蛇の毒白X
「大丈夫か?」
布団にくるまり、ベッドに腰かけている男に背を向け、少女は曖昧に頭を縦に振る。
そっとイヴの額にかかっている前髪を上げ、アダムは妹の顔色を確認する。
血色の失せていた顔は、徐々にだが赤みを取り戻していた。
「なんかごめん……」
背を向けたまま、イヴは小さく呟く。
少女が頭を小さく動かすのと同時に、枕に皺を刻んでいく。
「気にするな。……むしろめでたいことじゃないのか ?」
「めでたい……」
「ああ」
そっと髪を梳くと、イヴがくすぐったそうに身をよじる。
頬を膨らませ、ようやくイヴは寝返りを打ち、アダムに向き合った。
「全然、めでたくなんかないわよ」
シーツに沈み込み、アダムの体を支えている彼の片腕に、苛立ちをぶつけてか、イヴは小さく頭突きをくらわせた。
妹の可愛らしい反抗に、男の頬は緩んでいく。
「まぁ、お前にとってはそうかもしれんな」
再びイヴの頬にかかった彼女の髪を払いながら、男は苦笑する。
「が、俺は嬉しい」
瞬間、アダムの視線が布団の中にある少女の腹部に移る。
目を閉じていたイヴは意味深な男の視線には気付かず、再度男の腕に軽く頭突きをお見舞いする。
その後もう一度アダムに背を向け、イヴはまた子猫のように丸くなった。
「……寒い」
しばしの沈黙の後、ぼそりと呟かれた少女の一言に、ぎょっと男の瞳が見開かれる。
「おい、大丈夫か」
「……たぶん」
アダムの眉間に皺が寄る。
小さく溜息を吐き、アダムは少女の背をそっとさすり始めた。
ほっとイヴの口から小さな息が漏れた。
「ましか?」
「……ありがとう」
再び血色の失せ始めたイヴに、アダムは更に眉間の皺を深める。
威圧感すら感じさせるそれに、イヴが小さく苦言を呈すると、黙っていろ、という一層不機嫌さを増した台詞が跳んできた。
「一週間、大人しくしてろ」
「……一週間……か」
再び寝返りを打つ。
背中を撫でていたアダムの腕が、再び少女の額を撫でる。
その時、睡魔に蝕まれていくイヴの脳裏に過ったのは、金の髪を持った男の姿だった。
彼は気付いていたのだろうかと、瞳を金に染めた男に問いかけるも、本人はここにはいない。
目に入ってくるのは、温和に微笑みながら髪を撫でている赤毛の兄だけだ。
少女が眠りに着いたのを確認し、男の視線はまたしてもイヴの腹部に移る。
手をイヴの頭から放し、慎重に彼女の腹に手を置き、撫でさする。
年々、イヴは可愛らしさに磨きがかかり、どんどん美しくなる。
またしても、一つ大人になる少女に、先に成熟を迎えた雄は、彼女の見ていない所で野獣の牙を向く。
今もまた、いつになれば完全な大人になるのだろうかと、今か今かと待ち構えている。
感嘆の息を吐く男もまた、彼女の兄である以前に、伴侶を探し求める一匹の雄だった。
* * *
一週間後、またしても以前と変わらぬ顔で自分の元を訪ねてきた少女に、レボルトはその本心とは正反対の苦言を呈していた。
「てっきり、もう来ないかと思って安心していたんですがね」
「はぁ?」
いつものように地に腰掛けているレボルトの前を、仁王立ちで見下ろしながら、イヴは呆れた溜息をもらす。
「なんでそういう発想になるのよ」
「一週間も来ないとなると、やっと諦めたかと安堵したくなるもんじゃないですか」
横にちゃっかり居座った少女から目を逸らす。
木の上から、待ってましたとばかりに一匹の白蛇がイヴの右腕めがけて落下してきた。
それを自然な動作で受け止めながら、イヴはぎろりとレボルトを睨む。
「……ほんと可愛げないわよね」
ねー、と同意を求め、イヴの右腕に緩やかに巻き付きながら、執拗に少女の頬を頭の先でつついていた蛇に笑いかける。
蛇もイヴに倣い、レボルトの事を薄目で睨みつけていた。
「体調不良で寝込んでた「イヴ様」に対して何か言う事はないのかしらぁ?」
つんつんと、白蛇がいつもイヴにするように、少女はレボルトの頬を軽くつつきながら、彼を煽る発言をする。
決してイヴに目を合わせようとしなかった男も、流石に気に障ったのか、イヴに対して鋭い視線を投げかける。
「悪かったですね、気が利かなくて」
ひくひくと頬を引き攣らせながら、威圧的に紫の目を細める。
男の反応に、自然とイヴの顔には柔らかな笑みが浮かんでいた。
何が言いたいんだお前は、とでも言いたげに更に眉をしかめたレボルトに、イヴは更に笑みを強める。
横からそれを見つめていた白蛇は興味深そうにレボルトの顔を凝視していた。
「そうね」
笑い交じりで告げ、再度イヴはレボルトの頬が軽くへこむ程度の力で、えい、と人差し指で押して見せた。
「それでこそレボルトだわ」
白い蛇とレボルトが同時に眼を見開く。
レボルトの動きが止まる。
対して白蛇は、全身からハートのオーラを発しながら、イヴの頬に顔を摺り寄せ始めた。
くすぐったそうに身をよじらせながら、でも、とイヴは言葉を続ける。
「私だって、こんなだけど、たまには貴方に優しくして欲しいかったりするんだけどね」
向けられた曇りのない笑顔に、レボルトは息を呑む。
口を軽く開き、喉まで出かかった言葉を微かに残ったくだらない意地だけで飲み込む。
どんなに焦がれたとして、戯れに好きだと言われても、この少女は絶対にレボルトの手が届く存在ではない。
彼女が本当に困った時、支えてやれるのは、傍にいて優しく抱きしめてやることが出来るのは、イヴの兄であるあの男だけだ。
近い将来、アダムの伴侶としてその存在を生み出されたこの少女は、本人の意思などまったく考慮されることなく彼の妻となる事を強いられる運命にある。
そこにレボルトが介入出来る余地など一切なく、どうあがいたところで、レボルトにはどうすることも出来ない。
すべて無駄なのだ。
こうやって、穏やかな時間を過ごすことも、戯れに軽口を言い合う事も、どれだけ時を重ねようとも、どうすることも出来ない。所詮は砂の城。時の流れの中で翻弄され、消えてしまう。
レボルトはイヴの物かもしれないが、イヴはレボルトの物ではない。
身勝手に引き寄せてやることも、無責任にイヴの望む言葉を吐き出すことも、到底レボルトには出来そうもなかった。
ああでも、そうだな。
もし……もし、手に入るのならば。
イヴの頬に伸ばしかけた腕を必死にレボルトは押し留めた。
「……嫌いだって言ってるじゃないですか」
レボルトの本心を見透かすかのように、白い蛇は金の瞳を一層輝かせる。
イヴから顔を背けたレボルトの肩に移り、彼の耳元で何事かを囁く。
デキルクセニ
どくんとレボルトの心臓が激しく脈を打つ。
テニイレラレル クセニ
恐怖におののきながら、白蛇の目を見る。
蛇はただ笑うだけだ。
仲間のどす黒い感情が心底心地よいと言わんばかりに、舌を出し、嗤う。
確かに出来なくはないかもしれない。
でもそれは、それだけは。
イヴの澄んだ青の瞳は、蛇の策略など知らず、黙り込んでしまった男に対する純粋な疑問符で満たされている。
この、純白の少女を、誰にも見せず、腕の中に囲い込み、真っ黒に染め上げる事が出来たのなら、それは、どんなに。
歪んだ感情を頭をふって振り払い、レボルトは改めてイヴに向き合った。
興味深そうに黄金交じりの紫の瞳をのぞき込んでくる少女に、思いっきりレボルトはデコピンを食らわせた。
「俺なんかの事は、早く諦めたほうが賢明です」
嘲笑めいたものを浮かべながらの言葉に、イヴがいったー!と自身の額を抑えながら反論する。
「だからってデコピンはないでしょ!!馬鹿!!」
「馬鹿で結構」
涙目になっているまだ小さな少女を目に納めながら、レボルトの頬は緩んでいく。
手には入らないけれど、レボルトがイヴのものという事実は変わらない。
この生意気なご主人様の傍に少しでも長くいられるのなら、もう、ペットだと蔑まれてもいいかも知れないとすら思える程、この少女と過ごす柔らかな時間は、孤独だった男には心地がいいものだった。
いつまでも大人にならなければいいのに、とレボルトは考える。
大人になってしまえば、イヴはレボルトから離れて行ってしまう。
自分と同類の匂いがするあの男の事だ。そう簡単に彼女に会えなくなるだろう事は、やすやすと想像出来た。
雄である以前に、レボルトはイヴの傍にただ侍り続けたかった。
彼女の、小さな主人の笑顔を、誰よりも近いこの距離で見守っていたかった。
そんな男達の思惑などいざ知らず。
子供だった少女は、また一つ、もう一つ、年を重ねていく。
幾重にも年月を重ね、イヴは16歳の少女へと成長を遂げる。
もう少し、もう少しだけ。
そんな甘ったれたレボルトの思いを無慈悲に神は踏みにじり、すっかり大人になったイヴは、あんなに小さかったのが嘘のように、気付けばレボルトの肩ほどの身長になっていた。
まな板だな、と思っていた胸も気付けば、レボルトが直視出来ない程度には豊満になっている。
もうすぐ、孤独な蛇が見た優しい夢は終わる。
それまで、それまで、あともう少しだけ。
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