蛇の毒白Y



風にそよぐ赤みがかった茶色の髪に、晴れた日の海のように澄んだ蒼い瞳。
あたたかな愛に包まれて育った幼い少女は、一人で生きてきた蛇に対して臆することなく、好意を込めた残酷な言葉を告げる。
何年たっても変わらない。
くるくると変わる表情も、時折恥ずかしそうに赤く色付く白い肌も、簡単に折ってしまえそうな細い首筋も。
身長が伸び何年もの年月を重ねても、少女の根本は何も変わらない。
ああ、何も変わらない。何も。
何も。

日の光が少女の背後から射し、レボルトの上に黒い影を落とす。
優しく己の名前を呼ぶ声に、夢と現実のはざまをさまよっていた男はゆっくりと瞼を上げていく。
十年前と全く同じ表情で笑って見せたイヴに、レボルトはゆっくりと瞬きを数度繰り返す。

なかなか覚醒しないレボルトにしびれを切らしたのか、いたずらっ子をとがめるような、そんな顔をして、イヴはレボルトの横にそっと腰を下ろした。かっちりと少女の肌を隠す黒のロングドレスがふんわりと地面に広がる。

どうやら、レボルトが起きるまで気長に待つことにしたらしい。

慈悲深い聖女のように微笑み半覚醒状態のレボルトを見守るイヴのまなざしはやわらかい。
男の寝ぼけた頭は、まだ現状を現実と認識していなかった。

そっと、微笑みをたたえているイヴの頬に手を伸ばす。
そのまま臆することなく、レボルトはまだ幼さの残るイヴの顔の輪郭を確かめるように、彼女の頬にそっと触れた。
イヴの目が微かに見開かれる。
数秒後、固まっていたイヴは、恥ずかしがっているような、喜んでいるような、そんな複雑な顔を浮かべレボルトを睨みつけていた。

「レボルト、貴方寝ぼけているでしょう」

うつろな眼差しで自分に触れてくる男をそう認識したらしいイヴは、膝の腕で両腕を握りしめながら、レボルトを睨む。

「……そうですね」

ああ、そうだ。
確かに寝ぼけているのだろう。
普段なら起きて早々、しつこいだの、いい加減諦めろだの、そんな皮肉な言葉しか口から出ていかない。
いつもイヴがレボルトにするように、やんわりと微笑んで見せれば、少女は息を呑み、頬は真っ赤に染まる。

「わ、私の事なんて嫌いなんでしょう……!?」

目を逸らし、必死にレボルトの視線から逃れようとするイヴを、可愛い、以外のどんな単語で表現すればいいのか、レボルトには分からなかった。

「ええ、嫌いです。大嫌いです」

だから、とその語一息吐いてから告げ、レボルトはイヴの頬を撫でていた腕で、そのままイヴの頬をぐいっと思いっきりつねって見せた。

「ひっらぁぁー!!」

いったー!と叫ぶところを、呂律が回っていないせいでかなり間抜けなことになっていた。
そのまま伸ばしたほっぺたを適当な位置で離すと、ひっぱりすぎて赤くなった頬が目に入る。
涙目になりながら必死に赤くなった頬をさするイヴを、体を起こしながらレボルトは鼻で笑った。

「今鼻で笑ったでしょ!!」

「まだまだ甘いですね、イヴ様。俺が貴方に優しくする日が来るとでも?」

「微塵も思ってません」

きっぱりと真顔で言い切るイヴに、吹き出しそうになるのを抑え、レボルトは再度少女を嘲り笑う。

「素直でよろしい」

レボルトが言い切るのと同時に、頭上から白い蛇がイヴの右腕目がけて降ってくる。
それを慣れた動作で受け止めながら、イヴはレボルトを睨み続ける。

「年々、からかい方が悪質になってる気がするんだけど」

「気のせいですよ、気のせい」

「……ふーん」

イヴと白い蛇が同時にレボルトを薄目で睨み付ける。
なんでお前までイヴの援護に回っているんだと、白い蛇を眉間に皺を浮かべながら睨めば、蛇は素知らぬ顔をして舌を揺らす。
知るか、とばかりにレボルトはイヴに背を向ける。
レボルトに戦慄が走ったのはその直後だった。

背中に何かが当たっている。
突如自身の背に襲ったあたたかな衝撃に、レボルトは目を見開くこととなる。
レボルトの胸あたりに回されている長めの黒袖におおわれた白く細い腕。
首筋に当たる柔らかな髪と、押し当てられた小さな額。
そして、なんとも形容しがたい、背に当たっている柔らかな二つの。

