21

 前日に中途半端な時間に起きてしまったためどうにも寝入れず、枕元のライトスタンドをつけて読書に耽った後遺症で重たい頭を抱えながら、俺は宛がわれた部屋を出てリビングに向かった。覚醒と休息の間にある、このざらりとした感覚は未だに慣れない。誰かに脳を舐められたような生理的な不快感が最たる理由だ。

「――ロータス、起きてるか」

「実は寝ているんだ、ルパート」

 手をひらりと翳されて、冗談を無表情で言いきると彼は凄くつまらなそうな顔をして「かわいそうに」と呟いた。俺はそれが彼なりの冗談だと知っていたので肩を竦めて反応を返してやった。それから脳に神経がないので誰かに舐められたとしても痛みさえ感じない事実をどう屁理屈に理屈にしてやろうかと馬鹿らしい思想に陥った。

「ロータス、今日ワンド・ワンダにお前の杖を買いに行こうかと思ってるんだが」

「何故?」

 ユグドラシルに白鯨の髭、27センチ。そう言った老人の声を思い出しながら俺は首を傾げた。

「どんな杖でも確かに魔法に慣れれば振れるさ。だが何故杖に種類があると思う? 最も自分に合った杖が最も自分の力を引き出してくれるからだ」

 これぞ屁理屈だろうと理屈は理屈、という言葉の体現だと思いながら俺は微妙な顔をして頷いた。彼はそんな俺を見て片方の口端と頬だけを上げる表情を見せて少し憐れっぽく言った。

「おそらくアレがお前の杖を用意してくれているだろうしな」

「……あんな顔して好々爺か」

 そこらのゴーストより恐ろしい顔をした爺が孫を可愛がるようなシーンを思い浮かべて頭を抱えそうになりながらも、一度しか会っていないのに何故そうも猫可愛がりするのかと首を傾げた。子供だけであったら、訪問した時にも幼い兄妹がいたはずだ。
 そしてふと思い当たる。恐らくルパート自身が孫のように可愛がられてきた延長なのだろう。だからこそ彼は憐れっぽく俺に語りかけた、そう考えるのが至って安直だった。

「で、どうだ?」

「特に予定はないな」

「そうか。なら食事を済ませたらすぐに準備をしてこい」

 短く肯定して頷くと彼は俺の頭をぐしゃぐしゃ撫でた。呆然としていればまるで羞恥でも感じたようにそっと離れた彼に、そういえば俺がもうすぐここを出ていく事実を思い出した。気抜けした意識からはっと戻った瞬間にこみ上げてきた笑いを上手く抑えきれずくつくつ笑うと、「ロータス、早くメシを済ませろ!」という怒号が聞こえた。
 俺が上手いこと返事も出来ず長らく腹を抱えていると彼は不機嫌そうにして撫でた頭を今朝の朝刊で殴り付けた。頬の笑いはそれでも引かなかった。





「招かれたる客がやってきた」

 店に入ってベルの音が鳴った途端、骸骨が歯をカチカチいわせて笑った。

「そろそろ死んでないかと心配になってな」

 ルパートがそう言うと骸骨のような姿の老人はふん、と鼻で笑った。数年会っていなかった老人は更に骨と皮だけになり、立っているのもやっとに見えた。カウンターについた手は今にも折れそうなほど細い。しかし眼窩に埋まった青い目だけがその肉体の印象を裏切ってぎらぎら生に執着するように生きていた。

「要件はその小僧の新しい杖か?」

「まさか羊皮紙を買いにここまでこないさ」

 肩を竦めたルパートに店主は柳が風に吹かれたようにざわざわ笑いカウンターからゆっくりと出た。足腰に弱りは見えず案外にしっかりとした足付きに感心したのも束の間、俺はすぐに別のことに興味を奪われた。

「……なあ、あれは?」

「アレ?」

 指差すとルパートは俺が指した方に意識を向けた。それにつられて店主も其方を見て、ああ、と掠れた声を漏らした。その一瞬後に店主は些か驚いた顔を見せた、まるで自分の声の掠れが想像を超えていたような顔つきだった。

「以前来た際にはなかったはずだ、あの杖」

 誰かが老いに感慨を浮かべる前に言葉を挟み、俺はカウンターの奥の額縁に飾られた黒い杖を見詰めた。店主は一度笑いじっくりとその杖を眺め、隣のルパートはそっと眉を顰めた後に視線を逸らした。如何ほどかの秘密が隠されているならば無理に答える必要はない、俺がそう断りをいれようと思った瞬間、店主がしわがれた声を噛みしめるように発した。

