蛇の毒白]



「初めまして、お嬢さん」

胸に片手を当て、ベッドの上に座り込んだまま目を見開く少女に対して、蛇は偽善者然とした笑みを浮かべながら、頭を垂れた。
二度と見ることのないと思っていた赤みがかった茶の髪、薄く血管の浮き出た細い手首、かつて好意のみが込められていた筈の海色は、打って変わって怯え震え上がる小動物そのものの色でレボルトを凝視していた。

その手で枷を解き放った筈の少女。
本来ここにいる筈のない異端、その権化。
逢いたくなかった、と言えば嘘になるだろう。
それでも、こんな所で会うべき相手ではなかった。

ズルズルと不恰好に腰を抜かしたまま、ベッドの上を後ずさっていくイヴに、レボルトはわざとらしく肩をすくめた。

「そんなに怯えなくても何もしないからさ」

浮かび上がってくるのは邪な劣情。
主人を前にふつふつと湧き上がる興奮に、意図せずレボルトの瞳が細く縦に伸びていった。
びくりと肩を揺らした少女に、これではいけないと必死に善人の仮面を貼り付け、レボルトは少女に再び微笑みかける。

「そうだ、お茶でも飲む?」

「はぁ……どうも」

イヴは気の抜けたような、苦笑いを浮かべた。

そこから先は、正直レボルト本人も何を話したかあまり覚えてはいなかった。
ただ、必死に少女の機嫌を取ろうと悪戦苦闘していた事だけははっきりと記憶していた。
なんとも、皮肉な話だ。
かつての彼女は、きっとこんな気持ちだったのだろうかと、遠い遠い、昔の記憶を呼び起こす。

今目の前にいる少女も、かつてレボルトに笑いかけてくれた幼子も、レボルトにとっては何も変わらない。
彼女が何も覚えていなくとも、レボルトと少女の間に出来た縁は消えはしないのだから。

「じゃあ、まずは俺の名前から教えようか」

かつてこの手で手放した少女。
しがらみから離れ、ただ幸せであれと願い、誰も手にも届かない世界に送り届けた筈の少女。

かつての自分とは違う。それでも、前回だって出来たのだ。
今回だって、きっと彼女を遠ざけられる。
どれ程餓え、焦がれていようとも、絶対に彼女を逃がしてやれると、頑なに信じていた。

「……俺はレボルト。よろしくね、お嬢さん」

真っ白になっていた頭で、そんな風に口走った事だけは、何故だか鮮明に覚えていた。


* * *


「きっと、その名前を付けてくれた人は、とても貴方にとって大切な人なのね」

どんな顔をして、イヴの言葉を聞いていたのか。
全身から他の男の匂いを漂わせ、にこやかに微笑むイヴに、殺意が湧かなかった、といえばきっと嘘になる。
何の為にここまでしてきたのか、自分の存在意義を全否定された感覚が、レボルトの足元から血の気を引かせていった。

神に逆らい、人に刃向かい、世界をも敵に回し、ただ一人の少女の幸せだけを願って生きてきた。
悪魔と蔑まれ、たった一人でいままで生きてこられたのも、全てはイヴの幸せの為だったからだ。

感情の渦が黒いとぐろを形作り、レボルトの影は数多の蛇の形となり、白い部屋を黒く染めていく。
頬に浮かぶ白い鱗、鋭く伸びた黄金の瞳、口の端からは鈍く輝く毒牙がのぞいていた。

自分勝手な望みだった。それでもレボルトにとって、イヴは希望だったのだ。
生きていく糧、唯一自分を求めてくれた存在、どれ程遠く離れていようとも、確かにイヴの心の中にレボルトという存在の片鱗が刻まれている。それだけでも、十分に幸せだった。その筈なのに。

それが何だ。お前は誰だ?
ふざけるな。

身勝手な好意は風船のように膨らみ続け、やがて感情の膨張に耐えられず、木っ端微塵にぱちん、と弾け飛んだ。
弾け散った塵の中に残されたのは、明確な「絶望」という感情、ただそれだけだった。

「ぶっ……は……っ!……はははははは!!!!」

突然声を上げ、笑い出した男に、イヴはぽかんと間抜けに口を開けていた。
それが尚滑稽に思え、哀れな蛇は腹を抱え狂ったように笑う。
笑いがようやく収まった時、レボルトの目は座っていた。

