ペットは幸せな夢を見るか

 白銀の美しい生き物が、力強くその翼を羽ばたかせて遠ざかっていく。小さな丘ほどはある姿がだんだんと小さくなり、ついには見えなくなってもなお、しばらく彼が向かった方向の空を見つめていたヒムロだったが、諦めたように目を伏せると、のろのろと洞窟の奥へと向かった。
 簡易的な調理場に押し込められたものの、彼を見送りたくてこそこそと洞窟の入り口まで来ていたのだが、かのドラゴンの姿が見えなくなる内に心細さが募ってしまい、見送りに出てきたのは失敗だったか、と人間のペットは苦笑する。

 調理場へと繋がる横穴を通り過ぎて、ヒムロが向かうのは奥の寝床だ。ヴァイツとヒムロが眠りにつく、一番安心する場所。

 起きたばかりで眠気はないが、ヒムロはそこの毛皮と羽毛の山に身体を沈めた。ふわりとした優しい肌触りは気持ちの良いもので、いつもヒムロに安眠を与えてくれる。しかし、それ以上にヒムロに安眠を与えてくれるのは、少し堅く、少しひんやりとしたあの生き物の肌だった。
 柔らかな毛皮を頬に押し当てて目を瞑ってたヒムロだったが、ふいにごろりとその身を転がし仰向けになった。岩がむき出しになった天井をじっと見つめて、それから嫌でも思い出すのは、過去のこと。
 このファンタジックな世界での、絶望の日々だ。

 ごく普通に、日常を送っていたはずだった。それが崩れ去ったのは唐突だった。

 「魔王を倒し世界を救ってほしい」というふざけた理由でこの世界に連れてこられたヒムロは、魔力が一切無かったために、"出来損ないの勇者"と烙印を押され、放り出された。頼る相手はおらず、異なる世界の知識を持っているわけでもなく、ヒムロを待っていたのは死にたくなるほど惨めで屈辱に満ちた絶望の日々だった。

 出来損ないと罵られ、殴られた。
 役立たずと嗤われ、嬲られた。
 時には、ヒムロの容姿がこの世界の中でも大層整っているからか、思い出したくもない行為を強制されたことも片手では足りなかった。
 何度も死のうと思ったが、心の奥底では死にたくないという思いが強く、結局惨めに生にしがみついて生きてきた。

 しかし、あの日。美しく強大で雄々しい彼と出会った日。あの日から、ヒムロの絶望に彩られた日々は途切れた。

 人間である自分が、ドラゴンである彼のペット。奇妙な関係だが、この関係はヒムロに安寧をもたらしていた。
 彼は人間をも食らうようだがペットを食らう気は無いらしく、ヒムロはこの世界に来てから初めて、危険を感じない日々を過ごしていた。

 毎日見る夢は、あの絶望の日々。だが、目覚める度にあれは過去のことだと思うことができるようになった。
 毎日悪夢を見るが、起きれば彼がいることに酷く安心した。
 人ではない異種族の彼に対して、頭のおかしい感情を抱き始めていることに、ヒムロはうっすらと気づいていた。元の世界であれば狂ったかと思われるような、歪な感情。きっと、この世界に来ていなかったら、ヒムロ自身も馬鹿げた話だと鼻で笑っただろう。もしかしたら、嫌悪を露わにしていたかもしれない。
 この世界に来て頭がおかしくなったのかもしれないな、とヒムロは小さく笑った。
 そして、眠るつもりは無かったが、ゆっくりと目を閉じる。

「おや。まさかここで貴方を見つけることになるとは」
「っ!」

 聞こえてきたのは男の声。弾かれるように起き上ったヒムロは声がした方を振り返り、そして、表情を凍りつかせた。
 奇妙な模様が描かれた床の上に、一人の男が佇んでいた。眼鏡をかけ、胡散臭い笑みを浮かべる男は、きょろきょろと興味深そうに洞窟内を見回している。
 そして、ヒムロに改めて目を向けると、にっこりとわざとらしく笑った。

