人魚鉢(十三)


ふわふわと浮いている感じがした。
まるで自分自身が空気のようだった。
キラキラと軽やかな旋律が奏でられていて、眠りに誘ってくる。

ふと、懐かしい声がした。
自分の名前を呼んでいる。
可愛らしい声は、いつものおっとりした声ではなく、切羽詰った物だった。

起きなくては。

そう思うが瞼は重く、どうにも開くことができない。
ポロン、ポロン、眠りを誘う音楽は鳴り止まない。
愛しい少女を思いつ浮かべながら、ナルトは再び意識を沈めて行った。




ナルトの魂は眠っているようだった。
大きな声で声を掛けてもびくともしなかった。

ふと頭上の水泡を見回した。
それらの水泡の中にも人がいた。サンゴもいた。
誰もかも深い眠りについているらしい。

手を伸ばすと、まるで磁石が反発するように、離れて行ってしまう。

泡姫をキッと睨んだ。

彼女はナルトが閉じ込められている水泡を携えて、真珠色にキラキラと輝くあらこ貝の上座にゆったりと座った。
そして艶めかしい手つきでナルトの水泡を擦る。

激痛が走る片足を引きずりながら、ヒナタは一歩、また一歩進んだ。
転びそうになると、九喇嘛が隣で支えてくれた。
尾獣のチャクラの所為なのか、彼の傷は既に塞ぎかかっている。

泡姫の前に立ち、ヒナタは毅然と彼女を見上げた。

「ナルト君を返して」

自分でも驚くくらい低い声が出た。
九喇嘛は目を見開きヒナタを凝視する。

泡姫はひるむことなくさげすんだ目でヒナタと九喇嘛を見下ろした。

「どうしてこんなことをするの?」

お伽噺の中で、そして本当の伝承に語り継がれる彼女は、もともと清らかな心の持ち主だった。
なのに、人の魂を食い、面白がっている様が、ヒナタには信じられなかった

「人間は私を絶望させた……それだけのことだ」

裏切られたから、人間に絶望したから。
たったそれだけで心が闇に染まってしまうのだろうか。
神と崇められながらも…。

「あなたにも、人間を愛した時期があったのでしょう?他人のために自分の命を懸けたこともあったでしょう?なぜ…」

泡姫は眉をひそめた。

「私は…人を愛してやったというにのに、彼はその見返りをくれなかった。ならば、肉体を捨てでまで行き長らえた私は何のために存在しているのか…」

自分の命と引き換えに、人間を助けた。
もう尽きる命に新しい命を吹き込んでくれた自然界の神。
もう一度、彼の傍に居ることができる喜び。

「……分からない!人魚の頃が懐かしい。彼に恋する以前の、人間を捕食者だと見ていた頃がどんなに幸せだっただろうかっ!」

「だから、人間の魂を食べだした…」

神や精霊も、人と同じなのかもしれない。
自分の存在価値が分からなくなって、そしてかつての己の使命に還る。
掟を破ってまで、己の意思に従ったというのに、それを悔いてしまう気持ちは、ヒナタにも分かるような気がした。

しかし…。

「あなたの愛するというのは、見返りを求めることなの?」

いや、答えは知っている。
彼女が一目ぼれしたとき、純粋に忍気の青年を愛していた。
見返りを求めない、ただただ好き、と。

「私は、あなたのことを伝承でしか知らない。でも、人魚の仕来りよりも青年を優先させたあなたは、とても素敵な方だと思う」

泡姫の眉間のしわが深くなる。
きりっと歯を噛み、白い滑らかな手をわなわなとさせた。

「妾が素敵だと申すのか!?上部だけの言葉で、妾の意志が揺らぐとでも思っているのか!見返りを求めて何が悪い!」

水泡だけ残し、泡姫はふわりとヒナタの前に降り立つ。
グイッと顔を近づけ、手でヒナタの顎を掴む。

「なにをする!?」

九喇嘛が片手にチャクラを溜め、泡姫に襲い掛かった。
しかし、泡姫が軽く片手を振るうと、見えない衝撃で九喇嘛は吹き飛ばされ、壁に打ち付けられた。

「九喇嘛さん!」

「六道の小間使いが…」

横目で九喇嘛を一瞥して、ヒナタの目をじっと見つめた。
そして目をかっと開いた。

「愛すだけで、愛されないのは、拷問にも等しい!すぐ傍にいるのに!空間を越えれば触れる位置にいるのに!彼に会えない!彼に触れることができない!ただ眺めているだけ…!この湖から眺めているだけ…!」

美しい顔を鬼のような形相に変え、泡姫は吠えた。
それでも声は美しい。

「金魚が狭い金魚鉢の中で過ごすように、私はこの湖という鉢の中に縛り付けられているのだ!そなたには分からぬだろう!人間世界には国境というものがあるが、力付くでも越えることができるだろう!!私はちがう、そなたたちとは違うのだ」

(違う)

人には目に見える壁だけではなく、目に見えぬ障壁もある。
泡姫のいうように、人間は簡単に壁を越えることはできない。

かつて、自分もそうだった。
ナルトの事が好きで、しかしなにも言わず遠くから眺めているだけだった。
自分は鳴戸には相応しくないと壁を作り、接することを恐れた。
今でも薄い壁をつくって今っている。

そのとき、気がついた。
ああ、この人は自分と同じなのだ。
彼女は鏡と対の時分なのだ。

「私も、あなたと同じ…」

突然何をいうのだと泡姫は言う。

「大好きな人のためなら、死ぬことだって怖くない。私もそう思っているから…だから逃げずにここにいる」

傷口を縛っていた布は、すっかり赤い血で染まっていた。
膿が出て来たのだろうか、布に擦れてぬめっとしたものが傷口の周りを這った。

「わたしは…生きてはいるけれど、大好きな人を守ろうとして死にかけた。無我夢中で、彼のことばかり考えていた」

両手で自分の顎を掴んでいる泡姫の手を包み込み、そっと顎から離した。

「あなたが青年の命を優先して死を選んだときの心境を、自分に置き換えてみたら、よく理解…できた」

泡姫の眉間のしわが緩んだ。
そして、顔を伏せた。

「なぜ、泣いておるのだ」

ヒナタは静かに泣いていた。
自分でもどうしてか理由が分からない。

ここへ来たときは、泡姫が憎くて仕方がなかった。
ナルト達を返してほしい、それ一心だった。

しかし、彼女の呪いの叫びの中に、彼女の悲しい本心が隠れていることに気が付いた。
ナルト達を取り戻すだけでは、なにも解決には至らない。

そう、心で感じたのだ。

泡姫自身も戸惑っていた。
鋭い瞳で睨んできた彼女が、まさか己の気持ちを思って泣き出すとは思ってもみなかった。

その様子を見て、九喇嘛は笑う。

(ヒナタも、ある意味、意外性No.1忍者かもしれないな)

打撲で痛む身体を起こし上げ、九喇嘛はゆっくり、ヒナタ達の元へ歩みを進めた。





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