんだったか。
それはもう定かではないが、そんな事はどうでもいい。

とにかく、叔父にとっては、詩織が他の人間と話す事すら許容出来ない事らしい。

少し委員会の用事で遅くなっただけでこれだ。

普段は温和な人なのだ。
温和で、それでいて誰より弱い。
壊れやすい人なのだ。
元は優しい人なのだ。
それを壊したのは自分だ。

それが分かっているから、詩織も己の罪を受け止めている。
酷く傷付けられるが、それがどうした。
殴られ蹴られても、傷等直ぐに治ってしまう。痛みはあるが一瞬だ。
それさえ我慢すれば苦痛は終わる。

それに、この人がいなければ、自分を受け止めてくれる人などいないのだ。

「あ……ああ!!詩織!詩織詩織詩織詩織ぃぃぃぃ!!!」

ようやく正気に戻ったのか、叔父はカタカタと震える身体で、己の腕で傷付けた姪を抱き起こし、強く抱きしめた。

「すまない。すまない詩織……!!俺は……俺は……」

ほら、こんなにも優しい。
泣きながら震える人にどうして罪を問えようか。

「痛むだろう詩織!ああ俺の詩織!詩織!詩織!」

「……いえ」

俯きながら答える。
すると、叔父は己の首を差し出してきた。

「悪かった。痛むだろう?……ああ、俺のせいだ。俺のせいだ……っ!」

「叔父さん」

「そろそろ腹が減っただろう。……遠慮なく吸ってくれ」

差し出された男にしては細い首筋に目線を這わす。
ああ、今日も実に旨そうだ、等と考えつつ、詩織は無感動に男の首筋に牙を突き立てた。

血を飲まなければ生きられない。

それを自覚したのはいつからだったか。

詩織はひどく大人びた少女だった。
それは、育った環境のこともあったが、詩織自身、自らの身体が回りの人間とは明らかに異なっているのだと知っていたからだった。
知って恐ろしくなった。
それまで純粋に育ってきた少女は、一瞬で治る切り傷に、純粋に恐怖した。

血を飲まなければ生きられない自分が。
傷を付けられても治る自分が。
そして、中学生になってから如実に顕になった、異常なまでに異性を惹き付ける性質が。

遠慮なく血を飲んでいると、叔父が恍惚に声を上げた。

ただこの狭い檻の中で、詩織は死ぬまで飼われ生きるしかなかった。
否、それでは生温い。
近頃では本当に自分が死ねるのかということさえ疑問だ。

「……ご馳走様でした」

突き刺した牙を抜き、口元の血を必死に拭う。
叔父はただただ、吸血の余韻に浸り、どこか寝ぼけたように詩織の名を呼び続けていた。

「……叔父さん。ご飯、出来ました」

無表情のまま食事を食卓まで運ぶ。
料理を作るのは、昔から詩織の役割だった。
元からなんでもそつなくこなす質だったので、めきめきと腕は上達した。

今では叔父よりも上手いと自負している。

「ありがとう」

穏やかに笑みを湛え礼を言う男は、先程まで詩織に暴行を奮っていた、等と言われても信じられない程に凡庸な男だった。
特にこれといってかっこいいと言うわけでも、不細工という事もなく、ただただ平々凡々とした普通の男。

「美味いよ」

賞賛し、黙々と箸を進める男を無感動に見詰めながら、詩織は考える。

この男を嫌いだと思った事はない。
むしろ育てられた事を感謝している。
どちらかというと好きの部類に入っているとも自負している。

殴られるのは痛いから嫌いだ。
それでも、こうして幸せそうに美味しい美味しいと口に出す男を、嫌いになれそうにはなかった。

そんな日々が続いたある日の帰り道。
高校一年生の春の事だった。

坂下詩織はこの世のものとは思えない美貌を持つ少女に出会った。
桜の舞う春の日の午後。
その少女は詩織を待っていたかのように、彼女を見付けると無表情を保ったまま、一歩二歩と距離を詰めてきた。

揺れる金の髪と透き通る白い肌。
あまりの美しさに柄にも無く呆然と立ち尽くしていると、少女は

「馬鹿な女」

と、心底憐れむように、慈悲深い聖女のような笑みを浮かべた。

「いきなり何なんですか」

お前に何が分かるのかと、眉を潜め少女を睨み付けた。
しかし少女は怯むことなく、猫のように掴みどころがない。
自分より幼い姿をした幼子の筈なのに、不思議と老婆に諭されている気分になってきた。

「別に?ただ可哀想だなって思ったのよ」

「……貴女は誰なんですか」

「名乗る程の者じゃないわよ。そうね、強いていうなら……あんたの同類」

どういう事なのか思考が付いて行かず、馬鹿みたいにぽかんと少女を見る。

「あんた、今の自分が幸せだと思う?」

「は?」

思わず零した声に答えはない。
一際強く吹いた風に一瞬目を閉じると、幻のように少女の姿は掻き消えていた。

何故見ず知らずの少女にそんな事を聞かれねばならないのか。
綺麗な少女に見惚れる以上に、途方も無い苛立ちを覚えた。
綺麗な黒いゴスロリに身を包んだ少女はいいところのお嬢さんに見えた。

