青城学園付属図書館は大きい。蔵書も豊富で様々な分野の書籍が数多ある。そして『図書館』という場所の特性上、いつも寂しささえ感じるほどの静寂に包まれていた。 ある日の放課後、熾苑はそんな図書館でひとり読書に耽っていた。学校を終えてから図書館で過ごすこの時間が熾苑の密かな楽しみだ。
ゆっくりと時間が流れて行く。 本棚から取り出した数冊をすっかり読み終えて顔を上げると、窓の向こうでは夕日が思いの外傾いていた。雷鳴が聞こえ、遠くにどんよりとした黒雲も見える。
「……帰らなきゃ……」
読書に没頭していつもより長居をしてしまったようだ。時計を見て、もうSSの迅徠が迎えに来ているだろうかと頭の片隅で考える。 春になって随分と日も長くなって来たはずだが、雷雲のせいか周囲が暗くなるまでにそう時間は掛からなかった。 慌ただしく本を戻して帰り支度をし、小走りで外へと向かう。熾苑がいたのは二階で、階段へと通路を急いでいる途中でふっと空気が変わった。
「捕まった…」
肌が泡立つような気持ちの悪い感覚に、鞄を抱きしめて腕をさする。周囲の湿度が増した気がするのは気のせいではないだろう。 息を殺して神経を研ぎ澄ます。 ヒュッと風を切る音に飛び退くと、それまで立っていた場所に太い尾が叩き付けられた。 擦り足で慎重に後退しながら天井を見上げる。人間の上半身の蛇のような体の妖怪がそこに張り付いていた。長い黒髪の先から雫が滴り落ちる。それを見て熾苑は目を細めた。
「濡れ女、ね」
その言葉を合図にしたかのように濡れ女の尾が大きく振られる。同時に熾苑も身を翻して走り出した。 いくら『双熾に似ている』と言われようが、彼に出来て熾苑に出来ないことはある。凜々蝶のSSを務める双熾と違って、熾苑は戦うための力を持っていないのだ。ただの人間相手ならともかく、妖怪相手に身を守るためには他人に頼るしかない。
「…っは、なんで、今……っ!」
間が悪いにもほどがある。SSを雇っても、迅徠がいない間に襲われたのでは意味が無い。 横殴りに振られた尾が窓を叩き割る。左目の際にチクリとした痛みが走ったが、そんなことを気にしている場合ではない。 ようやく階段に差し掛かり、体の向きを変えるためにブレーキをかけようと床に着いた足が不自然に滑った。
「あ……」
途端にバランスを崩した熾苑の背中めがけて、ひときわ勢いよく振り下ろされた尾が直撃した。
「…ッ!!!」
息を詰まらせた細い体が吹き飛ばされて宙を舞う。 迫る踊り場の壁に目を瞑ったその時。
「あっ……ぶねーな!」
ぶわりと広がった空気の壁が熾苑を包んだ。直後に滑り込んだ黒い影が熾苑を抱きとめる。 恐る恐る目を開けると、安堵の息をつく迅徠が熾苑を見下ろしていた。
「よう、無事か…って、んなワケないか」 「…迅……っ、」 「悪い。遅くなった」
咳き込む熾苑の左目の際にガラスで切ったような傷があるのを見つけて、背をさすっていた手が止まる。一瞬の間の後に少女の体を抱え直すと、迅徠は天井の濡れ女を睥睨(へいげい)した。
「どーも。ウチの主人が世話になったようで」
飄々とした声音とは正反対の鋭い突風が青年を中心に巻き起こり、藍色の瞳が剣呑な光を宿して煌めいた。 風に髪をなぶられながら、熾苑は迅徠のスーツを掴んで身を硬くする。
「───闇に還れ」
低い呟きが熾苑の耳に滑り込んで来たのと同時に、濡れ女の腰から下が両断された。 錆び付いた扉を無理矢理開けたような、耳障りな絶叫を放つ濡れ女を真空の刃が容赦なく切り刻む。 やがて天井から床に落ちた濡れ女が動かなくなるのを踊り場の鏡越しに見ていた熾苑は、迅徠の操る風が収まるとゆっくりと息を吐いた。
「……物騒」 「……そういう言い方はねえだろ…。焦ってたんだよこっちだって」
いつもの時間に迎えに来たものの校門前に熾苑の姿は無く、しばらく待っても一向に出てくる気配がない。見かけた凜々蝶たちに尋ねれば「先に帰ったはず」と言われ、正直肝が冷えた。
「すぐ帰らない時は連絡入れろって言ってんだろうが…」 「……。ごめん、なさい」
ぼそぼそと謝る熾苑に溜息をついて、迅徠は一階へと足を向ける。 抱かれたままの状態に文句を言うでも無く、黙って身を預けている主人の様子に、密かに唇を噛む。 熾苑は"弱い"。 他の先祖返りたちの中でも、特に。
「飛んで°Aれりゃ早いんだがな……」
もどかしそうに独り言ちた迅徠に、熾苑が微かに頷いた。
「………いいよ、それで」 「はぁ? 馬鹿言うなよ。お前、そんなんで…」 「いい。大丈夫」 「……、わかった」
折れる様子を見せない熾苑にまた溜息をつく。「言わなきゃ良かった」と口の中で呟いて、図書館のロビーを抜けて外へ出る。 今にも降り出しそうな空を見上げて、つむじ風に包まれた青年と少女の姿が掻き消えた。
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