10.寸暇



気が付いたら、ユウの腕から血が流れていた。

よく見ると、そこには白いロープのようなものが絡みついており、なんなんだろうと、イヴは目を凝らしてそれをよく観察してみた。
細長い物体の正体は、見事な鱗を持つ神々しい白い蛇だった。

ユウを威嚇するように睨みつけ噛み付いていたそれは、彼に鬱陶しそうに振り払われると、呆気なく地面に落下し、跡形もなく姿を消した。

「……性懲りもなく」

ユウはそう呟くと、イヴを呆気なく開放し、一人で唐突に立ち上がった。

そして

「ごめんね、イヴ。すぐに戻るから、大人しくしててね」

そう言い残すと、風の如く部屋の外へ出ていってしまった。

(な……なんだったのかしら。あれ……)

この部屋には隙間などなかったはずだ。
それが、どこから蛇が入ってきたのか。

蛇と聞いて、イヴの頭に一瞬爬虫類のような目をしていた一人の男が過ぎった。

レボルト。

飄々とした掴みどころのない鬱陶しい男。
そして、イヴの唇を奪った男でもある。

(まさか……今のレボルトが……?)

イヴは首を横に振って溜め息を吐いた。
本当にまさかだ。
もしあれがレボルトの差し金だとしたなら、もう少し前に助けて欲しい。
せめて、部屋に連れ込まれる前にして欲しかった。

そんな文句を彼に言うのは筋違いだとは分かっている。
それでも、少し悪態を吐きたかった。

(怖かったのは怖かったけど……収穫がゼロだった訳じゃない。思い出したくもないものだったから、気分は最悪なのに代わりはないけど……)

ユウに、直に触れられたからだろうか。
イヴにはかなりここに来る前の記憶が戻ってきていた。

ここに来る前、イヴは普通に高校生をしていた。
一人で教室の端で本を読むのが定位置だった地味な少女は、一、二年生の頃はみんなからスルーされていた。
その頃はまだ良かった。
しかし、三年生になり受験へのストレスが溜まり出した頃、少女へのいじめが始まった。

少女の両親は不在がちなことが多かった為、殴る蹴るの暴行をされ、罵倒され、傷付けられても、誰も助けてはくれなかった。

どうして、なにもしていないのにこんなことをされなければならないのか。

そうして願った。

ここから逃げ出したいと。

なんでもいいから逃げられればいい。

そう何度も何度も狂う程に願った。

そしたら、いつのまにか記憶を失いあの廊下にいた。

まだ、本名は思い出せずにいたが、これでこの世界にやってきた理由が思い出せた。
とりあえずは十分だ。

ここまで思い出して帰りたいかと言われると、正直帰りたくない。
ここにいたほうがまだましだ。

(……駄目だ)

そんなに弱気になってどうするのか。

帰らなければ、ここにいてはいけない。
ここにいると危険だ。

(……なんで、ここにいちゃいけないんだろう)

ふと、そんなことを思った。

欲望に忠実に生きる事の何がそんなにいけないのか。
ここにいれば、少なくとも現実よりは好待遇なのではないだろうか。

ユウはどうやらイヴ嬢とイヴを間違えているようだし、大人しくしていれば怖い思いをしなくてむ。
緋人もきっと優しくしてくれる。

レボルトに関してはよく分からない。
あの人は怒るかもしれない。

(私は……どうすればいいんだろう……)

そう思い、近くにあった人形の一つを適当に抱きしめ気を紛らわせようとした。

イヴの頭の中に浮かんでいた疑問は、もうひとつあった。

それは、どうして緋人と自分が親しげに笑んでいたのかという事だ。

(もしかして……緋人と私は知り合いだった……?)

もしも、本当に知り合いだったのなら、名前を問わなかった理由や、無意味に優しくしてくれた理由にもなる気がする。

(緋人に……聞かなくちゃ……)

何とかなる気がした。
彼なら、きっと救ってくれる。
そう信じることしか、今のイヴにはできなかった。

とりあえず、割れた食器を踏まないように移動して、入ってきたであろう壁の周辺を軽く叩いてみた。

案の定、壁はただの壁であり、ユウと一緒の時のように自由に出入りすることはできないようだ。

見たところ、部屋に窓はない。

あるのはただ悪趣味なほど少女趣味な物体達だけ。

(閉じ込められた……)

あんなに簡単について行くんじゃなかったと、後悔し壁に寄りかかる。
そして、これからのことを思案していたその時だった。

「……おい!」

声が、聞こえた。
低音のドスの聞いた、けれどもどこか気遣いの心が感じられるぶっきらぼうなそれに、イヴには聞き覚えがあった。

「緋……人……?」

「そこにいるのか!?」

もう間違えようはなかった。

間違いなく、聞こえてくる声は緋人のものだった。

壁の向こう側から聞こえて来るその声は、ひどく焦っているように聞こえた。
声を荒げることのなかった彼にしては珍しい事だ。

もしかしたら、自分を心配していてくれたのかもしれない。
それで、ちょっとでも焦りを感じていることに、イヴは少しの優越感を覚えた。

「ええ私よ!……でも、出られないみたいで……っ!」

「……お前は、そこにいるんだな?」

「……ええ」

イヴがそう答えた瞬間、壁から突如として2本の腕が出現した。

「ひ…………ぃ……っ……!!」

まさか、逃げようとしたのをユウに気付かれたのか。

そう思い、反射的に叫び声を上げて後ずさってしまった。

だが、そんなイヴを落ち着かせるように、緋人の物静かな声が聞こえてきた。

「……俺だ」

「え……?…………本当に?」

色んな事があって、ついつい疑心暗鬼になってしまう。

「…………あぁ」

再度確認に、声は静かに頷いた。
どうやら、腕の持ち主は本当に緋人らしい。

(でも……どうして緋人の腕が?)

緋人はイヴの憶測通りなら、ただの人間の筈だ。それが、どうして神の領域に手を入れられるのだろうか。

「……掴め」

そんなイヴの疑問をかき消すように、緋人はそう淡々と告げてイヴの行動を促した。

「わ……分かった!」

とりあえず、ここから出れるなら何でもいい。
ユウの側にいるのだけは真っ平ゴメンだ。

イヴは少しだけ助走を付けると、緋人の手を力強く掴んだ。

これが、最後の希望なのだと、そう信じて。


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