ピンポーン、と部屋のチャイムが鳴る音で目が覚めた。 重たい瞼を上げて目だけを動かすと、カーテンが閉められたままの室内が随分明るくなっている。外は随分と日が高くなっているようだった。 少し間を置いて、もう一度チャイムが鳴る。 起き上がる気力も体力も無く、ぼんやりと天井を見ていると、やがてドアの開く音がして青年が顔を出した。
「なんだ、起きてたのか」 「……起こされた」 「そりゃすまん。…大丈夫か? 昨日より顔色悪いけど」
そう言って顔を覗き込んでくる迅徠に、熾苑は億劫そうに首を横に振る。
「ぐるぐる、する……きもちわるい」 「あー待て待て。寝間着で汗を拭うな。今タオルか何か持ってくっから」
断りを入れてから洗面所へ向かう。熾苑の部屋は全体的に生活感が薄いのだが、ここも例外ではなかった。ホテルの部屋を思い浮かべるのが一番適当だろうか。寝泊まりに不自由しない程度の物はあるが、「じゃあここで普通に暮らせ」と言われると物足りない。そんな感じだ。
「ああ…私物がほとんどないんだな……」
畳まれていたタオルを水で濡らしている最中にそう思い当たった。入居したその日の部屋の様子と大差がないのだ。
(服はクローゼットに入れりゃ済むし。そういや引っ越しのとき馬鹿みたいに荷物少なかったな)
なるほどそのせいか、と奇妙に納得して戻ると、横向きになって寝ていた熾苑を仰向けにさせる。
「…ん……」 「動くなよ。……だから普通に帰りゃ良かったんだ。妖怪どころか、力が強い先祖返りにも当てられるくらい弱っちいクセに。俺も結構辛いんだろ?」 「……ほっといて。自分が、一番良くわかってる」
疲弊しきった声で熾苑は唸った。 妖館に来た時点で予想はしていたことだ。妖怪に狙われることも、主人を守るSSが先祖返りの中でも強い力を持っているであろうことも。先祖返り相手にこの状態では、SSを雇っている意味がない。 わかっているのだ、そんなことは。熾苑には、本来妖館もSSも必要ではない。 彼女にとって御狐神家が最も安全な場所なのだから。 双熾が捨てた、あの家こそが。 わかっている。嫌というほど。
「だったら…、」 「出たくて出てきたんじゃないもの」
迅徠の声を封じ込むように熾苑は言った。凪いだ声の裏側を映すように、その双眸を暗い翳が覆う。
「待て、違う。そうじゃねえよ」 「何が。違わない」
不穏な気配を感じたのか、慌てたように口を開いた迅徠に寝返りを打って背を向ける。そこに拒絶の色を見出した迅徠はしばらく物言いたげな顔で熾苑を見つめていたが、やがて諦めたように息を吐いて部屋を出て行った。
玄関のドアが閉まる音を聞きながら熾苑の脳裏にはある青年の声が甦っていた。
───君ってホント、そーたんにそっくりだよね〜
放課後の昇降口で、百目の先祖返りの青年に言われた言葉。
「……似て、ない」
ぽつりと熾苑は呟いた。 『そっくりだ』なんて、そんなはずがない。あの人と自分は何もかもが違う。似ているところなんて、それこそ顔かたちくらいのものだろう。 だって自分は戻りたがっている。彼が嫌ったあの家に。 彼が捨てた、御狐神の家に。
「……うそつき……」
思わず口から零れた声は、静まり返った室内に溶けるように消えた。
* * *
熾苑の部屋を出た迅徠は閉じられたドアにもたれかかって宙を見ていた。
「失言だった……」
独りごちたものの、一体自分のどの言葉が熾苑を刺してしまったのかがとんとわからない。 迅徠がSSの仕事をしたのはこれが初めてではないが、少なくとも熾苑より対応が難しい雇い主は過去一人もいなかった。そして何より、彼女があそこまで徹底的に閉ざしたところを迅徠は今日初めて目の当たりにした。
「……わからん。わっかんねーぞコラ」
何と言うか、モヤモヤする。こんなことなら熾苑相手にも仕事対応の方が楽だったかもしれない。主人に気を回すのはSSとして出過ぎた真似である気はしなくもないが、それが迅徠の性質なのだ。 がしがしと頭を掻いて部屋に戻ろうとした時、ちょうどエレベーターの扉が開いた。中から青城の制服をきた少女が二人出てくる。
「(白鬼院の嬢ちゃんと、髏々宮…?)」 「あ…結鼬…」 「結鼬くん、その……御狐神…さんの具合は……」
無言で首を傾げていると、凜々蝶が視線を彷徨わせながら尋ねてきた。 そういえば欠席の連絡を入れてたんだっけ、と携帯の発信履歴を思い出しながらさてどう答えたものかと思考を巡らせる。率直にいえば「芳しくない」だが、あまり心配をかけるのも如何なものか。
「これ…お見舞い…」 「た、たまたま調理実習の材料が余ったんだ。捨てるのも勿体ないからついでに作っただけで……」
可愛らしくラッピングされたカップケーキを差し出されて、迅徠は思わず苦笑した。
「あいつの代わりに礼を言っとくよ。ありがとう。まだ具合悪いみてえだから、後で渡しとく……、あ」
だいぶ低い位置にある凜々蝶の頭をぽんぽんと撫でた直後に迅徠ははっとした。しまった、と口を押さえた時には既に遅く、凜々蝶は目を丸くして迅徠を見上げている。
「ちゃんと喋れるのか、君」 「……非友好的な無口野郎だと思った?」 「いや、少し意外で…」 「悪りぃ。すっかりオフで対応しちまった。口の悪さだけはどうにも直らなくてね。そういうの五月蝿い雇い主もいたりすっから、仕事中は喋らねえのクセになってて」 「はっ、無表情もクセか?」 「そう」
御狐神みてーな話し方って舌噛むのよー、とぼやく迅徠に凜々蝶は笑った。少し驚いたが、こちらの方が彼らしい気もする。
「他の連中には黙っといてくれると嬉しいんだけど」 「ふん、どうしてもと言うなら頼まれてもいいが。でも夏目くん辺りにはバレてるんじゃないのか?」 「さてね。夏目は知ってて黙ってそうだけど。髏々宮も頼むわ、今度焼き肉奢ってやるから」 「焼き肉…! わかった…」
カルタが嬉しそうに頷いたのを確認して、迅徠は手を振る。
「ほら、もう帰んな。明日も顔は出せねーだろうけど、そんなに心配しなくても大丈夫だ」 「ふん、別に心配などしていない」 「早くよくなってね…」 「伝えとくよ。どうもな」
エレベーターに戻っていく二人を見送ってから、迅徠は自分がもたれかかっていた5号室のドアを一瞥した。 ……いつか『何か』が変わる日は来るのだろうか。
「……まあ、三年だ。時間はたっぷりあるだろ」
凜々蝶たちから受け取ったカップケーキの包みを掌中で転がして、迅徠はひっそりと呟いた。
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