契り雨
希望をもっても無駄だよ、この場所では。私がまだ禿の時分に仕えていた姐さんに言われた言葉。幼い私にはその言葉の意味は当然わかることはなく、わかった時は姐さんの同じくらい齢になった頃だ。その事実を知った時は愕然としたが、妙に納得した自分もいた。あの姐さんの憂いを帯びた眼は全てを知ってしまった瞳だったのだろう。
「なんや、椿は雨が好きなんか?」
「いいえ。好きじゃないです。寧ろ嫌いです。」
ザァーザァーと降る雨に構うことなく格子の隙間からそっと手を伸ばして雨に触れる。袂が濡れてきているが、気にしない。あぁ、この季節は嫌だ。長く雨が続き気分が沈んでしまう。
「折角のええ着物が台無しになってまうで。」
「そうですね…。」
男は静かに私の手を引いて雨から引き離す。染みを作った袂は少し重みをもって不快になっている。男はそんな事に構うことなく、お猪口に口をつけている。私はその様子をみて、すぐさま徳利を手に空になったお猪口に注いでいく。
「晴れている空が好きなんです。」
「ほぉ…。」
「だから、この雨の時期が毎年嫌いなんです。気分がどうも優れないんです。」
「まぁ、そうやのぅ。晴れとる方が外で色々できるもんなぁ。」
「沖田さんは雨でも晴れでも楽しんでそうですけどね。」
作り笑いを浮かべる。生まれてこの方、ほとんど外を見ていない私にとって外は未知の世界。そこにはどんな世界が広がっているのだろうか。一度でいいから見てみたい。そう思った所で無駄だ。一生をこの場所で過ごして死んでいく。それがこの場所での遊女の宿命。身請けなんて夢のまた夢。
「一度でいいから海を見てみたいんです、私。」
「なんや、見たことないんか?」
「沖田さんはあるんですか?」
「勿論あるで。」
「いいなぁ。」
「じゃあ、いつか椿に見せたる。」
「そうですね、いつか。」
そういって指切りを。この場所でよくある戯言の一種だ。そんな戯言を楽しんだ後は床にはいる。今日もいつものように夜が終わりまた朝が始まる。その繰り返しだ。いつの間にか雨の時期は終わりうだるような暑さと共に晴れの季節がやってくる。沖田さんはその後も合間を見つけては私に会いに来てくれていた。
そんなある日のことだった。朝から女将さんに呼ばれて話を聞かされる。話を聞き終わったあともまだ実感が湧かない。
「良かったね。あんなええ人に身請けしてもらえて。」
「そうですね…。」
まだ他人事のように聞こえる言葉。女将さんはこれから準備で忙しくなるといって立ち上がって忙しなくしている。私も準備の為に身支度を整える。ようやく実感が湧いたのは宴が終わった後だった。沖田さんは私の手を握り微笑んでいる。
「これで椿に約束守れるのぅ。」
「約束?」
私はとうに忘れていた。戯言なんていちいち覚えていても無駄なことはわかっていたからだ。希望を持っても無駄なことは体感していたからだ。そんな私の態度にムッとしながらあの時の話をしている。そして思い出す。
「ほな、善は急げや。」
「えっ…。」
沖田さんは用意していた馬に私の手を引いて乗せる。しっかり捕まっときやと言いながら馬を走らせていく。目的地はひとつ。
一面広がる光景。驚きのあまり言葉を失う。これが見たかった海。思わず涙が零れる。そんな私を見て優しく笑みを浮かべる沖田さん。
「ありがとう…ございます。」
「そない喜んでくれるんやったら、頑張った甲斐があるのぅ。」
長い雨の時期が終わり晴れの時期に変わる。いつもなら晴れの空を眺めて変わらぬ夏を迎える筈だった。けれど、今年からは違う。新しい世界がそこには広がっていて私の隣にはその新しい世界をたくさん見せてくれる大切な人がいる。
prev /
next