困惑する想い
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ばたんと扉が閉まるのと同時に、由香はそのままその場で腰を抜かしてしまった。

背を閉まった扉に預け、そのままずるずると地面に倒れ込む。

情けない事この上ないが、世の男性からあんな扱い方は一度もされた事はなかった由香には、キースの態度は少々刺激が強すぎた。

脚に力が入らず、立ち上がれない。

それと同時に、ようやく現実に意識が追い付いてきた由香は、両腕を冷たい地面付きながら、自己嫌悪に陥ることしか出来なかった。

(……最低)

少しでも嬉しいと思っている自分が堪らなく嫌だった。
浅ましいと思った。
社交辞令でしかない筈なのに、本当に好かれているのではないかと思い込んで。

それよりも、どうやってここから帰ればいいのだろう。

ここに来るまで、不本意ながら寝てしまっていた由香は、キースに抱えられてここまで来た為、どうやってここまで来たのかわからない。

こんな事ならキースに送ってもらえば良かったかもしれない。

(でも……迷惑は掛けたくない)

たかが小娘1人の為にキースの手を煩わせたくはなかった。
それに、変に港家の住人に誤解されるという自体も防ぎたかった。

「青桐由香」

そんな時、前方から少しだけ低めの凛とした声が聞こえてきた。
座り込んだままだった由香はびくりとしながら急いで顔を上げた。

そこにいたのは、キャロラインだった。
先程は暗かったので分からなかったが、日の下で見る彼女は包帯か巻いているのを除けば、かなり美しい顔立ちをしていた。

白い肌に、瞳とお揃いの赤い髪がよく似合っている。

綺麗だなと呆然と彼女を眺めてると、キャロラインはその美しい眉を無表情ながら微かに寄せた。

どうやら気分を害してしまったらしい。

「あの……すみません」

由香が謝ると、キャロラインはほんの少しだけ眉根を寄せた。しかし、彼女はあくまでも無表情だった。

「いえ、別に」

淡々とした様子でそれだけ告げられ、二人の間に気まずい沈黙が流れる。

キャロラインは由香を穴が開くほど見つめていた。
じーっと、ねっとりと、値踏みされている様な感覚に、由香は軽く口の端を噛みながら俯いた。

理解できなかった。
なぜこんなにも見つめられているのか、それ以前に何故彼女は、由香の前に現れたのか。

「あの……」

「帰り道が分からないのでしょう?」

キャロラインは紡がれた由香の言葉を遮って、唐突にそして単調に話し出した。
表面上はあくまでも事務的に、だが隠しきれずに滲み出す微かな侮蔑の感情に、由香はぐっと拳を握りしめた。

こんなのは慣れている。
愚鈍だ間抜けだ、幽霊みたいで気味が悪い。
蔑むような目で見られるのは普通の事。
ここに来てからの待遇が良すぎただけ。

過去のトラウマに縛られ続ける愚かな少女に、世間は優しくない。
社会不適合者としてしか扱われない現実に、何度吐き気を覚えたか分からない。

由香は、やはりキャロラインは苦手だと思った。
噛み合わない会話と、その無表情の中に滲み出す、微かな怒りと苛立ちの気配。

「……迷ったのなら、頼ればいいではありませんか」

彼女の言うことはもっともだ。
確かに誰かに頼ればすぐに帰れる。
でも、知らない人に頼る事が怖い。

昔、知らない人に頼った結果が今の由香だ。

「キース様をお呼びしましょうか?」

「っ……やめてください!」

目を見開いて咄嗟にそう叫んでしまい、由香はしまったと口を両手で覆い隠した。
突然叫んでしまい、気を悪くしてはいないだろうか。

「……すみません」

地面を見ながら、由香はぼそりと小さく謝罪の言葉を口にした。

キャロラインは、叫んだ由香に驚いたのかなにも言いはしなかった。
驚いたというよりは、呆れたの方が近いのかもしれない。

「青桐由香」

だが、彼女は唐突に由香の名を呼び腕を取ると立ち上がるように冷たい視線で促してきた。
仕方なしによろけながら立ち上がると、キャロラインはそのまま由香の手を引いて森の中の道なき道を歩き始めた。

「あのっ……」

「なにか?」

困惑している由香に、キャロラインは無表情に振り返った。

「どこに、行くんですか……」
「あなたの家以外にあると思いますか」

予想外の展開に、由香はギョッと目を見開いてしまった。てっきり嫌われていると思っていたのに、実はそうでもなかったのだろうか。

「あの……」
「まだなにか?」

再び声を掛けると、彼女は僅かに苛立ちを声に滲ませた。

「ありがとうございます……」

由香が礼を言うと、彼女は先ほど屋敷で由香が礼を言った時と同じような反応を見せた。
純粋な驚き。
彼女は、あまり礼を言われる事に慣れていないのだろうか。

「……私はキース様からの御命令を実行しているだけです」

その言葉に、はっとする。
彼女からの親切心ではなく、キースの親切心だったらしい。

キースには全てお見通しなのだろう。なにも考えていなかった由香が迂闊だった。

ザクザクと草を踏む占める音だけが、あたりに響いていた。
繋がれたキャロラインの腕がやけに冷えていたのに、由香は妙な不安を覚えていた。

「着きました」

由香は、無言で下を向いて歩いていた為、周りの風景はろくに見ていなかった。
だから、キャロラインに言われ顔を上げてようやく、帰還したことを認知した。
この坂を下りれば、もうそこが港の家だ。
以外に屋敷とこの家は離れていなかったらしい。

