真昼の逃走劇



「待て、谷萩!!」
「っるせー、誰が待つかボケ!」

 そう大声で叫び、走りながら振り向いた谷萩は、右手中指を上に突き立てて舌を出す。その顔は見ているだけで腹の立つ人を馬鹿にしたような顔で、けして上品とは言えないものだ。
 谷萩の隣を走りながら、柳瀬は小さく溜め息をつく。
 そんなことをするから、余計に後ろから迫りくる風紀委員長の機嫌が下降していくのだ。

 谷萩と柳瀬、そして二人を追う形で風紀委員長、その後ろを数人の風紀が追いかけ回す光景は、月に数度は目撃される光景の一つだ。
 追いかけられる理由は、喧嘩か、煙草か、サボリのどれかである。

 今回は遡ること10分前、派手に喧嘩をした後、一服しているところを風紀に見つかったのだ。

「だー!もう、あいつら、しつけー!」
「それが仕事だからな……つっ」

 ぴり、と口内が痛んで柳瀬は顔を顰める。それに目敏く気付いた谷萩は、にや、と楽しそうな顔をして柳瀬を見た。

「お、どうした?そーいや、おまえ一発食らってたな?」
「頬に掠った時に歯で口ん中切った……」
「マジかよ、だっせー!」

 げらげらと笑う谷萩に、柳瀬は走りながら一発蹴りを食らわせる。足を蹴られた谷萩は僅かによろめいたが、すぐに体勢を立て直し、隣で頬を撫でる柳瀬を睨んだ。

「おまえ、危ねーな?!走ってる時に蹴んなっての!」
「悪い」
「心こもってねー!」

 ぎゃあぎゃあと騒ぐ谷萩に、先程と同じ調子で「悪い悪い」と謝りながら、柳瀬はちらりと後ろを振り返った。そして、振り返ったことを若干後悔する。

「眼が怖えー……」

 ぼそ、と呟いた言葉は、谷萩には聞こえなかったらしい。「なんつった?!」と聞き返してくる谷萩に肩を竦め、柳瀬は前を向いた。

 振り返った時に見えたのは、遥か後方でよろよろと歩く風紀委員数人と、相変わらずスピードを緩めず全力疾走で追いかけてくる、風紀委員長の姿だった。その風紀委員長の目つきは、人をこれから殺すと言われても納得してしまうくらいには鋭かった。
 こんな状況なので、これから殺そうとしてるのは谷萩と柳瀬だ、と言われても、納得できてしまう。

「おい、哲人」
「ンだよ」
「つかれた」
「俺もだっての!大体、ハルは途中で喧嘩中断して煙草休憩してただろ!俺のが疲れてる」
「別にどっちが疲れてるか自慢したいわけじゃないんだが……なあ、ここは二手に分かれないか?」
「なんで?」
「今、追っかけてきてんのは風紀委員長だけだ。他の奴らは諦めてる。でも、風紀委員長は諦めてない」
「げえ、マジかよ!」
「そこでだ、俺たちが二手に分かれるだろ。そしたら、あいつはどっち追っかけて良いか迷う。その隙に逃げ切る。どうだ?」
「……なるほど!」

 お前天才か?とでも言いたげな顔で柳瀬を見た谷萩に、柳瀬は神妙な面持ちで頷いた。

「俺は右に行くから、おまえは左だ」

 現在全力疾走している廊下の前方は、行き止まりで、その左右に道が分かれている。いわゆるT字路になっているのだが、柳瀬の提案に、谷萩は疑う様子も見せずに頷いた。

「おう!」
「迷いなくどっちかに来たら、悪い」
「は?!」

 早口で謝罪し、谷萩が何かを言う前に柳瀬はさっさと右に曲がった。数秒後、「ハル!こっちに来てんじゃねーか、こいつ!」と怒鳴り声が聞こえたが、柳瀬は振り返らずに走り続ける。
 階段を下り、裏口から飛び出し校舎裏を走る。しばらくして、柳瀬は走っていた足を徐々に緩め、顎を伝う汗を手の甲で拭った。
 それから辺りを見回して自販機を目に留めると、ポケットを探りつつ、迷いなくそこへと向かう。
 ポケットに入れたままだった硬貨を取り出し確かめれば100円玉が二つあったので、それを自販機に入れた。普段よく愛飲している珈琲のボタンに指が触れかけたが、止まる。迷うように指が彷徨い、結局押されたのはスポーツドリンクだった。
 落ちてきたスポーツドリンクのペットボトルを取り出して、蓋を開け、一気に口へと流し込む。途端に、口の中にピリッと痛みが走り、柳瀬は顔を顰めた。
 スポーツドリンクの味と鉄臭い味が混じり合っている。それをごくりと飲み込むと、柳瀬は大きく息を吐いた。

「ってぇ……」

 撫でた頬は腫れてはおらず、きっと鏡で見ても少し赤いくらいなのだろう。湿布でも貼って置けば、明日には赤みも引いているはずだ。痛みも、頬自体には殆ど無い。
 痛いのは、歯で切ってしまった口の中だ。喧嘩には慣れているとはいえ、怪我の痛みには慣れないし、慣れたいとも思っていない。そもそも喧嘩だって、好きなわけではないのだ。
 喧嘩をしないで済むのなら、それに越したことはないと柳瀬は思っている。しかし、谷萩と一緒にいるとそうも言っていられなかった。

 校舎の壁に背もたれ、残っていたスポーツドリンクを数度に分けて口へと運ぶ。血の味が混じったそれは不味いが、渇いた喉を潤すには十分だった。
 ペットボトルを片手に、ポケットから引っ張り出したスマートフォンを操作する。

