いつの間にか随分と時間が経っていたようだった。一旦集中するとそのまま勢いに乗ってやってしまうことが多い。今日もそうだった。気づけば予定以上の仕事をしていた。終われば先に帰ってくれていいと言われていたが、なぜか帰る気になれずそのままになってしまった現在。終われば戻ってくると言われていたが、この時間だと帰ってこない可能性もあるだろう。

1日の終わりにあの人の顔を見て終わりたい。

細やかな自分の中での楽しみ。今日はその楽しみはお預けになった。切れてしまった集中を今更元に戻すということは出来ず、帰ろうかもう少しいようかで悩んでしまう。

やっぱりもう少しだけいようかな。その前にちょっとだけ休憩。

引き出しの中にいれてあるアイマスクをそっと取り出して目に取り付けて、背もたれをそっと後ろに下げる。

「高城、これ良かったら使え。」

「なんですか?」

渡されたのは可愛くラッピングされた包装された小さな何か。会長がわざわざ買ってくれたのかなと思うと胸に熱いものが込み上げてくる。その場で開けてもいいですかと声を掛けて現れたものは可愛らしいアイマスクだった。

「大したものじゃないから要らないなら捨ててくれても構わない。」

「いえ…。こんな可愛いもの頂いたのは初めてなので大切にします。」

「そうか。それなら良かった。」

安心したような会長の笑顔を見て、私も心がぽっと暖かくなるのを感じた。それからこのアイマスクは私の大切な宝物になった。

大吾さん…。

決して呼ぶことはない名を一人呟く。視界が遮断されているせいかいつもよりも自分を曝け出しているような気がするのは気のせいだろうか。わからない。けれど、このアイマスクを纏うと自然と心が落ち着いて満たされていくのを感じる。大切な人からもらったものだから。

どのくらいそうしていたかはわからない。時間にしてはそこまで経っていないだろう。少しの仮眠で疲れはだいぶましになった気がする。アイマスクを取って、背もたれを元に戻そうかと考えていた時だった。ドアが開く音がして動きが止まる。こんな時間に来る人は限られている。会長が戻ってきたのかもしれない。逸る気持ちをそっと抑えながら、いつもの自分に戻らなければいけないと思うが、寝起きの身体はまだ本来の動きを取り戻しておらず、動くことができない。そう、何かおかしいと感じていたのだ。いつもだったら、会長は一声かけてくる筈だったから。
コツコツと靴音だけが耳に響く。私の近くにきているのは気配で感じる。視界が鎖されている環境だと妙に他の感覚が研ぎ澄まされるのを改めて感じる。そして靴音は静かに止まる。私の間近に誰かいるのを感じる。

「会長、お戻りになったんですか?」

「…………。」

返事はない。急に不安な気持ちが広がって、アイマスクを取ろうとするが、強い力で阻まれる。ギシッと椅子の軋む音がして、2人分の体重が椅子に掛けられる。私の頬をすべる大きな手。私はただただ緊張していた。会長は何をしようとしているのだろうか。その答えはすぐにわかる。
あっ…と蚊の鳴くような声が自分の声から漏れた。近づく時は慎重だったのに、行動は大胆だった。私の唇をあっさり奪い、心地よい口づけに酔いしれる。情熱的な口づけをする人なんだな、会長は。嬉しく思いながら、その口づけに応えるように舌を絡ませる。何度も何度も。

「会長…。」

唇が離れた時にその名を呼んだ。すると、完全に唇は離れた。まるでそれは言ってはいけない言葉のように感じた。嫌な予感が頭を過る。ようやくアイマスクを取った時には誰もいなかった。まるでそれは狐につままれたような感覚だった。冷静になった思考で思うことはひとつ。私が名前を呼んだときにその相手はふっと笑みを零したこと。それは正解だったのか不正解だったのか。それともこれは夢だったのか。その日は結局、会長がもう1度姿を現すことはなかった。