「あれはワンダの杖だ」

 ――ワンダ、それはこの店『Wand Wanda』の由来にもなった奥方の名前ではなかったか。俺が思考を切り変えて店主に何か言う前に、店主は「よく覚えてるな」と目を細めた。店の内装の話だろう。馬鹿にしたような響きに彼が彼自身たる性質を再び持ち抱えたような印象を覚え、俺は「アナタが死んだ時にせめて全部覚えていられるようにな」と冗談を返した。

「余計な世話焼きだ」

 顔を背けたその体から発せられた声はあまりにも愉快そうで、堪え切れない笑いについ俺も小さく笑ってしまった。そんな俺たちを呆れたような目で見下ろすルパートに昂った神経のまま笑いかけるとわざとらしく重々しい溜息を返された。

「それで、杖の方は?」

「親父みたいに食えない奴だな、ルパート」

 骨と皮の翁より食えんよ、と言われルパートは更に頭を痛そうに抱えた。俺はそんな遣り取りに馬鹿笑いをやめて薄く笑った。店主はインクが積んである棚の下に設けられている引き出しを引いて大量の箱を俺たちに見せ、その中から殊更汚れのない箱をひとつ取りだした。

「サイプレスにウロボロスの尾、22センチ」

「以前の部屋には行かなくてもいいのか?」

「その必要はない、まず合う」

 半信半疑のまま俺はその杖を握った。サイプレスは英名で、日本語ではイトスギという。非常に公園でよく見る気だ。しかしウロボロスの尾というのは――

「珍しいな、ウロボロスの尾ときたか」

 俺が疑問に思ったことをルパートが口にした。ウロボロスとはつまり己の尾を飲み込んだ蛇のことで、古来より蛇は生と死、不老不死の象徴とされてきた。それが尾を飲みこんで円を描くことで終わりも始まりもない完全なものを意味する。循環性(悪循環、永劫回帰)、完全性(全知全能)、永続性(死と再生、破壊と創造)、始原性(宇宙の根源)をも意味し、太古の昔に錬金術師に切り刻まれたとルパートの家にあった本に書かれていた。(切り刻まれて尚欠けなかったという話だが)

「寄贈品だ。先代が譲りうけた物だがまさか本当に使う奴がいるとは思わんかった。お陰で漸く日を見たわ」

「ああ、あそこは普遍性の低い杖の墓場か」

 先程店主が開けた引き出しを見ながら、道理で箱が古い上にキレイなわけだ、というルパートの声を聞きながら、俺は指先で杖を摘まんで腕ごと振った。特定の魔法を意識しなかったそれは杖先から小さな光を幾つも舞い上がらせた。如何にも儚いその光は小さな粒となり地面にばらばらと転がった。しゃがんで粒を持ち上げるとそれは種だった。指の腹に乗る程度の種はどんな種類なのかも知り得なかったが店主が杖を一振りすると小さな白い花弁を覗かせ、すぐに枯れ果てて再び光を灯した。それがまた、床に種をこぼした。
 なんとも後味の悪い出来に店主は満足げに頷き俺は白けた顔をした。

「納得できない顔だな。キュパリッソスの神話は知っているか?」

「ギリシア神話の美少年のことだとしたら」

「そうだ。誤って仲の良かった雄鹿を射ったことに嘆き、神に永遠に悲しんでいられるように頼んでサイプレスに姿を変えた。その逸話がある限り、少なくともここイギリスでは再生と死、喪の象徴だ」

「そんな大層なものだったのか、ウチのドアの材料だぞ」

 笑い話に変えたルパートの顔はいつものように無表情に近い。それでも店主は老人特有の声で笑った。

「サイプレスは再生と死、喪の象徴。ウロボロスの、特に尾は悪循環――つまり柳とは反対で振り難い。このふたつから出来ていればお前みたいな魔力の変質の循環にも耐えられるだろうよ」

 そう言った店主に俺は訝しんだ表情を見せた。

「何故そこまで詳しい」

「……なんだと?」

「まさか数年間俺のことをずっと考えていたということもないだろう。振り難い杖――特に箱さえ特別に奇麗だった保存状態なら、この杖がどんなタイプに合うかということを知らないはずだ。知っていたとしたら前回来た時に渡しているな? 先代からある杖をその歳までまさか知らなかったとは言うまい」

