蛇の独白
主なる神が造られた野の生き物のうちで、もっとも賢いのは蛇であった。
蛇は女に言った。
「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」
女は蛇に答えた。
「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神さまはおっしゃいました。」
蛇は女に言った。
「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
日本聖書協会『聖書 新共同訳』(創世記3・1-5)
* * *
「蛇が人の女を唆し、女が男を誘惑する。そして人は楽園を失った。……なかなか滑稽な話だとは思わない?」
深く椅子に腰掛け、口元に笑みを浮かべた男は、パタンという音を立て、持っていた本をそっと閉じた。
そうね、と気の無い返事をした少女は、一瞬男の方をちらりと見ると、すぐに瞳を閉ざてしまった。
長い髪を純白のベッドの上に広げ、ごろりと寝返りを打った少女は、うつ伏せの姿勢になったまま動こうとはしなかった。
「でも、貴方ならそんな事はしないんでしょうね」
閉ざされていた瞳を静かに押し上げながら、少女は呟く。
瞳を閉ざしたまま、蛇は穏やかに笑う。
イヴの頭に手を乗せれば、少女はくすぐったげに頬を緩ませる。
「レボルトは、私の蛇さんなんでしょう?」
レボルトの目元が一層柔らかくなった。
「そうだね」
「……そうよ」
レボルトの腕を振り払い、イヴが体を起こした。
ベッドの上に座り込む形となった少女は、自身がされていたようにレボルトの頭を撫で始めた。
撫でるというよりは、髪を乱すようなそれを、蛇は黙って甘受していた。
「事実、俺はイヴを唆してなんかいないだろう?」
それに、と撫でられながら、レボルトは言葉を紡ぎだしていく。
「イヴ様に、目覚められては困りますから」
久方ぶりに聞いたその呼称、一瞬野獣のように細まる眼光に、イヴは一瞬頭を無遠慮に撫で回していた腕を止めた。
時々、レボルトはおかしな事を言う。
今だってそうだ。
目覚められては困ると言われたところで、こうして今、イヴはレボルトと話している。その体に触れている。きちんと自分の意思でレボルトの側にいる。
だが、その事を口に出して伝える度、レボルトは悲しげに笑う。
「君は、何も知らなくていい」
突如感じた右腕を強く掴む力に、イヴははっと視線を上げた。
直視したレボルトの瞳は、澄んだ黄金をイヴに刻みつけていく。
その度、心の奥を突き刺されるような痛みが走る。
昔、彼の瞳はこんな色をしていただろうか。
「イヴ」
「え……あ。……ご、ごめん。ちょっと考え事をしていて……何?」
あからさまな動揺に、レボルトが眉をしかめる。
自分をペットだ、イヴのものだと卑下する癖に、彼の態度は下僕というにはいささか物騒なものがある。
「ほ、本当になんでもないのよ?」
「だと、いいんだけどね……っ!」
「ちょっ……!!」
語尾を荒げ、レボルトはイヴの右手を握ったまま、唐突にイヴを押し倒した。
口をぽかんと開け、顔を真っ赤に染めたまま固まってしまったイヴに、レボルトはにやにやとした笑みを浮かべる。
「い、いきなりすぎるのよ……っ!」
「君が不安にさせるのが悪い」
不服気なイヴの額に、数度宥めるように口付けを落としていく。
「……性欲大魔神」
突如眼下の少女から発せられた単語に、レボルトは思わず吹き出していた。
「違いない」
「変態」
「自覚はあるよ」
「陰湿、ねちこい、めんどくさい」
「……段々ただの悪口になってきてない?」
「最初から悪口のつもりなんですけど」
そっぽを向いてしまった主人に、蛇は呆れながらも、なんとも微笑ましいとご満悦だった。
何を言われようが、何をされようが、レボルトにとって愛しい主人から貰える感情ならば、どんなものだって悦びに変換される。
「だいたい貴方はーー!!」
ろくな抵抗にもなっていない柔らかな拒絶を無視し、レボルトは少女の唇を塞いだ。
そっと落とされただけの子供騙しのそれにすら、イヴは過剰に反応を返す。
「……あとで、殴る」
目を細め、発せられた罵りの言葉にすら悦びを見出すあたり、相当頭が逝ってるんだろう、と思いながらレボルトは少女のワンピースに手を掛けた。
一瞬、レボルトの背に黒い羽根が見えたような気がした。
「貴女が、それを望むなら」
当然少女は生娘でもなければ、何も知らない子供でもない。
それでも、レボルトにとってのイヴは何十年も、何百年も前の小さな子供のままだ。
柔らかな微笑みを浮かべ、レボルトの名を呼び、残酷な好意を注ぎ続けていた、あの頃の少女のまま何も変わらない。
レボルトが名を呼ぶたび、恥ずかし気に伏せられる蒼い瞳も、染められる頬も、純粋だった少女のそれと変わりはしない。
どんなイヴも美しい。愛おしくて堪らなくなる。
首筋に口付けを落とし、何度も何度もイヴの名を呼び続ける。
それでも、どんな時だって一番好きなのは
「レ、ボルト」
少女の口から自身の名が発せられる、そんな瞬間だった。
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