彼女の願い
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眉根を寄せ、襲い来る激しい苦痛に耐えるように必死に歯を食いしばり、ロザリアは腹部からぽたりぽたりと血を零していた。
由香の両肩に手をつき、ロザリアは虫の息で顔を上げた。
「……よか……っ……た」
守りたかった少女の安否を確認した瞬間、ロザリアは儚い笑みを湛えた。
自分が怪我をした事など全く気にも留めず、彼女はただ由香の無事だけが、それだけが救いなのだと、心底ほっとした表情を浮かべていた。
由香の服に滴り落ちる夥しい量の血に、一気に由香の顔から血の気が引いた。
「ロザリアちゃん、血……血が……っ!」
震えながらロザリアに声を掛けると、少女は由香を安心させようとしてなのか、持ち前の気丈な笑みを浮かべた。
「平気……よ。……これくらいで……死ぬ程やわじゃない」
げほごほと下を向き激しく咳き込み血を吐きながら、ロザリアは亡霊のようによろけながら、由香に背を向けた。
そして、背に突き刺さった包丁に手を掛け、躊躇いなく一気に引き抜いた。
「う……っ……あぁぁぁ……っ!!ぃ……っ!」
背から少女の血にまみれたものが引き抜かれるのと同時に、地面におびただしい量の血がぶちまけられる。
辺りに満ちる血の芳香が一気に濃厚になった。
叫び声をあげ、肩で息をし、それでも尚ロザリアは倒れなかった。
後ろでそれを見守っていた由香からしても、それは正気の沙汰ではなかった。
いくら吸血鬼の治癒能力が優れていようとも、痛いものは痛い筈だ。
それを、麻酔なしで背に刺さる巨大な刃物を引き抜き、生きながらにして由香には到底考えられない苦痛を味わって尚、ロザリアはふしゅーと必死に息をし、倒れる事なく堪えている。
口からは尚血を流し続け、腹部の血も未だ留まる兆しはない。
吸血鬼の治癒能力をもってしても、今回の傷は一瞬で治るものではないらしい。
何がロザリアをそこまで駆り立てるのか。
考えてぞっとした。
こんなのはおかしい。
他人の為にそこまで自分を犠牲に出来るなんて、それこそ人間として異常だ。
手にした包丁を地面に落とし、ロザリアは怒りに震えながら、ただ静かにキャロラインを見据えていた。
何を発するでもなく、ただ視線だけでキャロラインを責め続ける。
「ぁ……ぁ……ぁああ……ああああ……っ!!!」
キャロラインは小刻みに震えていた。
言葉として機能していないただの音だけを喉から絶え間なく発し、違う違うと、こんな事がしたかったんじゃないと、必死に頭を振り目の前の惨状を否定していた。
「最近、どうもおかしいと思ったら……こういう事だったの」
青白い顔で眼前の赤毛の女を嘲笑い、ロザリアはよろめきながら一歩前に踏み出した。
そして、
「……詩織」
ロザリアは、ぼそりと誰かの名を呟いた。
彼女の声には何の感情も宿っておらず、それこそが彼女の言い表せない程の怒りの度合いを表していた。
キャロラインは、びくりとあからさまに動揺していた。
動揺なんて生温いものじゃない。
詩織。
その名を、キャロラインは恐れていた。
カタカタと歯を鳴らし、両手で肩を抱き締め、死に物狂いで口を動かす。
「や……めてください」
「詩織」
「その名前で呼ばないでください!!」
はっきりと呼ばれた名に、キャロラインは発狂した。
震えは収まらず増していくばかり。
傍観している由香には、何が起きたのか理解出来なかった。
「左目の調子はどうかしら、詩織」
「う……あ……あ……あああぁぁぁぁあぁぁぁ!!!」
悲鳴を上げ、キャロラインはその場に崩れ落ちた。
ロザリアはそんな彼女を、ただ憐れむような目で無情に眺めるだけだった。
「ロザリアちゃん……その……」
「……由香は、何も気にしなくていい」
へたりこんだまま躊躇いがちに名を呼ぶと、ロザリアは誤魔化すように振り返り、由香に対し微笑んだ。
背後にいるキャロラインにはもう目も止めず、ロザリアは真っ直ぐに由香の元へやってきた。
「どこも怪我してない?大丈夫?私、間に合った?」
自分の怪我等全く気にした素振りを見せず、ロザリアはただ由香の安否だけに気を配っていた。
由香の目の前に座り込み、由香の頬に手を伸ばす。
触れてくる悲しいほどに細く白い指、今にも倒れてしまいそうな顔色に、由香は溢れ出る涙を止めることが出来なかった。
「……え!?どうしたの?痛い?どこか怪我したの!?」
泣き出した由香に、ロザリアはあたふたとあからさまに動揺し始めた。
自分の方が大変な事になっている筈なのに、それでも由香を気遣う。
「ロザリアちゃんは……!もっと自分を大切にして!!」
助けてもらっておいて言えた義理ではないが、今回ばかりは心底そう思った。
自分が不甲斐ないばかりにロザリアにこんな真似をさせてしまった事が申し訳なくて、なんと謝ればいいのか分からなくて、それでいて、自分の身を軽々しく扱うロザリアに怒りが湧いてきた。
