愚者達の喜劇
ーーーーーーーーーーーーーーー
「よしよし、偉い偉い」
無言で頷いた由香の頭を、叶夜はぐしゃぐしゃと子犬を撫でるようにして掻き回した。
「……お兄ちゃん」
ムッとして睨むつけた由香に、叶夜はごめんごめんと言って、楽しそうに笑った。
その顔がいつものよく知る兄の表情に戻っていて、由香は静かに安堵の溜息を吐いた。
だが、次の瞬間には兄の顔が再び強ばっており、由香はごくりと拳を握りしめながら唾液を飲み込んだ。
「由香、次にこういう事があった場合、流石の僕も平常心を保っていられる自信はないからね。……以後、気を付けるように。……わかった?」
「うん……」
(わかってる……)
これ以上叶夜に心配を掛けるわけにはいかない。それは重々承知している。
頷いた由香に安心したのか、叶夜は普段と同じ和やかな笑みを浮かべると、令嬢を案内するかのように、由香に手を差し出した。
「さて、じゃあ重い話はここまでにして、行こうか由香。お腹空いてるでしょ?……お手をどうぞ、お嬢様?」
叶夜は昔から由香を大事に扱ってくれる。
だが、今回のようなふざけた扱いは初めてされた。
普通の男相手なら、ふざけるのはやめてともなんとでも言えるのだが、兄相手となると無下にもできない。
それに、叶夜はもてる。即ち顔も決して悪くはない。それどころか何故この人が兄なのかと落ち込みたくなるレベルに整っている。
そんな人に妹という理由だけで大事にしてもらえるのは、何とも言えない恥ずかしさがあった。
そもそも男性に対しての耐性が全くない由香にとって、この待遇は羞恥プレイ以外のなにものでもなかった。
「っ……お兄ちゃんっ!」
「何?」
顔を真っ赤にしながら叫んでも、叶夜に話を聞く意思は全くないらしい。
その証拠に、彼は首を傾げて笑んでいるだけだ。
それどころか、早く手を取れと催促しているようにさえ見える。
「む……無……理……です」
出来ない、小さい子供でもあるまいし今更兄に手を引かれるのは恥ずかしすぎる。
じゃあさっきの抱擁は恥ずかしくないのかという話になるが、あの時は状況が状況。これとはまた別の話。
「無理じゃない無理じゃない」
「だっ……て、普段は……」
「普段からこうして欲しいってこと?」
「違いますっ!!」
とことこん叶夜に話を聞く気はないようだ。
(わかってる癖に……)
おそらく勝手にでかけた事への腹いせなのだろう。
少々捻くれている兄は、簡単には許す気はないらしい。
(……キースさんみたい)
ふと、脳裏に今日出会ったばかりの見目麗しい青年が頭を過ぎった。
その姿が不思議と今の兄と重なって見えた。
王子様のような、初対面なのに由香を姫君の様に大事に扱ったあの人。
『愛しているよ、君のことを』
そこまで思い出して、由香は自分の頬が更に熱を帯びていくのを感じた。
由香は隠すようにばっと咄嗟に叶夜から顔を逸らした。
「由香?」
「な……なんでもない」
「……そう?」
「う……うん……」
伏せ目がちに頷いた由香に、何故か叶夜の機嫌は上昇しているように見えた。
ニコニコとしたいつもの貼り付けたような笑みではなく、幸せそうな顔。
「由香」
名を呼んだのと同時に、叶夜は由香の手を自ら握っていた。
「……お兄ちゃん?」
どういう心境の変化なのだろうか。
(わ……私、なにかしたかな……)
特に兄の機嫌を上昇させるような事はしていないと思う。
不安な面持ちで叶夜の顔を見つめていると、彼は唐突にぐしゃぐしゃと軽く、繋いでいない方の手で由香の髪を乱し始めた。
