魔王、来たる

「ひ、ぅッ……」
「フン、見窄らしい人間め」

 突然に立ち上った魔力、それが慣れ親しんだものだと思う前に飛び起きたヴァイツは、本能のままにそれに飛びかかろうとした。しかしその巨体は見えない力で抑えつけられているかのように、体を起こした体勢で静止したままだった。
 自分の身体が動かないその不愉快な力に怒りを覚え、次に、はて、と剥き出しかけた牙を収めた。
 金色の目をぱちりと一度瞬かせたヴァイツの視界に映り込んだ存在は、ヴァイツのよく知る存在だった。

「全力でおまえが動かないよう抑えつけたつもりだが、起き上がれるとは、おまえは本当に面白いな」

 低く美しい声には、僅かな呆れと、確かな喜色が込められていた。
 グルル、と鳴けば、ヴァイツが何を言いたいのか正しく理解したと思われる男は、地面に押し倒しのし掛かっていた相手から、僅かに身を引いた。しかし、押し倒したそれ……ヒムロを離してやるつもりはないようで、ヒムロが逃げないよう器用に手足で押さえつけたままだ。
 ふと軽くなった体を起こして、ヴァイツは改めて目の前の魔族と人間を見た。

 ここは、ヴァイツの寝床である。そして、先ほどまでヒムロと眠っていたはずだった。
 だが、ヒムロはいつの間にか定位置であるヴァイツの腹から離れており、かつ、大層美しい顔立ちの魔族の男にのし掛かられていた。

 どうやって、だとか、いつの間に、という疑問は抱いていない。
 何故なら、この目の前の魔族の男には、眠るヴァイツに気付かれずヒムロを持って行くことができる力があるのだ。
 先ほどの魔力の放出がなければヴァイツは気付かず眠りこけていただろうし、そもそもあの魔力の放出とてわざとなのだろう。

 リオラリュード。
 魔王の座につくだけあって、その強さは強大だった。

「何をしているのか、と聞きたいようだな?」

 その言葉にヴァイツは頷き、リオラリュードに押し倒されているヒムロを見て目を細めた。もし、ヴァイツが表情を如実に表せるのであれば、その顔はしかめられていたことだろう。
 ヒムロは、ぼろぼろと目から大粒の水をこぼし、苦しげに息をしていた。リオラリュードを見上げるその目は呆然としている。

「おまえが最近ペットを飼いだしたと聞いてな。さぞかしおまえに似合いのペットなのだろうと思って来てみれば、ただの人間がおまえの寝床で、おまえに触れて寝ているときた。ヴァイツ、ヴァイツよ」

 リオラリュードの声は優しい。その鋭い爪が生えた美しい白い手は、ヒムロの喉笛を掴んで離さない。
 ひゅうひゅうと情けなく弱々しい呼吸音は、ヒムロのものだ。

「確かに人間の中では綺麗な方かもしれんが、それだけだ。見れば魔力もろくにない。おまえの役には立たんだろう。ヴァイツ、このペットはおまえに相応しくない。だいたい、奴からの贈り物だと言うことが気に食わん。どうせ暇つぶしに浚ってきた人間をおまえにくれてやったのだろう。俺なら、この世界中からおまえに相応しいペットを選び抜き贈ってやると言うのに」
「ぐ、ぅ、く、るし、」
「それにこれは汚い声で鳴く」

 押し倒したヒムロを睥睨したリオラリュードが、喉笛を掴んでいる手に力を込めようとしたのを見たヴァイツは、長い尾をリオラリュードへと振り下ろした。
 ヒュッと空を切る音がした。尾に何かが当たった感触はない。

「げほ、ごほっ!!ヴァ、、ヴァイツ……っ!」

 押さえられてた気道が正常に使えるようになったヒムロは、喉を押さえて酷く咳き込みその身を丸め、そしてヴァイツを見上げた。弱々しく己の名を呼ぶヒムロをちらりと見下ろして、再び長い尾を振り回す。
 その尾は壁岩に当たり、鈍い轟音を洞窟内に響かせた。

「そう怒るな、ヴァイツ」

 宥める声は、ヴァイツの背後からかけられた。のそりと振り返ると、黒ずくめの魔王は、その美しい顔に苦笑を浮かべ立っていた。
 非難の唸り声を上げれば、リオラリュードはゆったりとヴァイツへと近づいてきた。
 そしてヴァイツの目の前で立ち止まり、白く美しい手を伸ばしてくるのを、ヴァイツはじっと見下ろした。

「……すまなかった。いくらおまえに相応しくないとは言え、そのペットはおまえのもので、おまえは自分のものを取られることを酷く嫌がるのを失念していた。もう取るつもりはないから、だからその美しいおまえの白銀を撫でさせてくれ」

 甘さを含んだ声が紡ぐ懇願に、ヴァイツはじとりとリオラリュードを見下ろしていたが、結局一つ溜息をついて、リオラリュードと視線が合う距離まで顔を下ろした。
 途端、怯えて見ていたヒムロが思わず息を呑むほどの、美しい微笑みを浮かべたリオラリュードは、嬉しげな様子でヴァイツの鼻先を撫でた。