「お久しぶりです、出来損ないの勇者様」
「お、まえ、」

 ヒムロは慌てて立ち上がり、後退る。男はゆっくりとその奇妙な模様の上から一歩足を踏み出した。

「ふむ。随分と気になる魔力を感知したので来てみれば、まさか貴方がいるとは思いませんでした。こちらに来る前に透視はしたのですが、魔力の無い貴方の存在は見えなかったということでしょうか。なるほど、魔力の無い存在は不要と考えておりましたが、些かその考えを改めなければならないかもしれません。しかし、今はそんなことよりもこの不思議な魔力の持ち主ですが……さて、いったい誰のものなのでしょうね。貴方は知っていますか?」

 微笑み、饒舌に語る男の問いにヒムロは答えない。明らかに怯えているヒムロに男も気付いているだろうに、男は微笑みを絶やさずに首を傾げた。

「見る限り、この洞窟はドラゴンの住処のようですね。しかし、残っていた魔力の残滓、あれはドラゴン如きのものではない。魔族的な……そう、魔王に近しい何か、のものと考えるのが妥当」

 顎に手を当て、ゆったりと歩き出した男は、ヒムロを認識してはいるものの、さほど気にかけた様子もない。それはおそらく、男の興味がヒムロに無いからだろう。

「案外、魔王そのものの魔力だったり……いや、それは無いでしょうね。魔王がこのような辺鄙なドラゴンの巣に現れる理由などありませんから。考えられるとしたら、ここに住むドラゴンの飼い主の魔力、とかですかね。ということは、さしずめ貴方はドラゴンの餌?」

 洞窟内をうろついていた男はくるりと振り返りヒムロを見て、あはは、と声を上げて笑った。

「これは失敬。まだ生かされているところを見るあたり、ドラゴンの餌、兼その飼い主の性欲処理のお相手と言ったところでしょうか。貴方は随分と人気があるようでしたから」

 かっと、ヒムロの頬に朱が走る。男はにやにやと笑っている。

「おまえっ!」
「おっと。<拘束せよ>」
「うっ……」

 拳を握り、ヒムロは男に殴りかかった。その勢いは、以前よりも体力も筋力も取り戻したからか素早く重いものであったが、その拳が男に届くことは無かった。男の短い詠唱と共に突然現れた鎖が、ヒムロの足を捕らえたからだ。
 その場に倒れ込むヒムロの元へ、男はゆっくりと歩いてきた。そしてしゃがみ込み、ヒムロの黒い髪を鷲掴み、おもむろに片手を振り上げるとその頬を殴打した。小さく悲鳴を上げたヒムロの口から、ぼたぼたと滴り落ちる。その目には、痛みからの生理的なものなのか、涙がぼろぼろと零れ落ちている。
 そんなヒムロの顔を覗き込んだ男は、おや、と少し驚いたような顔をした。それから少し考え込み、一つ頷く。

「さて。正体不明の魔力の持ち主を誘き出したいのですがね……貴方を連れて行ったら現れるんじゃないかなあ、と、思えてきました。どうやら貴方の飼い主は、割と貴方を気に入っているようだ。暴力の痕は無し、血色も良く健康状態も問題無い。随分と手入れされている」

 男は小さく何かを詠唱すると、細身にも関わらず、ヒムロを軽々と持ち上げ脇に抱いた。

「離せ!」

 暴れるヒムロを易々と抑え込み、男は機嫌が良さそうに歩き出した。

「まあまあ、そんな暴れずに。召喚した私と、召喚された貴方との仲でしょう?ああ、それに楽しみにしておいてください。向こうには、貴方のお仲間が一人待っています。ふふ、同郷同士、積もる話もあるのでは?」 

 ヒムロをこの世界に召喚した魔術師の一人である男は、ヒムロを抱えたまま、その転移の魔法陣を使いその場から消え去った。


prev next


[16]
ドラゴンのペット

Back

2016.10.31〜