「………由香は、僕の機嫌を取るのがうまいよね」
(そうなのかな……)
自分ではそんなことは全くないと思うが、実はそうなのだろうか。
されるがままになっていると、叶夜はふっとその綺麗な顔に、完璧な作り物のような笑みを浮かべて由香を見た。
「なんでもないんだよ」
いつもの笑顔となにも変わらない。
由香を幼い時から見ていた目となにも変わらない。
そう、なにも変わってはいない。
なにも変わってはいないのだ。
「おいで、由香」
優しい兄の笑みに、なぜだか寒気がした。
兄に導かれるまま二階にあるリビングに入り、待っていろと指示を出されたので、とりあえずダイニングテーブルに座って、じっと叶夜が料理をしている様子を観察することにした。
(器用だなぁ……)
母子家庭という家庭環境から、母親は仕事で家を開ける事も多々あった。
そんな時は、いつも兄が食事の準備をしていた。
大変な家庭環境なのに、由香には何一つ生活的な不自由はなかった。
指一本動かさなくても、全部兄が自主的にやってくれたから。
そもそも由香に、断固として家事をさせたくないように見えた。
「ねえ、お兄ちゃん。手伝おうか?」
「いいよ、由香はゆっくりしておいで」
ちょうどこんな具合に。
一体何度今したような会話を繰り返しただろうか。
「でも私……」
「由香が心配するようなことはなにもないよ」
叶夜の凛とした声だけがやけにはっきりと部屋に響いた。
ジュウジュウと何かが焼ける音と、とんとんという鍋に木べらが当たる音。
その2つは結構な音量であったのに、叶夜の声は掻き消えず響いた。
有無を言わせない気迫に由香はつい押し黙ってしまった。怒鳴られた訳でも怒られた訳でもない。
あくまでも笑顔で、悪い子を注意するように。
穏やかなのに、怖い。
調理の音だけが響く重たい沈黙が訪れる。カチコチカチコチという時計の音が、やけにうるさく感じられた。
そんな時、誰かがリビングの扉を開けた。
入ってきた少々気怠そうな青年――和真は、叶夜の顔を見た瞬間げっとあからさまに顔をしかめた。
「美味そうな臭いがすると思ったら……お前かよ」
「君に食べさせるご飯なんて存在しないから帰ってくれるかな、そもそもこれは由香の為のもので他人にはやらない」
笑顔で冷気を放ちながら和真を睨みつけ、叶夜はその後は彼に目もくれずに黙々と料理を再開しだした。
「おー怖い怖い」
面倒くさそうに伸びをしている和真を横から盗み見ながら、由香はほっと溜息を付いた。
こんな大嫌いな最低の男でも、叶夜と二人きりの静寂を破ってくれて助かった。
あの空気は由香には辛いものがあった。
気弱で内気な少女にとって、沈黙はなによりも忌むべきものであった。
ほっとしたのもつかの間、その時、ふと和真と目があった。
「っ……!」
目を見開き、思わずガタンと音をたてて椅子を引き後ずさってしまった。
(怖い……)
今の和真は怖い。7年前の優しかった少年といまの彼は根本的に何かが変わってしまった。何かが彼を変えた。
由香は今の和真が嫌いだった。
何を考えているのかよくわからない気だる気な双眸に、皮肉気な笑顔。
「ああ、お前いたのか」
椅子を引いた由香に、和真は今存在に気付きましたよといった様子で、ニヒルな笑みを浮かべて睨むように由香を見つめた。
(最初から……気付いてた癖に……)
彼は入ってきた時から、ちらちらと由香の方を見ていた。忌むものを見る目つきで、射殺すように。
彼はおもむろに由香の向かいの席に腰掛けると、面白そうに由香を見てきた。
(まさか居座るつもり……?)