◆◇◆

結局、あの日の出来事は夢だったのかもしれない。そう思うことにした。あの後、会長と顔を合わせても以前と変わりはなかった。よっぽど自分から聞いてしまおうかと思ったが、もし違っていたらと考えると聞くことが憚られた。そう、あれは夢。そう思うことにして自分を納得させていた。

それなのに…。

「会長、お茶と資料をお持ちしました。」

「あぁ、そこに置いてくれ。お茶は峯の方にも置いてくれ。」

「わかりました。」

今日は大事な話があるということで会長と峯さんが話をしている。私は隣の部屋でいつも通り仕事をしている。終わる頃合いを見計らって峯さんを見送りすればいいか。そんな風に思っていた。

「高城、峯の見送りを頼む。」

「わかりました。」

すでに大事な話は終わっていたようで、和やかな雰囲気が部屋には流れていた。私はドアの近くに立って、峯さんが帰る支度を終えるのを静かに眺めていた。峯さんはさっと用意を済ませて、私を一瞥する。会長とは懇意にしているようだが、私は特にこの人に興味が湧かなかった。会長は峯は顔が良いから女によくモテるんだと言っていたのをふいに思い出した。

「高城さんは大吾さんの事が好きなんですか?」

「えっ…。」

本部の長い廊下を歩いている時に峯さんはふいに話しかけてきた。いつもは取り留めのない会話が多かった。けれど、今日は違っていた。核心をつくような言葉に動揺していつもの冷静さが保てない。

「淡泊そうな顔をしてなかなかあなたは情熱的なキスをするんですね。」

「………。」

言葉にならない衝撃がやってくる。動揺する私と違い、笑みを浮かべながら私を見る峯さん。顔が良いと言われているかもしれない。けれど、私からするとその顔は怖いとしか思えなかった。

「どういう事ですか?」

そう、冷静に。自分に言い聞かせるように何事もないような様子で言葉を返す。すると、喉の奥の方で笑う声。その声に聞き覚えがあった。そう、あの日の最後に聞こえた声。あの時の同じ声が耳に広がっていた。

「つまり、こういう事です。」

「ちょっと…。」

腕を掴まれて、空いている部屋に押し込まれる。そして舞い落ちる口づけ。引き剥がそうと思っても強い力で押し戻される。身体の奥に熱いものがこみ上げてくる。あの日の感覚だ。心と身体は違っているのだということを改めて思い知らされる。身体だけは、この男を受け入れているのだ。本当に従順にその口づけを受け止めている。

「どうして、こんな事を…。」

ずるずると腰から床に落ちて、見上げると笑う峯さんが立っている。睨みながらその言葉を告げると峯さんは笑う。立ち上がれない私と同じ目線に立つように屈む峯さん。私の心の中は悔しい気持ちや悲しい気持ちが複雑に入り乱れていた。

「いつも眉一つ動かさない冷静なあなたがどんな風に冷静さを欠くのかを見てみたいと思ったんですよ。」

「そんな事の為に…。」

「まぁ、ただの暇つぶしですよ。でも、暇つぶしにしては良い時間でした。」

「最低!」

「なんとでも好きに言えばいい。そう、好きにね。」

一切動揺せず余裕のある峯さんを見て怖い気持ちが広がっていくのを感じる。その不安は見事に的中した。

「大吾さんはどう思うでしょうね。この事を知れば。」

「………。」

「あなたは頭の良い人だ。もうわかりますよね?」

何も言えない私の頭をそっと撫でて峯さんはいずれまたと言って出ていった。私はこれから何が始まろうとしているのだろうかと考えて怖くなった。そして思う。会長への気持ちは自分の胸の中にしまっておいて良かったと。本人に告げることなく、このまま終わるのだろうと。まだこれは始まりにすぎない。恐ろしい男に私は捕まってしまったのだということに気づいて涙が留まることなく流れては落ちていく。そう、これは序章だ。




視界ジャック



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