そこまで考えて、ようやく現状を把握したレボルトは、文字通り固まった。

「……何してるんですか、貴女は」

恨みがましく出た、本性を押し隠しての不機嫌全開の声音にもイヴは臆さない。

「何って、その……色仕掛けのつもりなんですけど」

最後の方は微かに聞こえる程度だったが、体制的に耳元で囁かれているレボルトには一言一句違えることなく届いていた。

「はぁ?」

意図せず威圧的に出た声に、イヴの体がびくんと震えるのが直に伝わってくる。
従って、持ち主の動きに合わせ、胸についているそれらも動く訳で。
ああもう、頼むから動くな。当たってる。密着するな。それ以上は色々とまずい。
怒声を上げてから無反応になっているレボルトが気になるのか、更に体を密着させ、レボルトの顔色をうかがおうとイヴが体を乗り出す。

そもそも十年間、好き勝手に振る舞わせておいて、嫌いな訳がない。
レボルトとて、れっきとした男だ。ここまでくると生理的に諍えないものがある。
それも、少なからず、どころではなく何年も焦がれた、焦がれ続けた人間の女が、自ら誘惑していると来ている。
紫の瞳が徐々に金へと塗り替えられていく。

「レボルト……?」

「人に脂肪の塊を押し付ける事が色仕掛け、なのだとすれば、貴方の頭は相当におめでたいと思いますよ」

長い沈黙の後に放たれた低音に、イヴは眉間に深い皺を刻み、レボルトから体を離した。
膝を抱え、口をとがらせながら、じろりとレボルトを睨み付ける。

「……脂肪の塊って何よ、脂肪の塊って」

「事実でしょう。無駄にでかいと将来垂れますよ」

「はぁ!?余計なお世話よ!!要するに、貴女は私が太っていると言いたいのかしら!?えーえー、悪かったですよ!!そもそも……!!」

イヴが顔を上げ、噛みつかんばかりの勢いでレボルトの顔を見据えたところで、彼女の言葉が途切れた。
久しく見ていなかった黄金色と視線がかち合う。
その意味するところがイヴに把握されていない事が、レボルトにとっての唯一の救いだった。
そもそも、とレボルトは思う。
好いた相手に後ろから抱き着かれて興奮しない訳あるか、と。

「えっと……その……怒ってる?」

瞳孔が細く伸び、焔のように激しく輝く黄金に、イヴは縮こまる。

「そう見えるのなら怒ってるのかもしれませんね」

ふいと、目を逸らした刹那、目に見えて落ち込んでいく少女に、ぞわり、と甘やかな刺激が背を駆け抜けていく。
ああ、駄目だ。これ以上は流石にまずい。

「なんか、ごめん」

そのまま、帰るねと言い放つ少女にほっと背を向けたまま、レボルトは安堵の息を吐く。

「最後にその……一応、聞かせて」

邪な感情と戦うレボルトの背を最後に押したのは、他ならぬイヴ自身だった。

「……私の事、好きになった?」

その後、小さな声でまぁ、そんな訳ないわよね、と溜息交じりで告げ、そのまま帰ろうとレボルトに背を向けた女に、抑えきれなくなった何かが音を立てて崩れていった。

「もし」

一度口を出た言葉は留まることなく流れ出る。

「もしも」

背を向けたまま、イヴが立ち止まる。
少女は息を呑み、そのまま男の言葉を待っていた。

「俺が、貴女を好きと言ったら、その時はどうするんですか?」

「え……?」

強い風が林檎の木を大きく揺らす。
振り返った少女は目を見開き、面白いほどの間抜け面を晒していた。

「どうって……別にどうもしないわよ」

平静を装いながら、イヴの声は震えている。
彼女自身、目指す関係の先に何も求めず、当然見据えも、夢見る事もしなかったのだろう。
それは正常な事だ。
彼女は子供のようでいて、完全な子供でもない。
かといって大人かと言われれば、その答えは否だろう。
イヴは分かっている。この関係がどれだけ不毛なものか。
十年前の無垢な子供ではないのだ。少女は現実を知り、受け止め、かの男の伴侶となる未来をしっかりと見据えている。
だが、開いたばかりの芳醇な花は移ろいやすく、もろく、きっと手を伸ばせば、こんな害獣風情にも簡単に、手折ってしまえる。

立ち上がり自身の腕を掴んだ男に、イヴの体が小さく震え上がる。

「質の悪い冗談はやめ――」

「冗談じゃないと言ったら、どうします?」

逸らされていた視線を、イヴの顎を掴むことにより無理やりこちらに向けさせながら、レボルトは思う。
手の届く場所にいる。今、この手に触れている。
この女とは、遠くない未来、それこそ今日明日にでもアダムの決断次第で会えなくなる。