「ひ……っ」

唐突に背筋を伸ばし、見下した目で少女を見下ろす男に、イヴが小さく悲鳴を上げる。
浮かんだ歪な笑みを隠さずに、レボルトはベッドの上に腰掛けていた少女の肩に両腕を掛けた。
そのままイヴを無理矢理ベッドの上に貼り付け、身を乗り出すと、真っ直ぐに少女の澄んだ目を覗き込んだ。
初めて会った時と変わらない色。だが、あの時の幼子と今のイヴの目に浮かぶ感情は真逆のものだった。

「馬鹿みたいだと思いませんか、イヴ様」

娘は何も答えない。ただ黙ってレボルトの瞳を見つめるだけだ。
哀れみのつもりなのかと、蛇は自嘲気味な笑みを強めていく。
その口元には鋭く輝く牙が覗いていた。

「勝手に期待して、勝手に絶望して。……今度は勝手にあなたを手篭めにしようとしている」

レボルトの言葉に耳を傾けながらも、イヴは抵抗しようとはしなかった。
もう正気ではないのだから、当然だろう。
何も理解はしていないのだろうと勝手に決めつけ、蛇は独白を続ける。

「もう、貴女の幸せなんて、どうだっていい」

無抵抗のイヴの首筋に顔を近づけ、蛇は大きく口を開く。
侘びの言葉も後悔も浮かびはしない。
少女の首筋に力強く毒牙を突き立てた瞬間、湧き上がったのは漠然とした歓喜だった。

痛みにイヴが歯を食いしばりながら、レボルトの背を数度殴りつけていた。
だが、それも長く続きはしない。
動けば動くほど、毒が体に染み込むのが早くなる。

レボルトをぽかぽかと殴りつけていた腕からは次第に力が抜けていき、だらりと力なくベッドの上に落ちた。
一瞬力強さを取り戻した蒼い目からは輝きが失われていき、光が失われた瞳は、ゆっくりと、確実に閉じられていく。

意識を失う直前、イヴが微笑んでいたような気がした。

完全に意識を失ったイヴの体を両腕で抱えあげ、レボルトは少女の首筋に刻まれた自身の毒牙の痕跡を眺めていた。
強く噛みすぎたせいか、首筋からはだらだらと血が滴り落ちている。
それを舌で舐め取り、レボルトは一層イヴの体を強く抱きしめた。

最初からこうしていればよかった。
少し遠回りはしたけれど、これでよかったのだ。
微かに残った自分の理性を殺し、瞳を見開けば、何もなかった筈の空間に一筋の切れ目が浮き上がる。

到底世界とは表現できない、小さな小さな純白の部屋。
この小さな箱庭の中でだけ、レボルトは王でいられる。

一歩時空の切れ目に足を踏み入れれば、先ほどまでいた忌々しい部屋の姿は霞んでいく。
すっかり裂け目が閉じた白い部屋の中には、一匹の蛇と蛇の腕の中で眠る主だけが佇んでいた。

もう、誰にも渡さない。

眠り続ける少女をそっとベッドに横たえさせ、レボルトはベッドに腰掛け少女の寝顔を見守りながら、ただ待った。
自身がイヴに注いだ毒が、少女の意識を混濁させる。

「イヴ様」

十分に毒の回っただろう頃合いを見計らい、レボルトはイヴの額にそっと口付けを落とした。
血色の失せた少女が、ゆっくりと瞼を押し上げていく。

「お目覚めですか、イヴ様」

額を撫でながら微笑めば、苦しげにイヴの眉がしかめられる。
苦しげに息を吸い込み、全身から汗を流しながら、少女は言葉を必死で紡いでいた。

「イ……ヴ……さ……ぁ……?」

虫の息のような声を漏らし、イヴは現状を確認しようともがいていた。
必死に記憶の海をかき分け、頭にかかったモヤを振り払おうとしている。

「わた……し……は……」

片腕を額に押し当て、痛む頭と格闘を続けている。
自分が何者なのかすら、きっと少女には分かっていない。
だが、それでいいのだ。
彼女のことは、誰よりもレボルトが分かっている。イヴが何も分かっていなくても、自分さえ分かっていればいい。彼女の事を理解しているのは、この世に自分一人だけでいい。誰よりも、少女自身よりもイヴを知っている。そんな事実に気付いた瞬間、恍惚に口の端が上がっていく。
浅ましい、気持ち悪い、おぞましい、汚らわしい。
かつての自分なら、絶対にしなかっただろう事を、今は平然とやってのけている。
イヴが手に入るのなら、そんなものは些細なことだった。