 灰色の背景に、幾つかのアイコンが並ぶその画面は酷く殺風景だ。購入したときの設定のままだが、然程不便は無いのでずっと弄っていなかった。
 その画面はいつも通り殺風景で、特に電話やメールの通知は無かった。

 電話のアイコンをタップし、履歴の一番上の番号を親指で触れようとして、止めた。空っぽになったペットボトルを片手で軽く握り潰し、スマートフォンの画面を落とす。

「……そういや、あいつ昼デートだったか」

 あの日から毎日、谷萩が言った通り、笹野は谷萩に昼飯を作って来てやっているらしい。すげぇ美味かった、と機嫌良さそうに谷萩が言っていたのは、その初日の夜だった。
 どうやら、会長の料理は見事に谷萩の胃袋を掴んだようで、谷萩はそれ以降毎日会長の作って来た昼飯を食いに行っていた。
 柳瀬はとは言うと、谷萩以外と昼食を取ることなど無かったので、今では食堂か購買で一人で食事を済ませている。とは言え、いつも谷萩と一緒に昼食を取っていたわけではないので、柳瀬としては問題は無かった。
 谷萩が寝ている時や、教師や風紀に捕まっている時は、一人で食事を取るのが普通だったのだ。
 なので、問題は無い。問題は、無いはずなのだ。

「……」

 校舎に寄りかかっていた背を離し、自販機の側のゴミ箱に、空になったペットボトルを、放り投げる。それは、ゴミ箱の端に当たって跳ね返り、ゴミ箱の中へと落ちて行った。
 スマートフォンの画面を意味なくスライドさせながら、柳瀬は歩く。からり、と頭上で窓が開く音がしたが、どうでも良かった。

「……腹、減ったな」

 思わず呟いてしまった通り、空腹感はある。しかしここ最近、昼食を取るのが億劫になっていた。時間を確認すれば、12時前だ。

 その時、背後でダン!と何かが落ちる音がした、いや、落ちると言うには軽快な、何かが降って来たような音にも聞こえる。
 咄嗟に走り出そうとしたが、腕を掴まれそれも叶わなかった。

「なら、一緒に飯でも食うか?風紀室になっちまうが」

 柳瀬は振り返らずに溜め息をついた。そして、尋ねる。

「哲人……谷萩は」

 すると舌打ちが聞こえた。

「ついでに、笹野が奴を逃がす理由も教えろ」

 どうやら、半ば予想していた展開になっていたらしい。
 振り返れば、目つきの悪い男が立っていた。いつも後ろに撫でつけられている髪が少し乱れているのは、先程までの追いかけっこのせいだろう。

 このところ毎日、谷萩と笹野は昼食を一緒にとっている。きっと、今日も約束をしていたのだろう。乱闘騒ぎの後に風紀と追いかけっこをしていれば人の目にもつくし、その話は会長の耳にも届くはずだ。
 何となく、会長は風紀に谷萩が捕まる前に、あるいは捕まったとしても、迎えに来るだろうと思っていた。
 それは確信ではなく勘だったが、当たる自信はあった。

 風紀の取り締まりに遭遇することは頻繁にあるが、その度に、谷萩と一緒にいる柳瀬には話しかけてくることも、絡んでくることも無く、ただ谷萩に突っかかる様を見ていれば、風紀委員長が谷萩に対しての態度が過剰であることに嫌でも気づく。
 そして、そんな風紀委員長が、谷萩と柳瀬どちらを追うかなど、想像に難くない。
 しかし、風紀委員長が谷萩を追いかけても、笹野がいれば谷萩が捕まることは無いだろうと思ったからこそ、二手に分かれたのだ。谷萩と柳瀬、どちらも逃げ切れると思っていた。

 風紀委員長は柳瀬ではなく、谷萩を追った。その谷萩も、会長が迎えに来て逃げ切れた。追いかけられなかった柳瀬は、逃げ切れるはずだったのだ。

 まさか、得物を逃がした風紀委員長に見つかるとは思わなかった。いや、普段であれば、柳瀬は本当に安全な所まで逃げていたはずだ。それを今回は怠った。
 掠った程度とは言え怪我はするし、風紀委員長には捕まるし、ここ最近調子が悪いな、と柳瀬は溜め息をついた。
 その溜め息に何を思ったか、柳瀬の腕を掴む手に力がこもる。柳瀬は、掴まれていないスマートフォンを持ったままだった左手を上げる。それはさながら、降参のポーズだった。

「せいぜい美味い飯でも出してくれ。あと、哲人と会長のことはむしろ俺が聞きたいくらいだ。何が何やら」

 そう言って肩を竦める柳瀬に逃げ出す意思を感じなかったのだろう。風紀委員長は柳瀬の腕をつかむ力を少し緩めた。しかし、離しはせずにそのまま歩き出すものだから、柳瀬はそれに従うしかなかった。

「捕まえたのが哲人じゃなくて悪いな、御伽」

 我ながら嫌味な言い方だ、と柳瀬は内心で苦笑する。これでは八つ当たりだ。普段であれば口に出さないようなことを言ってしまい、これはいよいよ調子が悪い。
 さて、どんな反応が返ってくるのかと横目で見やれば、風紀委員長はじっと柳瀬を見ていたのか、目が合った。
 一瞬の間の後、形の良い口が開いた。

「俺の名前を知ってたのか、柳瀬」
「……哲人と違って記憶力は良いんだ」

 風紀委員長の御伽の予想外の反応に、柳瀬はそう返すことしかできなかった。



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2017.06.25〜