そんな自分とは月とすっぽんな少女に対して、どこか親近感を覚える自分が一番よく分からなくて、詩織は強く肩から掛けた鞄を握り締め、収まらぬ苛立ちを抱えたまま帰路に着いた。

それから更に月日は流れ、詩織は高校二年生になった。
叔父との関係も変わる事はなく、学校でも叔父に文句を言われないようにと、出来るだけ地味に、ほどほどの成績になるように加減しつつ、とにかく地味に振る舞った。

それでも、自分のどこにそんな魅力があるのから知らないが、勝手に異性はホイホイ蛾のように寄ってくる。
その度に機嫌を損ねる叔父に怯えながらも、詩織はそれなりに自分は幸せなのだろうと信じていたかった。

しかし、あの時出会った少女の事が、ずっと脳裏に残っていた。

本当に幸せ?

そう問われ、咄嗟に返せなかった。
確かに世間一般で言うと、この身の上は数奇なものなのかもしれない。

それでも、詩織は現状に満足していた。

こんな血を喰らう化け物でも、叔父は存在を否定しないでいてくれる。
それなりには愛されている自覚はあった。
なんだかんだ言いながら、きちんと高校にも通わせてもらっている。
元より普通とはかけ離れた存在であることは分かっている。

それなりに暮らせればそれだけで満足だったのだ。

その均衡が崩れたのは、詩織の16歳の誕生日だった。

学校から帰ると、珍しく叔父が上機嫌に詩織を出迎えた。

「おかえり、詩織。今日はね、詩織に見せたいものがあるんだ」

催促され、手を引かれながら雪崩込むようにリビングに足を踏み入れる。
と、机の上に一枚の紙が置かれていた。

「誕生日おめでとう、詩織」

にこりと、肩に手を置かれ言われた言葉に悪寒がした。
この男の事は嫌いではない。
父親代わりとして、暴行はされてもそれなりにも愛していた。

これは、裏切りだと思う。

机の上の紙を震える手で掴み、歯を噛み締めて睨み付ける。
それは、確かに叔父の名前が既に書かれている婚姻届だった。

法律上、叔父と姪では結婚できない。
だからこれは詩織が書くまでもなく無効なものだ。

「叔父さん、これは」

「嬉しいだろう?詩織。なあ、嬉しいだろう?」

ぎりぎりと肩に置かれた両手に痛い程力が込められる。
いくら早く治るとはいえ、治るまでは痛い。
痛いし辛いし悲しい。

痛いのは嫌いだ。大嫌いだ。

「……どうした?詩織。早くサインしなさい」

いつからこの人はここまで壊れてしまったのか。
叔父だって分かっている筈だ。
それなのに、あくまで詩織に調印させようとする。
無理矢理ペンを握らされ、手を上から叔父の手で掴まれ動かされる。

無効ではあるが、叔父の気がそれで済むなら好きにさせてやろうと、半ば同情に近い感情で、詩織は叔父の好きなようにさせておいた。

無意味な紙屑に書かれた二人分の名前に嬉しそうに笑いながら、背後から詩織を抱き締め、叔父は恍惚の表情を浮かべた。

「これで、詩織はもうどこへも行かない」

「叔父さん」

「ああ詩織……俺の詩織」

「叔父さん」

流石にこれ以上はまずいだろうと、詩織はやんわりと叔父の腕を引き剥がしにかかった。

よほどそれが気に触ったのだろう。

叔父は喜色から一転、不気味なまでに静かになった。
ふらりふらりと詩織から身体を離し、ボールペン片手に不気味に肩を揺らし笑う。

「俺の事が嫌いなんだろう?酷い叔父だよ俺は」

「……そんなことは」

「なあ、ここまで待ったんだ。偉いと思わないか!?」

叫び顔を上げた叔父に寒気がした。

「何だその目は!?え!?そんな目で俺を見るな!!」

言葉と同時に振り下ろされたボールペンが、ぐさりと思いっきり詩織の左目に突き刺さった。

「うあ……あ……うああああああああああああああああああ!!!!」

あまりの痛みに悶絶し、その場に倒れ込んだ。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!!!!!!!!!!!!!!

「なあ詩織、痛いか?痛いよな!?ふ……ふ……ははははは!!!痛くて当然だよな!?」

叔父は痛みに叫び続ける詩織の上に馬乗りで跨り、首筋に手を当てた。
遠慮なく服を剥ぎ取りながら、ただただ眼前の女の名を叫ぶ男はどこからどう見ても狂っていた。

「詩織。俺の詩織!詩織詩織詩織!!」

見えない見えない。
涙に霞み、無事な筈の右目も満足に開けない。
うるさい名前を呼ぶな。
そんなに呼ばなくても聞こえている。

待っただけ偉い?
うるさいこの体はお前のものじゃない。
この体は私のものだ。私だけのものだ。
ふざけるなふざけるなふざけるな。

ふと、脳裏に過ぎったのは金髪のあの時の少女だった。

「あんた、今の自分が幸せだと思う?」

なんで今その問いが蘇ってくるのか。
どこが幸せに見える。
痛みに目を開けられない。
身体に触れてくる指が気持ち悪い。

ああ、なんでこんなことになっているんだ。
なんで私だけこんな目にあっているんだ。

幸せな訳が無い。
こんなものが幸せなのだとしたら世の中は糞だ。

こんな男、殺して、しまおう。

その時、何かがぷつんと切れた音がした。
次の瞬間、がさごそと耳障りに響いていた衣擦れの音が唐突に止まった。
あたりから音という音が消え、辛うじて開く右目をこじ上け、眼前の惨状を確認する。

