パンデミック パニック!!

おれはショパンのピアノソナタ第3番を店先の古びたCDプレイヤーにセットした。インフルエンザに罹患し重症のショパンが書き上げた大作。おれもインフルエンザにかかれば熱に魘されながらこんな素晴らしい作品を書き上げられるのだろうか。息苦しいマスクをずりあげ、店の前の景色をぼんやり見ながらそう思った。
彩度の低いこの冬の町ではいま、インフルエンザウイルスが猛威を奮っている。我が家の最終兵器おふくろも先日ウイルスに倒れた。おかげで交代がいないのでおれは店先にここ数日張り付きっぱなし。
そろそろ喫茶店のコーヒーだとか、ウエストゲートパークの裸のソメイヨシノだとかの景色が恋しくなっていた。
まあ幸い、おふくろも快方に向かいつつあるのですぐにあの日常を取り戻せるのだろうが。失って気がついた尊い日常に思いを馳せる。その時だった。家の前にタクシーが停まった。うちは高級ブティックなんかじゃない。タクシーが泊まるのは大抵、事件の前触れだ。
ぼちぼち刺激に飢えていたおれは頼れるトラブルシューターの顔を作って客を出迎える準備をする。しかし、だ。支払いを終えタクシーから降りてきた女は事件など到底抱えていなそうな姿をしていた。
力を抜いてため息をついた。そこに居たのはねぎが刺さるレジ袋を片手に提げた幼馴染だ。
先日見た時はいかにもバリキャリですといった風だったのに、なんだかいつのまにか所帯染みていたので笑ってしまう。プラダのファー付きダウンコートにねぎは似合わない。
おれと同じくマスクをしているアサヒが久しぶり、と店内に入ってきてぴかぴかのサンふじが小山になったかごを手に取る。それからおれの顔を見てなに笑ってるのよと呟く。

「いらっしゃい、どうした。いつから主婦になったんだ」
「うちの王さま坊やがインフルエンザになってからよ」

そんな彼女からリンゴを受け取り、袋に入れる間にそう会話をした。びっくりして手を止め、彼女を見る。やや疲れた顔でがショルダーバッグから財布を取り出している。アサヒは言葉を続けた。

「しかもA型。タカシって喧嘩は強いし基本的に強運だとは思うけど、代わりにとんでもない貧乏くじ引いてくるときがある気がする」

もともと喘息持ちの病弱な少年だったのだ。おれは今ごろ真っ赤な顔でへばっているだろうタカシを哀れんで充分に熟れたいちごパックを手に取るとおれからの見舞いだと言って袋にいれた。彼女はにっこり笑って礼を言う。

「今年すごい流行ってるよね、悪いやつも軒並みインフルエンザで事件なんて起こらないよ。ところで、お母さんは大丈夫?」
「うちはB型だったしそんなじゃないよ、ぼちぼち回復してきたところ」
「でもマコトもお店離れられないし大変でしょ。いま実家でおかゆとなんかおかず作ってきてあげるから待ってて」
「いやいいよ、そんな。昨日もお前んとこのおふくろさんに同じこと言われて夕飯分けてもらったところで申し訳ないし」
「そんなの、何かあったときはお互い様でしょうよ。気にしないで」

そして彼女は昨日の相原のおふくろさんと全くおなじ言葉を残してそそくさと一度隣の実家へと帰っていった。申し訳ないな。頭を掻きながらその姿を見送る。すると入れ違いにおれのスマートフォンが震え出した。誰だろうか、おれは画面を見て驚いた。安藤 崇。インフルエンザでへばっているはずの男がなぜ。
慌てて電話に出て耳に当てると聞こえてきた声は、いつもとはちがう枯れてざらざらになり随分と疲弊した声だった。

「・・・アサヒ、やっぱりはやく帰ってきてくれないかな。その、やっぱり心細くて・・・」
「・・・タカシ?」

双方の時が止まる。もしかしてあいつ、アサヒの携帯と間違えたのか。すこしの静寂の後にぶつんと通話が切れた。そして5秒後、またタカシからの着信。

「おれが悪かった。今度なんでも好きなものおごってやる、いまのは忘れてくれ」

それからごほごほと咳き込む声。おれは完璧な王の弱みが見れたことが嬉しくて嬉しくて仕方がない。今にも死にそうなタカシの声とは真逆の喜びが滲み出た元気な声でつい返事をしてしまった。

「かわいいとこあるのな、お大事にどうぞ。お前のアサヒちゃん、早めに返してやるから」
「・・・やっぱりお前を殺しておれも死ぬことにした。そこで首洗って待ってろ」
「冗談だって、忘れてやるから。大人しく寝てろ」

急に冷え込んだ声に真剣さを感じておれは身震いをする。おお、こわ。やつならやりかねん。あいつと心中なんてまっぴらごめんだった。
早く治せよ、なんてからかいたい気持ちを抑えて努めて冷静に言うとやつは不服そうに返事をして電話を切った。タカシも夜寝る前に恥ずかしい失敗を思い出して布団の中で暴れることがあるのだろうか。冷徹な王の人間味があるところを見るのが好きなおれは枕にあの稲妻みたいなパンチを食らわせるタカシを想像したりしてひとり笑っていた。するとしばらく後にタッパーと小鍋を持ったアサヒがひょっこりと戻ってきた。

「どうしていつもひとりで笑ってるのよ、きもちわるいな。マコトも熱あるんじゃないの」

うるさいな、しかし上機嫌なおれは彼女に嫌味ひとつ零さず礼を言って料理を受け取ると、事前に呼んでおいたタクシーにアサヒをさっさと押しこんで家に返してやるのだった。


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