「あの、ありがとうございました」

礼を言おうと、横を見上げると、彼女は既にどこにもいなかった。
繋がれていた手も、当の昔に離されてしまっていたようで、彼女の手の冷たさもどこかへ行ってしまった。
腕には由香自身のぬくもりが戻っている。

(帰ろう……)

かなり時間が経ってしまったので、もう伯母たちも帰ってきていることだろう。

転けないようにゆっくりと坂道を下っていく。
家の前についた瞬間、由香は安堵感を覚えた。

案の定灯りが点っており、窓からは微かな光が漏れ出ていた。
怒られることは確実だろう。
由香はゆっくりと息を吐き、覚悟を決めて玄関の扉を開けた。

「ただい――」
「由香っ!!」

扉を微かに開けたその瞬間、ここに居るはずのない人物の切迫した叫び声とともに、熱い抱擁が由香を襲った。

強く、きつく由香の身体を全身で抱きしめているその人物の体はガタガタと小刻みに震えているようだった。

「叶夜……お……兄……ちゃん…………?」

名を呼ぶと、ただでさえきつかった力が更に強くなった。

(なんで……お兄ちゃんがここに……)

叔母の話では叶夜は大学へ行っていた筈だ。今までの由香の経験上学校に行けば叶夜は二、三日帰ってこない事が多かった。
それが、今回は3、4時間程度で帰ってきた。

それだけ心配されていたということなのだろうか。

「大学……は……?」
「終わったよ」
「早かった……ね……」
「……ああ」

会話している間も、解放される気配は微塵もなかった。
それ以上会話は続かず、僅かな時間なのだろうが由香にはその沈黙が痛いほど突き刺さった。
今の叶夜に、いつもの余裕で頼りがいのある優しい兄の気配は微塵もなかった。
漠然とした不安。
それだけが伝わってきた。

「……今まで、どこにいたの?」

長い長い沈黙を破ったのは叶夜の方だった。
掠れるような声で紡がれたそれは、由香の耳に辛うじて届く程度の声量だった。

「……家の前で……道に……迷ってた女の子がいて……それで、その子を送り届けてたら……遅くなって……」

嘘は言っていなかった。
ロザリアを送り届けて遅くなったのは事実だし、諸々あったとしても、それを兄に説明すれば更なる混乱を呼びかねない。

「何考えてるんだ!!」

ビクリと肩が震えた。
初めて見る突然の叶夜の激昂に、由香は唖然とするしかなかった。

「僕がどれだけ心配したかわかる!?家に帰ったらもぬけの殻!鍵もかかってないし、無用心にも程がある!!勝手に外出するなんて馬鹿すぎる!!」

「ごめん……なさい……」

叶夜の言う事はもっともだった。
いくら田舎でも、鍵も掛けずに出掛けるなんて無用心過ぎた。

「ごめんで済むと思うの!?由香は僕の大事な妹、たった一人のなにより大切な家族なんだ!!もう僕には由香しかいない……それを分かってる?理解できている?」

切迫した兄の真剣な眼差しに、由香の瞳が激しく揺らいだ。
分かっていなかった。
自分の身勝手な行動で兄にどれだけ心配を掛けるか、理解できていなかった。

「頼むから……身勝手な行動をしないでくれ……」

搾り出すような声に、なにも言葉が出なかった。
由香は、今にも泣き出しそうな兄の背を、そっと擦ることしか出来なかった。

――叶夜がどれだけお前を溺愛してるか、お前は分かってない。

階段から落ちた時、和真にそんな事を言われた。
確かに、分かっていなかった。
死のうなんて、死んでも構わないなんて、自分が死んでも誰も悲しまないなんて一瞬でも考えた自分が馬鹿だった。
少し、外出していただけでこんなにも精神的に不安定になってしまうのだ。
由香が、たった一人の大事な肉親がこの世から消えたとなると、叶夜はきっと壊れてしまう。
大好きな兄が、兄でなくなってしまう。

(それは駄目……)

「もう……勝手なことはしないよ。……絶対、心配掛けない……」

そっと自分より広い背中を擦る。
自分より年上の兄が、今の由香には子供のように見えた。
拠り所を求めている子供。
母親を探し求める、迷子。

「本当に?」
「……うん」

自分達は歪んでいる。
互いに依存している異質な関係。

共依存。

その言葉が一番当てはまる気がした。

「由香」
「……なに?」

そっと名を呼んだ兄に小さく言葉を返すと、不安気だった叶夜がふっと少しだけ笑みを零した。

「もう少しこのままでも?」

由香は、こくりと無言で小さく頷いて、安堵させるように自分から叶夜に抱きついた。
昔から、叶夜の腕の中は安全な場所だった。
落ち着き、癒される場所。
小さな頃から、叶夜はいつだって由香の側にいてくれた。
モテるのに、一度も彼女を作らずに、ずっと由香の手を引いてくれていた。
これからも、そうあって欲しいとは思う。

(でも、それじゃ駄目……)

兄は賢い、優秀な人間だ。
兄の為にも、自分自身の為にも、この関係ではいけないと思う。
このままでは、いつまでたっても兄は結婚も出来ないどころか、由香という錘を背負って生きていくことになってしまう。

兄がいたから、ここまでやってこれた。叶夜が世界の全てだった。

だからこれ以上、大好きな兄を縛りたくはない。
兄の為に、由香は自立しようと決意できた。

「ねえ、お兄ちゃん」
「うん?」
「私、頑張るから……」
「……無理はしないようにね」

柔らかく笑んで頭を撫でてくれた兄の為に、由香は心の底からしっかりしようと決意したのだった。


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