巡る季節
今年ももうこの季節なのか。ふわりと暖かい風が肌を掠めて舞い散る花びらが視界に広がる。この季節になると今でも思い出すあの淡い出来事。忘れてしまってもいいのに、思い出してしまうのはやはり今でもあの人のことを想っているからだろう。
目の前の桜を目にしながら思う。
あの人は今どこで何をしているのだろうか?
そんな事をふと。
3年前…
あの頃の私はどこにでもいる普通の大学生だった。バイトと学業を両立しながら日々忙しなく生活していた。大学入学当初はカフェでバイトをしていたが、友人に誘われたことがきっかけでキャバクラで働くように。奨学金を早く返したかったからだ。初めは水商売ということで抵抗もあったが、私が働いていたサンシャインはキャスト同士も仲が良く、お店の雰囲気も良かったことから大学卒業まで続けられると感じたからだ。
「すまんのぅ、椿チャン、急に無理なこと頼んで。」
「いいんです。ちょうど余分に買ってた分があるんで。」
「それなら良かったわ。」
支配人と並んで歩きながら横目でそっと眺める。今日も変わらずかっこいい。私がサンシャインを続けている理由のもうひとつ。それは、支配人のことを好きになってしまったからだ。ちょっとでも好きな人の傍にいたい。ちょっとでも好きな人の姿を見ていたい。誰しも持ち合わせる感情だろう。私もそんな感情を持っている中の一人だ。しかし、想いは伝えることなくひっそりと暖めていた。きっと、いや絶対、そうだろう。サンシャインにいるキャストのほとんどが真島さんのことを好きなんだろうと思っている。だからこそ、この恋心はそっと秘めたままにしている。
そんな私にチャンスが舞い降りた。
恒例になっているユキさんのちらし寿司パーティーが今日開催されることになったのだが、お酢を切らしていたようで、私の家にちょうど予備があったことを伝えると、真島さんが夜道は暗いし、一緒に行くと声を掛けてくれた。
真島さんと並んで歩く。ただそれだけのことなのに、嬉しくて飛び上がりたくなる。支配人が何か話かける度に胸が高鳴りドキドキする。恋人になった人は当然のようにこのドキドキをいつも味わえる。なんて幸せ者なんだと羨ましく思ってしまう。
「そろそろ着きそうか?」
「はい。その角を曲がった所です。」
本当はもう少し近い道があったけれど、わざと遠回りの道を選んだ。こんなチャンス滅多にない。今日だけと自分に言い聞かせて、真島さんと束の間の恋人気分を味わいたかった。
「支配人、中に入って待ってて下さい。」
「ええんか?」
「はい。」
真島さんは女の子の部屋って感じやなぁと言いながら、ソファーに腰かけている。ユキさんからはご飯が炊きあがるまでに戻ってきてくれたらいいと言われていたので少し時間はある。お茶の用意をしますねと告げて、真島さんもじゃあ、一服させてもらおうかのぅと返事が返ってきた。
「ベランダ借りるで。」
「はい。あの、灰皿ないんでこれでいいですか?」
「わざわざ悪いのぅ。」
使い終わったトマトの空き缶を真島さんの手に。ちょうど、お茶の準備も終わったので手渡すと、ライターと煙草をポケットから取り出している。
「ええ景色やのぅ、ここは。」
「そうなんです。だからこの部屋にしたんです。」
ちょうど桜の季節を迎えていたので、ベランダから見える景色は一面ピンク色。花が散って緑の葉が生い茂る頃には毛虫もでるので、大変だが、この景色を見られると思うと、この部屋にしてよかったと思う。思わずため息が漏れてしまうくらい綺麗な光景。真島さんもそう思ったのか、黙ったまま目の前の光景を目に焼き付けている。
「そろそろ行かんとユキちゃんから怒られてしまうな。」
「そうですね。」
楽しい時間は一瞬。残念に思いながら、網戸を開けようとした時だった。開けにくいなぁと思いながらも、力を込めて開けようとすると、勢いよく開いてしまった。前のめりになって地面に叩きつけられる。そう思っていたが、そうはならなかった。私の身体はすっぽり暖かいもので包まれていた。
「し、支配人!!」
まさに心臓が飛び出るくらいの驚き。支配人は私の身体を支えてくれていた。正確に言おう。私は支配人に抱きしめられている。あくまでも事故だ。それでも嬉しい。離したくないと言わんばかりにそっと真島さんの腰に手を回す。
その瞬間、時が止まったように感じた。
今、支配人はどんな顔をしているのだろうか。そんな興味からそっと顔を上げた。すると、支配人は無言のまま私を視界に捉えていた。そして、静かに顔が近づくのを感じた。私はそのゆっくりとした動きをただただ見ていた。
触れるだけの優しい口づけがひとつ。
嬉しい気持ちが溢れて想いが零れ落ちてしまいそうになる。今、言ってしまえばいいんじゃないのかと頭を過るが、すぐに言わなくてよかったという気持ちにさせられる。
「椿チャン、堪忍や。」
「えっ…。」
なぜ、あの時真島さんが謝ったのか。答えは未だにわからない。答えを聞こうと思ってもそれができなかった。サンシャインに戻る道中、真島さんはずっと黙ったままだった。勿論私も聞くことができず、下を向いて歩いていた。そのすぐ後だった。真島さんがサンシャインに来なくなったのは。私は永遠に答えを聞くことができなくなったのである。
生きてるのか死んでるのか。噂は色々と飛び交っていたが、何一つ信憑性のあるものはなかった。わかっていることは、真島さんは蒼天堀にはもういないということ。ただそれだけだった。3年経った今でも、この時期になると色濃くあの思い出を思い出してしまう。
真島さん、会いたいなぁ。
空いているベンチに腰掛けながらそんなことをふと。夜風がさらりと吹いて桜の花びらがふんわりと舞う。綺麗な光景なのに、なぜか物悲しい気持ちになる。なんでだろう。これからこの先もこの季節が来る度に思い出してしまうのだろう。あの日のことを。
帰ろうかな。明日も会社だしね。そう自分に言い聞かせて立ち上がる。その瞬間、さっきよりも強い風が吹く。驚きながらも、目を閉じて風が止むのを待つ。すぐに風は止んで静かに目を開ける。変わらず綺麗な桜の光景が広がっていた。しかし、ひとつだけさっきと違う光景。目の前には男性が一人立っていた。
「エライ風やったのぅ。大丈夫か?」
「えっ…。あっ!!」
聞いたことのある声のトーンがしてまさかと思って顔を上げる。だいぶ見た目が変わってしまったけれど、間違いなく真島さんだった。驚いたまま固まっている私。一方の真島さんは笑っている。まるで何にもなかったかのように。悔しいなぁ。今でも私はあなたのことを想っているのに。
「桜を見ると思い出すんや。あの日のことを。」
「あっ…。」
真島さんも同じ想いだったのか。じゃあ、なぜ謝ったのか。わからない。そう、わからないのであれば聞くしかない。すぐに問いかけると真島さんは笑みをひとつ。
「この後、時間あるんやったらゆっくり教えたる。」
「それって?」
「さっさと椿チャンが決めへんと答えがわからんままやで!」
「行きます!」
差し出された手を取って歩き出す。3年越しの答え合わせをするまであと少し。今年の桜は特別な思い出になりそうだ。そんな事を思いながら、握られた手をぎゅっと握り返した。
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