「わ……た……し……は……っ!」

「イヴ様」

額を押さえている少女の腕を手に取り、指先を食む。
甘噛みを繰り返し、一本一本余すことなく、言葉通り、レボルトはイヴの指を味わって、舐めていた。
小指の付け根までたどり着けば、次は雨のように手の甲に口付けを落としていく。
まさに、盲信、という単語が的確だった。

「……ん」

くすぐったげに瞳を閉ざし、イヴが身をよじる。
そんな些細な動作にすら、興奮を隠しきれなかった。

「イヴ様、イヴ様、イヴさ……ま……っ!」

指先、手の甲、手首と段々と口付けの位置が上がっていく。
積もり積もった思慕の分だけ名前を連呼しながら、レボルトはマーキングのごとく、イヴの体に唇を這わせていった。
キスの雨はやがて少女の肩にまで到達する。
その頃には血色の失せていた顔は恥ずかしげに赤く染まり、瞼は羞恥に震えていた。
レボルトの唇が首に到達した頃、閉じられていたイヴの瞳が微かに見開かれた。
だが、レボルトはそれには気付かず、身勝手な愛撫を続けていた。
自身が突き立てた牙の傷跡を舐る。
イヴの首筋にレボルトの髪が触れるたび、イヴからか細い嬌声が漏れ出た。

「……イ……ヴ?」

そう、確認を求める幼子のような声を上げた少女に、レボルトは柔らかな笑みを返した。

「……ええ、そうですよ」

口付けを中断し、顔を上げ、少女の額をそっと撫でれば、イヴがふにゃりと顔を緩めて笑う。

「俺の、イヴ様」

頬に口付ければ、イヴの顔が一層赤く染まる。
涙すら浮かべ小さく喘ぎ声を漏らす少女が狂おしく、愛おしい。

「あ……なた……は……」

レボルトの頬に手を伸ばし、イヴが問う。
その腕に自身の腕を重ね合わせ、レボルトは表情を和らげた。

「レボルト」

「レ……ボルト……」

強くレボルトは少女の腕を握りしめた。

「わたしの……蛇、さん」

「……ええ」

掴んだイヴの腕に軽く口付け、二の句を紡いだ。

「俺は、貴方の物です」

「わた……しの……」

突然、イヴの瞳から一筋の涙が落ちる。
ぎょっと目を見開くレボルトを置き去りにし、イヴは両目から滝のように涙を零し始めた。

「もう……!や……らの……!!」

呂律回らない舌が不器用に少女の言葉を紡いでいく。

「う……っ!いやいや!いや……!」

レボルトの腕を振り払ったかと思えば首に両腕を回し、必死に男の顔を引き寄せながら、イヴは泣き喚いた。
なんとかイヴを落ち付けようと少女のされるがままになりながら、レボルトは横たわる彼女の背をそっと抱き締めていた。

「何が、嫌、なんですか…?」

レボルトが聞いても、イヴは嫌だ嫌だと首を横に振り、聞き分けのない子供のように泣き喚く。

「イヴ様」

名前を呼ぶと、イヴが少しだけ落ち着きを取り戻した。涙声でレボルトの名を呼びながら、イヴは男の頭を引き寄せる力を強めた。
応えるかのように、抱きしめる力を強めながら、レボルトはイヴの耳を食むようにして告げる。

「俺に出来る事なら、なんだってしますから」

「……ほんとう……に?」

か細い音がレボルトの鼓膜を揺らす。

「ええ」

肯定を示せば、イヴの肩から少しずつ力が抜けていく。

この少女の中に消せない傷を残した男、この手で文字通り八つ裂きにして、少しは鬱憤が晴れたと思っていたのだが、どうやらそんな事はなかったらしい。
何処までも忌々しい奴だと、苛立ちの分だけ少女の身体を潰さんばかりの勢いで掻き抱いた。

「もう誰も、貴女を傷付けたりしない」

俺以外は、と心の中で付け足す。
この身体に触れるのも、心の中を蝕むのも、己だけでいい。
男の策略など知らず、イヴは満面の笑みで笑うだけだ。

「うん、そう……そっか」

「はい」

「れぼ……ると」

「なんですか?」

「あのね? おこらないで、きいてくれる?」

「なんなりと」

耳元に囁かれる愛らしい少女の声に、ぞわりと身体が喜びにうち震える。
レボルトの髪に指を通しながら、イヴは甘やかにレボルトを蝕む毒を吐く。

「にどと、わたしを、おいて、いかないで」


prev next

目次へ

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -