12.逃避



カツカツと、無音の廊下に二人分の足音だけが鳴り響いていた。
静寂を、一人ではなく二人分の足音が掻き乱していく度、イヴは得も知れぬ安堵感を覚えた。

気を落ち着かせる為にと、横にいる大きな男の腕に抱き着いていると、暖かな眼差しが帰って来た。

間違いなく、今の自分は幸せだと断念できた。
現実なんかにいるよりも、よっぽど。

緋人がいるなら、どんな暗い未来でも、切り開いていける気がした。

彼は、トレードマークの赤い髪の毛と同じ、太陽のような温もりを持っている。

だから、彼となら平気だ。

「あのね、緋人」

「うん?」

「ここから出た後も、一緒に居てくれる?」

「……お前が、それでいいなら」

ぶっきらぼうなそれが、イヴにはたまらなく嬉しかった。
これは、世間一般でいうと、吊り橋効果というやつなのだろう。
緊迫した状況で男女が一緒にいると、恐怖のドキドキと、恋愛のドキドキを勘違いするという、有名なあれだ。

吊り橋効果と聞くと、それかきっかけで付き合ったカップルはわかれやすいという、なんとも嫌な話を聞くが、今回その法則は適用されないで欲しい。

(そもそも、私緋人のことは信頼してるけど、恋愛感情で好き……ではないと思うのよね……)

どちらかというと、お父さんという感じた。
保護者ポジション。

今後とも、それが揺らぐことは無いと思う。

(やっぱり、お父さんって言うと怒られるかしら)

さすがに失礼か。
でもそれさえも許してくれそうな気がして、イヴは緋人にバレないように、1人静かに微笑した。

そんな時だった。

「見つけたよ」

後方から、聞き慣れたムカつく声を聞いたのは。

後ろを振り向くと、案の定へらへらしたレボルトがいた。

緋人の腕から手を離し、ズカズカと後方にいるレボルトのもとに大股で近寄った。

「どう?記憶は戻った?」

「おかげさまでね」

ファーストキスの恨み等もろもろの嫌味を込めてそう言い捨ててやると、レボルトは、はははと空寒い笑いを浮かべた。

「そう。それは良かった。……ところで、君の真名は?」

レボルトの問いにぎくりとした。

「……それは…………残念ながらまだよ。
でも、現実にいたときの出来事はほとんど思い出したからいいじゃない。……戻る動機は出来たわよ」

イヴの放った言葉に、レボルトは少しだけ残念そうな顔をした。
だか、それは一瞬のことであり、すぐに飄々としたを笑顔に戻っていた。

「それじゃあ、番人として君の答えを聞こう。君は何を望み現世へ帰る?」

帰る動機ははっきりした。

「私は、現実と向き合う。嫌な今を乗り越えて、未来を切り開いていくわ。……そこの、緋人と一緒に」

自身を持って、そう言い切った。
これなら十分、帰る動機として成立するだろう。
だか、イヴが言い放った瞬間、レボルトの纏う空気が変わった。
冷たい、ユウに向けていた時のような視線で射抜かれて、イヴは血の気が引いていくのを感じた。

「…………そう。それが、君の答えか」

息を呑んだ。冷や汗が止まらなかった。
蛇に睨まれた蛙というのはこういうものだろうか。
例えるなら、そんな感じだった。

「状況が変わった。……残念だよ」

そう吐き捨てて、レボルトは不気味なほど綺麗な笑顔を、その端正な顔に浮かべた。

「俺はもう二度と、君をここから出す気はない」

レボルトの腕には、確かに、鉄製の鈍く光る鎖が握られていた。

そして、あくまで笑顔のまま、イヴへ向けて一歩足を踏み出した。

「走れ!!」

緋人に言われるまでもなかった。

気付いたら、反射的にレボルトと反対側に走り出していた。

直感的に、後ろを振り向いては行けない気がした。

どうして、なんで。

逃げている最中、ずっとその言葉で頭がいっぱいだった。
レボルトは、味方ではなかったのか。
それなのに、どうして、彼は

「イヴ、どうして逃げるの?」

悪魔のような顔で、イヴを追いかけているのだろうか。
レボルトは、イヴと違って走ってはいない。
歩いている。
徒歩なのだ。

優雅ささえ感じられる。

なのに、走っているイヴとの距離は着実に迫ってきていた。

このままでは、このままじゃ確実に

(捕まる!!)

捕まったら絶対にただでは済まない。

少なくとも、監禁されあの変な男と長い時間を共に過ごすことは確実だろう。

ユウといい、レボルトといい、ここにはまともな人間が誰もいない。

まともなのは、同じ外部の人間である緋人だけだ。

(なんで私がこんな目にっ!)

これは罰なのか。
現実と向き合わなかった、哀れな妄想少女への断罪なのか。

やがて、果てしないと思われていた通路にも、行き止まりが訪れた。

イヴは突き当りの壁に背を預けながら、絶望に涙を流した。

「……最後に聞くよ。君の願いはなに?」

レボルトは、あくまで事務作業のような口調を装っていた。
だが、その中には確かな苛立ちが混じっていた。

この期に及んで、まだそんなことを聞くのか。
もう何もわからない。
誰が見方で、誰が敵なのか、もう、何もわからない。
なにも、考えたくない。

「一体何を見たら、そんな馬鹿な事が言えるのかな」

なにも言えずにいると、レボルトはぽつりとそんなことを零した。

「え……?」

「今の君にはなにをいっても無駄か……。いいよ、じっくり、ねっとり、嫌になるほど……体に直接刻み込んであげる」

この歩く卑猥物!

元気があったらそんな事も言えたかもしれない。

だか、この状況では何も言えない。

イヴは何とかならないかと、咄嗟に腕を壁に這わせた。

すると、なにか硬い金属製の突起物に当たった。

(なに……?)

よく触って確認してみると、それはドアノブのようだった。
おそらくは、周りにある独房の扉と同じものだろう。

正気なら、絶対にここを開けようとは思わなかっただろう。
だが、状況が状況だ。

レボルトがイヴの体に触れるまであと五歩。四歩、三歩。

(やるしか……ない……!)

思えば、自分からこの迷宮に足を突っ込もうと思ったのは初めてだ。

何が起こるかわからないし、もしかしたら永遠に闇の中を彷徨うことになるかもしれない。

それでも、

(死ぬまでこんな変な場所で変態に監禁されて、犯されるぐらいならっ!)

イヴはドアノブをまわしし、思いっ切り体重を掛けて、扉を押した。

その瞬間、扉が開き、イヴは扉の先の闇の中へと堕ちていった。

一瞬、レボルトの満足げな顔が見えた気がした。


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