それは勘弁して頂きたかった。
沈黙を破ってくれたのは嬉しいが、彼の事を由香は好いていない。
むしろ大嫌いだ。
なのに、何故この男と二人で食卓を囲まなければならないのか。
「えと……あの…………」
「なんだよ」
「な……なんで……もない……で……す」
「お前のそういう所が苛つくんだよ、ノロマ」
嘲り笑う和真に、由香は下を向きながらぐっと強く掌を握り締めた。
こういうことは慣れているのに、言われる相手がかつて仲の良かった相手というだけあって、和真の言葉は由香の胸に深々と突き刺さった。
「わ……たしは……、……私はっ……!」
「はい、おまたせ」
びくりと肩が激しく上下に震えた。
急いで由香が顔を声の聞こえた方へ上げると、そこには炒飯片手に温和な笑みを浮かべた自身の兄が立っていた。
「あ……ありがとう」
恐る恐る礼を言うと、叶夜はより一層嬉しそうに笑みを強めた。
「どういたしまして。お兄ちゃん特製、由香の為に作った愛情たっぷり炒飯だから味は保証するよ?」
おどけた様な叶夜に、由香はくすりと小さく笑いを零した。
和真のせいでガチガチに固まっていた身体が、次第に解れていくのを感じて、由香は心の中で兄への感謝を伝えた。
置かれた炒飯は流石、叶夜といった出来だった。店に出しても申し分ない綺麗な盛り付け方に美味しそうな匂い。
レンゲを持ち、あとは炒飯を掬って口へ入れるだけ、そんな時だった。
「おい、俺の分は」
和真が不満げに頬杖を吐きながら叶夜を睨みつけた。
「……僕の話聞いてたかな、和真」
和真の言葉に次第に笑顔だった叶夜の口の端が引き攣っていく。
「ああ、聞いてた」
「だったら今すぐ僕達の前から消えろ、抹消しろ、燃えてなくなれ害獣。妹との楽しい時間を邪魔するな死ね」
叶夜はひたすらに笑顔で、普段の彼からは考えられない罵詈雑言を淡々と棒読みで吐き捨てた。
気持ち悪い程の寒い笑い方に、見ている由香も軽く凄まれている気分だった。
「断る」
「あ……」
ほんの一瞬だった。
その一瞬で、和真は由香が今まさに口に入れようと掬い上げた炒飯を、レンゲごと奪い去って行った。
そのままレンゲは彼の口の中、当然炒飯も口の中である。
「私の……炒飯……」
思わずぽかんとしてしまった。
由香のお腹はペコペコ、だから期待していたのにこの仕打ち。
(ひ……ひどい……)
内心ショックを受けた由香だったが、驚きからか何故か無表情になってしまった。
なんのリアクションも取れない。
その間に、男二人の間で壮絶な口論が展開されていたのだが、それを仲裁するのも忘れる程に、唖然としてしまっていた。
「おお、うまいうまい。これが野郎の作ったもんだって考えたら胸糞悪いが、まあ悪くはねぇな」
「君、ほんと何様?文句垂れるだけなら本気で帰ってくれないかな……」
「じゃあ、文句言わなかったら帰らなくていいのかよ」
「はははは、僕としたことがとんだ失態だったよ。……文句を言おうが言うまいがどっちでもいいよ。とにかくここから消え失せろ負け犬」
「相変わらず気持ち悪いな、シスコン」
「シスコンだけど、それが?」
「うわ、開き直りやがった。お前それでいいのかよ」
「ああ、いいよ別に。今のところ由香以上に大事な人はいないから」
「お前さ、そのうちマジで引かれるぞ」
「君に言われる筋合いは無い」
「たっだいまー!」
二人の言い争いが激化してきたその時、ガチャリと勢い良くリビングの扉を開けた可奈が部屋に駆け込んできた。
可奈が部屋に入って初めに目にしたものは、みっともなくしょーもないことで争っている自身の兄と従兄、そしてそれを止めようか止めまいか迷ってオロオロしている由香というなんとも奇異な図だった。
「…………兄さん達なにしてるの」
大人気なく言い争いをしている二人に、可奈はわざとらしく溜息をついてみせた。
「何って……」
「炒飯戦争」
二人の言葉に、可奈は子供かと心の中で静かにつっこみを入れた。