勝手に首輪をつけたかと思えば、ある日突然捨てられる。
適当に可愛がって、適当なところで放棄される。
そんな未来がありありと想像出来、怒り、あるいは興奮に瞳が更に輝きを増す。
小動物のように脅える主に、心臓が早鐘を打ち、醜い熱が全身を駆け巡る。

今この手で確かに触れている、この、女は。

文句を言おうと微かにイヴの口が開き、頼りなく息を吸い込む。

どうしようもない。
どうしようもないほどに焦がれ、求め、何年も何年も、当てのない熱を持て余し続けた。
ああ、この誰よりも残酷で愛おしい女が、他の男の物となるその前に。

震える唇を目に留めた瞬間、これ以上暴走しようがないと思っていた男の本性が牙を向いた。
呼吸の為、僅かに開かれた唇の隙間を、舌で無理矢理に押し入っていく。
瞬間、抵抗を試みてか、レボルトが抑えていなかった方のイヴの片腕が空をさまよい始める。

レボルトは、湧いていた頭がその拍子にすっと冷えていくのを感じた。

好きだなんだと言っていたくせに、結局は俺なんてその程度か、と。
ぴきぴきと男の目の下に僅かに亀裂が走る。
それは鱗の形を男の左頬に確かに刻み込んでいく。
夢中でイヴを貪り食いながら、頬に当てていた腕を離し、少女のか細い腰を引き寄せる。

一瞬、呼吸の為にわずらわしくも口を離せば、目に涙を浮かべ、頬を赤く色付かせたイヴが必死に息を吸い込みながら、濡れた唇を震わせ、微かな声を上げる。

「ぁ……め……て」

レボルトは眉を微かにしかめはしたが、瞳を潤ませながら告げられた制止の言葉など、逆に男を煽るだけのものでしかない。
再度唇を重ね、無遠慮に口内を舐る。
羞恥に悶え、薄目に涙をたたえながらも、イヴは男の舌を噛んでまで抵抗しようとはしなかった。
それがレボルトを更に調子付かせると気付かないでやっているのだとすれば、とんでもない女だなと、舌を絡ませ、レボルトは口付けを深めていく。

「……ぁ」

途中、そんな声が少女から漏れる度、薄ら暗いドロドロとした感情が更に膨れ上がっていく。
喰らっている。
それが的確な表現だった。
純真無垢で何も知らなかった少女の唇を、今、所有品風情がこうしてなぶっている。
どうしようもない想いが、熱を加速させる。
好きなのだ。どうしようもないほどに焦がれている。言葉では言い表せないほどに。
それこそ、この場で、手に入らないのなら殺してしまいたいほどに、どうしようもなく溺れている。
足りない、この程度では到底満たされない。もっと、もっと、と貪欲になっていく。

空気を求めて、名残惜しくも再度唇を離した瞬間、ばんっとイヴの両腕がレボルトの胸を押し返した。

「っ……ぁ……め……!!」

それだけで、呆気ないほどに、それこそレボルト自身も驚くほど簡単に、男はあっさりとイヴを解放した。
瞬間、戻ってくることのないと思っていた理性が総動員でレボルトの頭を冷やしていった。
頬に浮き上がっていた鱗も消え去り、瞳も元の紫に戻っていた。
はぁはぁと荒い息を吐き、ほんのり赤い顔で呼吸困難に喘ぐイヴに、蛇は仏頂面で言い放つ。
口を吐いて出たのは、愛の言葉等ではなく、相変わらず、むしろいつも以上に冷たい拒絶だった。

「これに懲りたら、もう二度と近寄らない事です」

その方がいい、と良心がレボルトを呵責する。
それとは反対に、悪魔はこのまま手籠めにしてしまえ、と囁く。

「分かりましたね」

勝ったのは僅かに残った男の常識だった。
これ以上少女の前に姿を現しておくことすらはばかられ、レボルトはイヴに背を向け、一瞬で木の上に移動する。
ふい、とイヴに背を向けながら自己嫌悪に浸るレボルトを、白い蛇は実に愉快だと嗤ってみせる。
いっそ一思いに穢してしまえばよかったのに、とでも言いたげな白蛇に、レボルトの心臓が早鐘を打つ。

その日を境に、イヴがこの木の下に来ることはない。

そして、蛇は生涯後悔する。


ああ、あの時、本当に犯してしまえばよかった。


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