辺りに広がるのは一面の赤だった。
赤赤赤。

一面の夥しい量の血と、おそらく叔父だったのであろう、弾け飛ばされた、正しくは詩織が弾けさせた肉片の数々。

「……ぁ」

終わったな、と。
そう思った。

込み上げてくるのは途方も無い後悔と罪悪感だけだった。
元より人間とはかけ離れた存在として生まれた。
それでも、最低限人間としてのルールに則って、間違っていても人間らしく生きてきたつもりだった。

それが、殺してしまった。
散々な事もされてきたが、今まで育ててもらった叔父をこの手で殺めてしまった。

「ふ……ふふ……あ……あははははは!!!」

笑うしかなかった。
あまりの事に笑うしかなかったのだ。

「だから最初に言ったのよ。馬鹿な女ねって」

突如聞こえた一年前と同じ声に下げていた目線を上げる。
リビングの中央に立っていたのは、一年前と寸分たがわぬ姿をした美しい乙女だった。
どこから入ってきたのか等という疑問は少女の美貌の前に全て吹き飛んだ。

「こうなった以上、もうここにいるのは得策じゃないわね」

少女は溜息を吐くと、徐ろに机の上に置いてあったライターに手を伸ばした。

「全部燃やしてしまえばいい。やってしまった事はもうどうしようもないわ。笑う暇があるなら、自分が化け物だって事を受け止めなさい」

少女が言い放った瞬間、小さな炎は一瞬で巨大な焔に変化する。
ぼんっという音を立て、一瞬でマンションの一室は炎の海に包まれた。
立ち昇る炎の海をバックに、少女は呆れたように詩織を睨みつけた。

「そこでそいつと一緒に死ぬ気?」

「……それ以外どうしようも」

「……一緒に来る気はない?」

「は……い?」

「丁度下僕が欲しかったの。お前なら使ってあげてもいいわよ。あんた、名前は?」

「……坂下詩織」

「ふーん、だっさい名前」

少女はぶっきらぼうに言い切り、詩織の眼前にしゃがみこんだ。

「痛むかもしれないけど我慢して」

そうして彼女は、左目に突き刺さったままのボールペンを力一杯引き抜いた。

「ぃっ……!!!」

あまりの痛さに声にならない悲鳴を上げ、後ろ向きに倒れ込んだ。
どくどくと生々しく流れ出る血を感じながら、詩織は必死に歯を食いしばり苦痛に耐えた。

じたばたと必死に痛みを堪える詩織の頭を押さえつけ、ロザリアはどこから持ってきたのかぐるぐると包帯を巻いていった。
手早く手慣れたそれに、詩織はこの人も過去に何かあったのだろうかと、柄にも無く少女の過去に思いを馳せてしまった。

「結構深いみたいだし、一週間は外さない事ね」

「……ありがとうございます」

「礼なんていらない。そんな事より早くここを出ないと、あんた、燃えるわよ。最低限の手当はしてあげたんだから、あとは動けるでしょう?」

金髪の少女はすっと立ち上がると、ぶっきらぼうに詩織に対して手を差し伸べてきた。
手を取るのを躊躇っていると、少女は苛立ちを顕にし、ぐっと無理矢理詩織の手を握ってきた。

「あんた、詩織だったかしら」

「は……はあ」

「じゃあ、あんたは今日からキャロラインよ。平々凡々なお前には相応しいでしょう?」

いきなり何を言い出すんだと、間抜けに口を開けて眼前の少女を見詰める。
それが癪に障ったのか、少女は更に苛立ちを顕に口調を荒らげた。

「ああもうとにかくあんたは今日からキャロラインなの!何度も言わせないで」

少女は無理矢理詩織を立ち上がらせると、がっと乱暴に火の手が回っていない、ベランダへの窓ガラスを開けた。
まさかと思った時には時すでに遅し。

少女は血まみれの詩織を肩に担ぎ上げたまま、躊躇いなく下へ飛び降りた。

声にならない悲鳴を上げ、恐怖から小さな少女の肩に必死にしがみつく。
詩織の心配を他所に、少女は全く応えた様子がなかった。
マンションの5階から飛び降りて平然としている等明らかに普通ではない。

「貴女は一体……」

「ロザリアよ」

思わず出た問いに、少女は素っ気なく答えた。

「ロザリア・ルフラン。これからのお前の主人になる者の名前よ。よく覚えておきなさい」

女王様然とした幼い少女は、詩織の瞳にはただただどこまでも気高く写った。

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