 睨みあった、というわけでもなかった。ただ目を合わせたまま俺たちは沈黙した。俺はそう言ったあと別段何かを考えていたわけでもなかったが、店主の方は何かを考えていたのかもしれない。たゆたう瞳の中に哀愁を見た気がした。

「お手上げだクソガキ」

 眼窩に嵌る青い瞳が純度高く燃えたかと錯覚したその瞬間、柔和に彼の皺の全てが笑んだ。

「別に教えるつもりはなかったんだがな。――先日ある高名な占い師が来てな、キュパリッソスに見紛う美少年がロウェナ・レイブンクローともし同じ体質だとしたらそれにピッタリの杖がここにあると言い残していった」

 俺は容姿のことは一先ずおいて『高名な占い師』の言葉に聞き覚えがあり眉を顰めて頭を押さえた。恐らくあの酒場、オールド・トムで会った性悪女で間違いない。

「知り合いか?」

「顔を見覚える程度のな」

 ルパートの言葉にそう答えると店主はにたりと笑ってこう言った。「そういえば自分を知っているようなら伝えてくれと言っとった、『先日の態度から見て、以前の分も合わせれば人間的経験は自分の方が年上だろう』とな」と。それはつまり――

「さて、勘定の時間だ。65ガリオン」

 ……。ぼったくりだ、と俺とルパートは顔を見合わせた。希少な材料を使った杖がオリバンダー杖店以外では暗黙の了解のもと高価になる話は聞いたことがあるが、杖でその値段はあんまりだ。金に頓着しない間抜けな性格であるため憤りより呆れを覚え、もう思わずといったふうに笑ってしまった。

「ここはそんなに財政が厳しいのか?」

「はん、余計なお世話だ」

 財布に65ガリオンあっただろうかと思いだし、ぎりぎり足り得ることを思い出した。面倒が祟っていつもそこそこの金額を銀行から引き出していることが幸いした。

「――ほら、65ガリオンぴったりだ」

 カウンターに金を降ろして再度確認して、店主にそう言った。返事が返ってこないのを不審に思ってカウンターにおいた金から視線を店主に戻すと、彼は幾らか驚きで硬直していた。

「お前が払うのか」

 それに噴き出したのはルパートだった。

「そういえば、言ってなかったな」

「なにを」

 憮然とした様子で店主は言った。ルパートは愉悦を唇に含んで答えた。

「『あらゆる魔法における考察』という考察本と『魔法は人を馬鹿にする』という啓蒙本を知らないか?」

「エレウテリオス・リベルか? その本ならどちらも……」

 言い掛けて彼は不機嫌そうに、驚いたように「おい、まさかルパート」と言った。

「ああ。ロータスはロータス・“バッコス”・ウィーズリーと言うんだ」

 店主は体を感情によってぶるぶると戦慄かせ、それから長いこと震えていたかと思うと諦めるように長い溜息をついた。それからはっとしたような顔をして、よたよたカウンターの中に戻った。そうしてガタガタ音を立たせて目に見えて焦って杖の入った額縁を外した。

「お、おい。気でも触れたか!」

 ルパートが上ずった声で言ったが店主は聞き入れもせずに額縁を外し、そこからそっと黒い杖を抜きとった。そしてそれを俺の胸に押し付けるように与えた。異常に細い指は存外に温かみがあって彼が人間であることを俺に再度認識させた。

「お前にやる、ロータス」

「だが、これはアナタの奥方の物だと先程、」

「あの占い師は最もワンダに理解のある男にコレを渡してやれと言った。ワンダは昔からこと薬草にかけては採取場所に意義があると言っていた。これはお前が持つべきだ!」

 何がなんでも受け取れというふうに、彼は俺の手にしっかりと杖を持たせた。ざらりとした感触のその杖は何の木なのだか分からず、俺は呆然としたまま無意識に首を振った。もうやけっぱちだった。

「何故そこまで、その占い師を、信じる」

 漠然と湧いて出た言葉は掠れていた。

「彼女はワンダの死を予期していた。それだけで私には充分だ!」

 語気荒い老人は今にも熱情で倒れそうで、俺たちは呆然としたまま店を追いやられた。急な展開についていけず二人して立ちつくしているとルパートがもたつく口許で何かいった。

「アレの婦人はホグワーツの教師だったんだ」

 その言葉に俺は「そうか」とだけ返した。そうしてどちらが先ともつかず足を踏み出し、逃げるようにそこから家への帰路を追った。ポケットの中の二本の杖がその途中どうも気になってならなかった。



13.6.22
加筆修正14.1.27


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