「あのね……みっともないからやめてくれない?由香姉が困ってるでしょ」
「可奈ちゃん……私は別に……」
「由香姉!兄さんは言わないと調子に乗るんだから、ここは厳しく行かなきゃダメなの」
由香の言葉を遮って、可奈はびしっとまっすぐに和真を指差して睨み付けた。
全力で込められた実の妹からの敵意に、和真は居心地の悪さを感じた。
「……おい、なんで俺だけ怒られてるんだよ。叶夜も同罪じゃねぇか!」
「叶兄はいいの」
「はぁ!?」
態度が180度違う可奈に、思わず和真はがたんと椅子から立ち上がっていた。
そのまま黙って睨みつけていると、可奈は馬鹿にするような笑みを浮かべた。
「文句言わないの。……大体、叶兄は兄さんと違って大人なの、そもそも兄さんからふっかけない限り叶兄が喧嘩を買うわけ無いでしょ!」
「可奈ー、もっと言ってやって」
叶夜はははは、と爽やかな笑みを浮かべながら、可奈にエールを送った。
「てめぇ……おい叶夜!便乗してんじゃねーぞ!」
「はいはい、兄さん見苦しいわよ」
「痛い痛い!耳を引っ張るな!耳を!」
(なんだか……昔に戻ったみたい)
三人のやり取りを外野から傍観していた由香は、三人に気付かれないように一人静かに微笑を浮かべながら、事の次第を眺めていた。
こうやって、子供らしく争っているところは昔となにも変わってはいない。
由香が和真にちょっかいを出され、それを叶夜が庇う。壮絶な言い争いに発展したところで可奈がやってきて、二人に制裁という名のお灸を据える。
(あの時が……一番幸せだったなぁ……)
『兄さん!また由香姉を泣かせたの!?』
いつも由香を庇ってくれた可奈。
『俺じゃねーもん』
ひねくれているけれど、根は優しい和真。
『可奈ちゃん……私、気にしてないよ?』
昔から、内気でおっとりしていた由香。
『由香、こういう時こそガツンと言っておかないと』
最年長で、おちついていた叶夜。
四人仲良く遊んだ子供の頃、本当に幸せだった。
(あの頃に、戻れたらいいのに)
今のやり取りを見ていたら、もしかしたら昔と同じように分かり会えるのかもしれないと、由香に微かな希望が芽生えた。
「……可奈ちゃん」
由香は、静かに可奈に語りかけた。
「もう……いいよ、気にしてないから」
今の自分なら心から笑える気がして。
ゆっくりと、でも確実に歩いていけばいい。歩いていれば、いつかは違う自分になれる。
一瞬、視界の隅に入った和真が喉を、鳴らした気がした。
「はぁ……今回は、由香姉に免じて許してあげる」
そう言ってから、可奈は和真に一発デコピンを食らわせた。
「いって……!!」
でこを押さえ、和真はふてぶてしい自身の妹をぎっと鋭い眼光で睨み付けていた。
傍から見ている分にはさほど痛そうではないが、地味に痛かったようだ。
「さあ、由香。邪魔者は排除されたから、今度こそ召し上がれ」
呆然と和真を眺めていると、叶夜が横からさっと炒飯と新しいレンゲを差し出してきた。
途中、おい誰の事だと言う不機嫌な声が聞こえたが、叶夜はその声を無視して、綺麗な笑顔を浮べた。
「……ありがとう」
「あら、美味しそうな匂い」
由香が、パクっと最初の一口を食べたところで、再び部屋の戸が開き茜が入室してきた。
「おかえりなさい、伯母さん」
「はい、ただいまー」
叶夜の挨拶に、茜は手を振って答えた。子供っぽい人なのに、綺麗に見えるのが彼女の不思議な魅力だ。
「ねぇお母さん、遅かったけどなにしてたの?」
確かに、可奈と一緒に帰ってきたにしては遅い気がする。
「うん、ちょっと嘉隆(ヨシタカ)さんに電話」
嘉隆というのは、茜の夫。ようするに和真と可奈の父親。そして、由香と叶夜にとっての伯父だ。
母親の姉の夫なので血は繋がっていないが、出張が多い仕事で海外にいる事が多いが、たまに帰ってきたときは、父親がいない由香たちにも良くしてくれた。
茜と同じく大らかで優しい人だった記憶が由香にはあった。
「伯父さんは、また海外に?」