「そんな顔しなくても大丈夫よ!吸血鬼って体だけは丈夫なんだから」
ほら、と笑顔で背中をとんとんと叩き笑って見せるも、顔色は未だ悪いままだ。
無理をしている事は分かりきっていた。
「……痛い……よね」
「……別に、これくらいは!」
「痛くない訳ないよね……っ!痛かったよね……っ!」
あれだけの血を吐き、悲鳴を上げておいて痛くない訳が無い。体は震え、目線も虚ろ。
笑うと薔薇色に染まる頬は、今は悲しい程に白い。
人智を超えた速度で治るとはいえ、痛いものは痛い筈だ。
だって、そうだ。ロザリアもキースもキャロラインも、皆感情がある。
喜んだり悲しんだり怒ったり、誰かを好きになったり、憎んだり、そんな人間として当たり前の感情があるのに、痛みだけ欠けているなんて事ある筈がない。
気が付いたら、反論しようとするロザリアを遮るように叫び、泣きながら、ロザリアを抱き締めていた。
消えてしまいそうな気がして、彼女の存在を確認するように、ただ無言でロザリアを強く抱き締める。
「……私ね、今とっても幸せよ」
泣く由香とは対照的に、ロザリアは穏やかに微笑み、由香をあやすように背を撫でていた。
前回とは逆の立ち位置だった。
「それは他人から見ればほんの些細な事なのかもしれないけれど、私にとっては確かに救いだったの」
ひっくひっくと喉を鳴らし、ロザリアの穏やかな声に耳を傾ける。
一瞬の沈黙の後、
「……キースを選んでくれて、ありがとう」
悲しい程に震えた感謝の声が聞こえた。
顔を上げ、ロザリアの顔を見ようとして、それを必死に阻止された。
「たぶん酷い顔してるから、見ないで。選ばれない事を怨むつもりなんてない。私はただ、由香の幸せだけを願っているもの」
そんな事を言う癖に、どうして由香の顔に由香のものではない雫が零れ落ちているのだろうか。
「由香、幸せになって」
震える声で告げられた言葉に、何も返せなかった。
返せる筈がなかった。
その後の事はよく覚えていない。
呆然とする頭で歩き続けていると、気が付いたら港家の前に帰ってきていた。
とにかく服に着いた血を落とさなければ心配されると、それだけを考えて、真っ直ぐに洗面所に向かおうとしたところを、必死の形相をした誰かに引き留められた。
「ーーーー!!」
その人が何か言っている。
だが何も分からない。
がくりがくりと両手で肩を揺らされ、無理矢理意識をその人に向けさせられる。
放っておいて欲しい。
もう誰にも心配なんてされたくない。
沢山の人を傷付けておきながら幸せになんてなれない。幸せになれと言われたが、そんな事本当に許されていいのだろうか。
「ーーかーーーーろ!!」
ああ、なんて罪深い。
守ってもらう価値なんてなかった。
そんな事をしてもらう価値なんてなかった。
なのに、それなのに
「しっかりしろ!由香!!」
「え……?」
焦ったように名を呼ぶ声に、ようやく目の焦点が合う。
大きく目を見開き眼前の人を見上げる。
染め上げられた金の髪をした男は、由香の反応にほっとしたように強ばった顔を緩めた。
きょろきょろと周囲を見渡すと、いつの間にか洗面所ではない場所にいる。
見慣れない部屋、見慣れない内装。
兄の部屋とは違う、しかし同じように片付けられた部屋。
「和真、私……」
「血まみれでふらふら歩いてたから、只事じゃないと思ってとりあえず俺の部屋に連れてきた。で……何があった。見たところ、お前の血じゃないだろそれ」
指摘され、はっとする。
そうだ。血を流したのは私じゃない。
全部私が悪いのに、あの子を傷付けてしまった。たくさん傷付けてしまった。
「……私、どうしたらいい?」
呟いた独り言に、和真は何も言わなかった。
ただ黙って耳を傾けてくれていた。
「沢山他の人を傷付けて、でも私はのうのうと生きてて……!こんな私に守ってもらう価値なんてない!!キャロラインさんの言う通り!……私は平和ボケしてて馬鹿で間抜けで愚鈍で!結局、大切な人達に迷惑しか掛けられない!!ならこんな私なんて最初からいなかった方がーー」
そこから先を言おうとして、言えなかった。
突然の強い包容に、いつの間にか身長が伸びたんだなとか、細い見た目の癖して意外にがっしりしているんだなとか、訳のわからない事に思考を全て持っていかれた。
「頼むから、それ以上何も言うな」
「か……ず……」
「お前は、お前のままでいいんだ」
ああ、どうしてこの人は、普段誰より厳しい癖に、こんな時に限って優しくするんだろう。
「そんなお前の甘さに、確かに救われた奴もいる。……だから泣くな」
泣いてないと言おうとして、初めて自分が泣き出していることに気が付いた。
今日は泣いてばかりだ。
くしゃくしゃと不器用に頭を撫でられていると、全て許されそうな気がして、只、今は何も考えず、この陽だまりのような場所で、幼子のように甘えていたかった。
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