「俺の、美しく賢く、凛々しいヴァイツ」

 愛おしげにヴァイツの顔に頬を寄せ、金の目の縁に唇を落とすリオラリュードを些か鬱陶しく思うものの、ヴァイツは好きなようにさせた。
 ひとしきり撫で、唇を落としたことに満足したのか、ようやくヴァイツから名残惜しげに身体を離したリオラリュードは、浮かべていた笑みを消してヴァイツの背後で蹲っていたヒムロにじろりと視線を向けた。
 咳がようやく止まり顔をあげていたヒムロは、その目を見てまた、ひゅうと息を飲んだ。
 ヒムロの呼吸音が乱れていくのを感じて、ヴァイツはゆらゆらと揺らしていた尾の先でその背をそっと撫でた。
 ヒムロがその尾にすがるように手を伸ばし、そのまま抱き締めたが、ヴァイツはそれを好きなようにさせた。

「………ヴァイツ」

 地底の底からでも聞こえてきそうな、低く恐ろしげな声に呼ばれて、ヴァイツは金の瞳を二度瞬かせた。
 リオラリュードは、酷く不機嫌そうな顔をして忌々しげにヒムロを見ていた。

「おまえは、そのペットを、気に入っているのか」

 ゆっくりと問われた言葉に、ヴァイツは首を傾げた。
 気に入っているかどうかと言われれば、別にそんなことはない。
 ただ、このペットはヴァイツのもので、ヴァイツは自分のものを奪われることが一等嫌いなだけだ。
 例えばこの洞窟の宝物庫のものだって、それ自体に興味はないが自分のものなので、奪われようものなら略奪者を八つ裂きにして食らってしまうだろう。
 もしもこのペットがリオラリュードのものなのであれば、ヴァイツはリオラリュードがヒムロをどうしようと興味はなかった。
 ペットがミルドレークのもので、リオラリュードがそれを奪おうとしたとしてもそれは同じだ。
 しかし、現実はこのペットはヴァイツのペットである。であるから、奪われるのは非常に我慢ならない。
 そんなヴァイツの心情を理解したのかは知らないが、リオラリュードはヴァイツをじっと見たあと、それまで纏っていた剣呑な雰囲気を霧散させた。

「……まあ、良い。その人間以外がペットであっても、ヴァイツは同じように嫌がっただろうからな」

 にい、とリオラリュードが嘲るように笑い告げた言葉は、独り言というよりは、語りかけるようだった。ヴァイツの尾が、ぎゅうと力強く抱きしめられた。
 それを見たリオラリュードはぴくりと眉を潜め舌打ちをしたが、特に何かを言うことはなかった。
 ヴァイツの尾が暴れたせいで崩れ落ちた岩石に、リオラリュードは優雅に腰掛ける。

「何故ここに、と言いたいんだろう?俺が用無くおまえに会いに来るのはいけないことか?……はは、分かっている、冗談だ。しかし、相変わらず元気そうで何よりだ。ん?ああ、俺もそう変わりない。もっとおまえに会いに来たいのだが、魔王というのは存外忙しくてな。只でさえ、人間どもが煩わしいというのに最近では勇者何ぞを喚び出しおって、鬱陶しいことこの上ない」

 ヴァイツの鳴き声や視線、素振りに対して、リオラリュードは迷い無く流暢に言葉を紡いでいく。
 ヴァイツはそんなリオラリュードに慣れているのだが、ヒムロは目を白黒とさせていた。そして、少し顔を険しくさせたり、俯いたり、唇を噛んだりと忙しなかった。
 そんなヒムロを訝しく思うが、しかし理由がよく分からずヴァイツはすぐに興味を失った。

「勇者とは何だ、だと?なに、昔俺がおまえに寝物語で聞かせてやったのを覚えていないのか。……ふふ、そうだな、おまえはすぐに眠る子だった。勇者とは……まあ、人間が愚かにも世界の理をねじ曲げて呼び込む異物のことだ。厄介なことに今回は4人も喚び出しおって……内1人は魔力もない役立たずだったらしいがな。いなくなったと聞いたが」

 びくりと、ヒムロが震えた。

「勇者のなり損ないなぞ、どこでくたばろうが俺にとってはどうでも良い」

 俯き震えるヒムロを一瞥したリオラリュードは、ヴァイツに向き直り、思わずと言ったように笑みを漏らした。

「はは、おまえのその興味が全くなさそうな目は相変わらずだな。どうでも良いか、おまえにとっては。何がペットであろうが、ペットはペット、ということなのだろうな」

 ヴァイツは、つい大きく欠伸を漏らした。リオラリュードの話は、いつ聞いても長い。
 ヴァイツの言葉をきちんと理解し、正確に返答してくれているのだが、如何せんヴァイツの疑問全てに答えようとする節があるためだ。
 ヴァイツにとっては答えが無くても構わないどうでも良い疑問まで、リオラリュードは拾って答える。

「……ヴァイツ、俺がここにきた理由だが、ヴェルドラにある話を報告されておまえに伝えにきたのだ」

 黒く長い髪をさらりとかきあげ、魔王は婉然と笑う。

「おまえのものを、略奪しようとしている愚かな人間がいるらしい」

 その言葉に、ヴァイツは酷く不機嫌そうに唸った。ぎらりと光る金色の目の中に、ちらりと赤が散ったのを見て、リオラリュードはますます笑みを濃くした。
 ヒムロは、ヴァイツを見上げて惚けたように固まった。

「……美しい白銀の鱗、しなやかで頑健たる雄々しい体躯、気高くそしていっそ傲慢な精神。それらよりも、おまえのその目が一番好ましい。その目で他者をなぶり殺すおまえの姿が、俺は好きなのだ」

 圧倒的強者たる白銀のドラゴンを意図して焚きつけた男は、魔王らしく邪悪に笑った。


prev next


[12]
ドラゴンのペット

Back

2016.10.31〜