ユガココ

逆転裁判5ネタバレ
五話直後





 のれんをくぐった途端、充満する塩と味噌の匂いに、心音は安心すら感じていた。初めて訪れた時にはこの匂いにも困惑したものだったが、此処は心音が加わるずっと以前からの成歩堂事務所の行きつけであり、その一員となった心音にもすぐに馴染みの店となった。
 何だ、またお祝いか? と屋台の主人は深い皺の刻まれた瞼の間にある双眸を細めると、すぐに手ずから自慢の一品をふるまうべく支度を始めた。ええ、今日はとびきりのお願いしますよ。一行のうち年長であり最も息の長い常連で、事務所の所長でもある成歩堂が彼に答えて朗らかに笑った。
 裁判を終えた一行は、事務所に所属する全員と、手伝いをしてくれた春美、それからつい先ほど無罪を言い渡された夕神の五人だった。異例の法廷に快く立ってくれた検事局長は他にも仕事があると席を辞したが、また連れを伴ってご馳走になるとしようとヒビの入った眉間のまま告げた声は、明らかに楽しげであった。もっとも、ツレ、という言葉に心音もまだ知らない優しい喜びを彼が滲ませていたことは、少し意外だった。きっと彼もまた、そんな風に優しくなれる誰かを思い出していたのだろう。


 しょっぺえなァ。隣から漏れ聞こえた声に、心音も無言のまま異議なしと頷き、件のスープをレンゲで掬った。やたぶき屋のラーメンはいつものことながら、塩気が少し効きすぎているのだ。
 ぼそりと囁かれた文句と逆側の隣では、成歩堂親子にからかわれたらしい心音の先輩、王泥喜弁護士が平常通りの大音声を響かせている。それから、にこにことお行儀よくラーメンを丁寧に咀嚼している春美の姿も見えた。
 ここに来てから、普通だったこと。それから、七年もの月日をかけてようやく普通になること。その両方に挟まれて、心音は面映ゆい喜びに包まれていた。多少ラーメンがしょっぱかろうと、問題ない。自然と心音の唇には笑みが広がっていた。
 ふう、と息を吹きかけてから麺をすすろうとしたとき、彼女は自分に向けられている視線に気がついた。黒髪と白髪の混ざった前髪の下から、まっすぐに向けられている瞳の奥の感情が心音には読み取れない。生まれつき特殊な聴覚を持ち、海外で心理学を学んだ彼女にも、声を出して貰わなければそれが何を意味するのかはっきりとはわからないのだ。
「あの。何か、ついてます?」
 眉をひそめて尋ねようとも、彼は無言で首を振るのみだった。きっと、声に出せば悟られると気がついているのだろう。母に学んでいた夕神は、心理学について心音より先輩でもある。法廷の外においても手玉に取られるような感覚に、心音は唇を尖らせた。
「ちょっとぉ、喋ってくださいよ」
 夕神は肩をすくめる。どうやら笑っているらしい。心理学など無くとも感情が伝わるほどに、むっと唇を山なりに心音は曲げた。
『イジワルー!』
 店に響き渡る大音声。飛び出したのは紛れもなく彼女の本心たる不満であったが、ぴったりと閉じた心音の唇からではない。無論大音声であっても、彼女の先輩のものでもない。それは彼女の胸で真っ赤に光っている心音の相棒の犯行だった。相対していた夕神も珍しく目をまるくしている。
 ぱちぱちと揃って瞬きを繰り返している王泥喜とみぬきの奥からは、年長の成歩堂が顎をさすりながら楽しげにこちらを見ていた。おやおや、と漏れ出した彼の声色は間違いなく喜色に満ちている。また、まあ、と小さく嘆息して頬を押さえる少女は、おそらくさらに厄介な想像を膨らませていることだろう。
 一気に顔が熱くなるのを感じながら、あわてて「なんでもないです!」と叩きつけた言葉もおよそ意味を為さないであろうことは、心音にもはっきりと知れていた。塩辛いスープに漬かった麺を一気にすすると、余計にしょっぱい気がした。



 一旦事務所に戻るという仕事仲間たちに、疲れただろうから先に帰るようにと心音だけが帰宅を言い渡された。留置所暮らしに、被告人、弁護人、七年間の思いへの決着――めまぐるしい数日に疲労が無いといえば確かに嘘になる。しかし、それ以上に気を遣われたのは他の部分にあるのだろうと心音は察していた。今現在、隣を歩いている男を見れば、思い当たる節は幾らでも挙げられたのである。――七年だ。思えば、別れたのも再会したのも法廷だった。
 二人きりになってから、しばし無言が続いていた。ゆっくりと踏みしめるように歩く夕神の隣を、心音もまたゆっくりと歩いていた。ふとその夕神が立ち止まり、ココネと呼ばれる。少し気恥ずかしげに、法廷では聞かなかった柔らかな声色で。
「あー……悪かったなァ、さっきは」
 とりあえずは先刻の一件だろう。モニ太の声と、対する周りの反応を思い出すと再び顔に熱が集中しそうな気がしたが、それ以上に今は、彼の様子に心音の興味は惹かれた。首筋を撫でながら言う彼は、七年間着けていた手枷が無くなって少し手持ち無沙汰なのかもしれない。やがて、自然な動作で夕神の瞳がすいと空に向く。とうに日の落ちた暗い空には、闇を裂くように三日月が輝いていた。
「どうやら、浮かれてやがんのさァ」
 俺らしくも無え。ひとりごちて夕神はくつくつと喉を鳴らした。その言葉のいずれもが、彼の本心を覆い隠すことなく心音に伝えていた。
 煌々とした月明かりに照らされ、憑き物の落ちたような彼の横顔を、ようやく自由になったのだと心音は受け止めた。彼も、自分も。今日の法廷の直後、七年越しの無罪判決を受けた彼に話しかけられて溢れた涙が、再びいまにも決壊しそうだった。
「おい。ココネ?」 
 心配そうな声と、心音に合わせて少しかがんだ彼の顔が、今は目の前にある。確かに手の届く場所に。心音は両手で顔を覆って涙を流し、そして笑った。
 見た目も性格も少し変わったのに、変わらない夕神さんだ。きっと彼は少し迷って、自分の頭にそっと手のひらを乗せる。その温かい体温を切ないほどに心音は知っていた。
 今ようやくしっかりと受け止めた現在と平穏が、心音の胸に心地よく染み渡っている。おかえりなさい、と絞り出した涙混じりの声を、彼が「しょっぺえなァ」と受け止めた。その声色は、ラーメンのときから変わらず穏やかで優しいものだった。




31st.Jul.2013

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