この選択が正しかったのか否か。その問いに答えてくれる人はもういない。答えのわからない混沌とした世界の中に自分はいる。

「ジュンギ、来てくれたんだ!」

「はい。時間が少々できましたので。」

自分の目の前で実に嬉しそうに喜ぶ彼女の顔を見ていると、その混沌は一瞬だけ消える。いや、これは現実逃避なのか。またしてもその問いに答えてくれる人はもういない。彼女が自分の手を取り、早く中に入ってと催促している。可愛らしいその様をそっと目を細めて喜ぶ自分。そして思い出す。あの日のことを。

数年前…

「あの、ここは?」

「中に入れば女がいる。今日はお前が相手をしろ。」

「えっ…。」

ボスの声に耳を疑った。ここは定期的に訪れる場所。しかし、知っているのは自分のみ。そう、ボスの女である彼女の家がある所だ。その事はボスの傍にいるようになってからすぐに知った。しかし、中で何が行われているかまでは知らない。マンションの外で逢引が終わるのを待っていたからだ。ここが唯一ボスが安らげる場所だと知っていたからだ。

「最後の仕上げだ。これでようやくお前は私の影となれる。」

「しかし…。」

カップの持ち方、筆跡、声のトーン、イントネーション、食べ方…。様々なことを傍にいて学んできた。完璧な影となる為に。周りの目はようやく欺けるようになってきたとは思っている。まだまだ至らない所は当然多いが。そんな日々を過ごしての今。ボスは自分を完璧なものとしようとしている。そう、自分の大切なものを差し出して。

「…ボス、私にはできません。」

初めてボスの命令に反した瞬間だった。なぜなら、知っているから。ボスがどれほど彼女を溺愛しているかを。知っているからこそ、この申し出は受け入れられなかった。そんな動揺する自分と違い、ボスは至って冷静だった。こんな時も平静を装えるのがボスとしての器なんだろう。改めて敬意を称したい。

「万が一の為だ。」

「万が一とは?」

「いつか、自分が命を落とした時、そのかわりとしてお前が彼女の傍にいる為だ。」

「そんな事、万が一にもありません。」

「そうだな。ないかもしれない。けれど、保険は掛けておくのに越したことはない。そうは思わないか?」

口調は柔らかいけれど、自分を射抜くような視線が突き刺さる。言葉が出ない。そう、もうこれは命令なのだ。断るということはできないという。

「大丈夫だ。お前は私の完璧な影武者だ。うまくやれる。」

肩をポンと叩かれて、済んだら連絡をくれと言われて一人になった。もう逃げることはできなかった。あとは覚悟を決めて、自分は言われた通りのことをしていくだけ。

「ジュンギ、今日はいつもより遅かったね。」

「………。」

初めてみたボスの彼女。話に聞いていた感じとは全然違って普通のどこにでもいる女だった。しかし、すぐにその理由はわかった。自分の顔を見ると嬉しそう笑う。その笑顔を見ていると、ボスがこの彼女を好きになったのかがわかるような気がした。

「無事に済んだか?」

「はい。」

「椿は元気だったか?」

「はい。いつも通りだったと思います。」

ボスはその言葉を聞いてとても嬉しそうにしていたのを思い出す。あの時の笑顔は今でも自分の脳内にこびりついて離れない。本当に綺麗な顔をしていた。

「ジュンギ、明日時間あるならどっか出掛けようよ。」

「それはいいですね。どこか見たい所がありますか?」

「うーん、雑貨屋さんでしょ、カフェでしょ、浜北公園で散歩でしょ、それから…。」

「時間の許す限り全部致しましょう。」

「やった!ジュンギ、大好き!」

そういって、彼女は抱き着いてくる。自分はそっと彼女の身体を受け止める。ボスのあの日の言葉は本当になった。自分の知りえぬ場所でボスは最期を迎え、自分はボスの約束を守る為に彼女の傍にいる。彼女は何も知らず、いつも満面の笑みを浮かべている。ボスの前でも浮かべていた筈の笑顔を。

本当のことを話すべきか否か。いつも自分は彼女と対峙するときに思い悩む。言わなければこの彼女の笑顔は奪われることはない。言ってしまえばこの笑顔は永遠に失われてしまう。ジレンマを感じながら、いつも言わない選択肢を選んでしまう。あの人が自分と同じ立場だったらどうしていただろうと問いかけながら。

「椿、もう1回してもいいですか?」

「うん。いいよ。」

彼女に覆いかぶさり、口づけを。全ての悩みを忘れさせてくれる唯一の瞬間。彼女との情事に溺れることで現実逃避を試みる。束の間の幸せを噛み締めながら、今日も真実は自分の胸の中にだけ留めておく。


双生児



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