「そ。ここ2、3年は向こうでの仕事が忙しいとかなんとか」
「伯父さんも大変だね、なかなか」
茜の変わりに答えた和真に、叶夜はしみじみとした様子で答えた。
「あ、そうだ。嘉隆さんから由香ちゃんと叶夜くんに伝言よ。『なかなか大変だろうけど、ここを我が家だと思って楽に過ごしてもらって構わないよ』ですって。よかったわね、二人とも!」
そう言って笑った茜に、由香は心の奥がじんわりと温まっていくのを感じた。
この家の人達はみんな優しい。
一人例外はいるが、それでも
(私はきっと、恵まれてる)
親が死んで、祖父母もいない。
親戚と呼べる親戚は港の家だけ。
でも、その唯一の親戚はとても居心地の良く親切な場所だった。
まだ安らげる場所がある、そのなんと幸せなことか。
「…ありがとう……ございます」
「そんな気にすることないわ。それより、また敬語になってるわよ?」
「あ……」
茜の言葉に、由香は咄嗟に口を両手で抑えた。
自然に話せと言われても、由香からすればなかなか難しいものがあるのだ。
「あの……しばらくは、敬語……でもいいですか……?」
恐る恐る彼女に尋ねると、茜は仕方がないといった様子で、軽く肩を竦めると、よしよしと軽く由香の頭を撫でた。
そのなにもかも解きほぐしてしまいそうな優しい仕草に、由香は奇妙な感覚を感じていた。
「あ……の……」
「うん?なあに?もしかして……嫌だったかしら?」
「そ……そうじゃなくて……」
嫌どころか、安らぐ。
むしろ、心地よい事に罪悪感すら感じた。
なにもかも包み込んでしまう茜の優しさが、嬉しくてそして、胸に突き刺さった。
(私は、幸せになっちゃいけない……)
そんな資格なんてない。
幸せになるなんて許されない。
だって、私は……私……は……わたし……は……ワ……タシ…………ハ……?
「由香ちゃん?」
茜に肩を揺すられて、由香は、はっと自分の意識が一瞬飛んでいたのに気が付いた。
「ご……ごめんなさ……っ」
「いいのよ、色々あったし、まだ疲れてるのね」
ぽんぽんと、笑いながら再び軽く頭を叩かれ、由香は途方もない罪悪感を感じていた。
最近の自分は以前にも増しておかしくなっている。
この土地が影響しているのか、それとも……。
(考えたって仕方ない……けど……)
考えられずにはいられない。
一度芽生えた疑心は簡単にはなくならない。
「ありがとうございます、伯母さん。……心配してくれて」
由香は伯母に向かって軽く笑みを作ると、そっと椅子から立ち上がった。
「由香、もう食べないの?」
「あー……うん、あんまり食欲ないから……」
静止してきた叶夜に控えめに答えると、少し悲しげな表情が返ってきて、由香はますますなんとも言えない気持ちになった。
兄には悪いが、本当に食欲がないのだ。先程まではあった筈なのに、今の一瞬ですっかり消え失せてしまった。
「あとで、なにか持っていくよ」
持ってこうか、ではなく断定。
兄の中で、由香に料理を持っていくことは決定事項のようだ。
心配性な叶夜らしいといえばらしい。
叶夜の意思はなかなかに強固なものであり、由香如きの軟弱な精神では打ち砕く事は出来ない。
「うん……ありがとう」
軽く兄の言葉を交わすと、由香はリビングを後にして四階へと上がる為に階段へとゆっくりと歩を進めた。
ここから落ちたことは記憶に新しいが、今の由香なら大丈夫な気がした。
(私は、死ねない)
死ぬ事だけは許されない。
足が勝手に動いていた。
そこに戸惑の欠片もない。
(大丈夫……だった)
無事に登りきり、階段を振り返りながら由香は、ほっと胸をおさえた。
自室の扉を開けて中に入る。
部屋の窓からは都会では見られない、澄んだ星空が伺える。
(綺麗……)
窓枠に腕をつきながら、由香は微笑を浮かべて月夜に目を向けた。
空に瞬く星が、自身の今後を表す光のように見えた。
きっと、大丈夫。
そう、思っていたかった。
よろしければ、クリックして投票にご協力ください。