■ 真夜中の侵入者
勇者候補の一人がいなくなって数週間。
最初、城内は右往左往の大騒ぎだった。しかし、時が経つにつれて、いなくなった勇者候補よりも残ってくれた勇者候補を勇者と認める方向に動いたらしく、最近ではあまり精力的に探してはいないようだ。それに加えて、密やかにだが確実に、いなくなった勇者候補への不信感が城では広がっている。それが、城外にまだ及ぶのはそう遠い話ではないだろう。
そんな話をマリアンヌやガルムたちから伝え聞いたフィオラルドは、苦い思いでいっぱいだった。
強制的に呼び出しておいて、義務ですらない異世界の平和のために命をかけろと言い、拒否すれば恨むとは随分勝手な話だ。
フィオラルドとてこの国の王子。この世界を救ってくれると言うのならこれほど喜ばしいことはない。
しかし、救わない、協力しない、という選択肢を選ばれても文句は言えないとも思っていた。
だから、勇者候補の一人であるタカトが姿を消しても何の恨みもなかったし、その選択肢を選んだタカトを非難する気は更々なかった。むしろ、非難されているあの男に後ろめたささえ感じていた。しかしその後ろめたさは、強制的に此方へと呼び寄せてしまった、ということに対してのみではないように思えた。何か、もっととんでもないことをしでかしたような、そんな不安感がずっと渦巻いていた。
フィオラルドの住む別宅は、外見だけ見ると有力貴族たちの屋敷よりも少し小さい。しかし、揃えられている調度品は全て城内にあってもおかしくないものたちであるし、何より中庭が素晴らしかった。
庭師によって綺麗に手入れされている草木もそうだが、中庭の端よりにある小さな池はほんの少しだけ魔力が宿っているらしく、キラキラと淡く光っていて、それが何とも美しいのだ。特に、月明かりのみが輝く真夜中の庭は、愛らしい妖精がダンスを踊っていても不思議はないほど、幻想的だった。
フィオラルドは、その庭を眺めるのが好きだった。幼い頃、妖精はいるのだと信じていた時など、妖精を見つけるのだと中庭を歩き回り泥だらけになってマリアンヌたちをよく困らせていた。
今は妖精を信じるほど無邪気な気持ちはないけれど、この中庭を愛する気持ちは幼い頃から変わらない。
ふらりと今日も、真夜中の中庭に足を踏み入れた。マリアンヌたちは、真夜中に一人で出歩くことを良く思ってはいないようだが、あまり五月蝿く咎めはしない。
それはおそらく、この屋敷には厳重な結界魔法が張り巡らされていていて安全であることの他に、事実上行動が制限されているフィオラルドに安全な場所ではせめて自由にさせてやりたいという思いがあるのだろう。面と向かって言葉にされたことはないが、フィオラルドは屋敷に住む侍女や護衛騎士たちが自分のことを大切にしてくれていることを察していた。
ゆったりと、中庭を歩く。魔力の混じる池の水に影響を受けているのか、生えている草木も淡く仄かに光っている。夜にしか咲かない白く小ぶりな花にそっと触れれば、夜露に濡れていたのか湿っていた。
池の傍まで近づき、水面に映りこむ月に見入る。美しいそれを手に入れんとばかりに、フィオラルドは少し屈み手を伸ばした。ぱしゃん、と水面が揺れる。映り込んだ月がゆらゆらと揺れて歪んだ。
それを見て、フィオラルドが苦笑したのと、ほう、と小さく息をつく音と共に背後に人の気配を感じたのは同時だった。
ぎくりとフィオラルドは肩を強張らせた。背後にいるのは、侍女や護衛騎士たちではないと漠然とだが察した―――侵入者だ。
「……おっと、大声は出すなよ、フィオラルド王子サマ」
その聞き覚えのある声にはっとした。振り返ろうとする前に、腕がフィオラルドの腹に巻き付き、右肩に何かが乗った。視線だけ右にやると、黒く澱んだ瞳がフィオラルドをじっと見つめていた。
フィオラルドの右肩に顎を乗せたその男は、自由な右手でフィオラルドの喉元を優しく撫でた。親指が、ぐ、と軽く喉を圧迫する。今この瞬間、大声でもあげようものならこの親指は喉を突き破るのだろう。
「アンタのことは、他の奴らよりは殺したくねぇんだ。だから、騒いでくれるな」
そう淡々と告げる男―――タカトの目は、最後に会ったあの書物庫の帰りの時よりも濁っていた。殺したくはない、と言っているが、殺さない、ではない。フィオラルドが下手な動きを見せれば、タカトは躊躇いなくフィオラルドを殺すつもりなのだ。
死にたくない。だが、奇妙なことに、タカトに抵抗する気は微塵も起きなかった。抵抗したとしてもタカトに敵わないと本能で悟っていたのもあるが、それだけが理由ではない気がする。何か、魂の根幹にこの男の好きにさせろ、という思いが植え付けられているように感じた。
じい、と見つめてくるタカトの目を見返し、フィオラルドは躊躇いがちに口を開きかけた。しかし、すぐに口を閉じた。タカトの親指がフィオラルドの喉をゆっくりと撫でていたからだ。
「……ああ、わりぃな。喋って良いぞ。ただし、騒ぐな」
タカトの指がどこか名残惜しそうに喉を撫で、ゆっくりと離れて行った。しかし、身体を離す気はないらしい。
喉への圧迫感が無くなったことに一つ小さく息をつき、フィオラルドは声を潜めて言った。
「色々、お聞きしたいことはあるが……何故、ここに」
「アー、そんな畏まった言葉遣いじゃなくて良いって。だって俺、勇者役は降りたんだから。今の俺は、勇者って言う大役を放棄して逃げ出した愚かで傲慢な異世界人だ」
にたにたと、タカトは嗤う。
「勝手に召喚しといて関係のない世界の人間救えって言われて拒否って居なくなってみりゃ、案の定な反応で笑った、笑った。何だよ、はなっからソウイウことだったんじゃねぇか。この世界の人間は、イケニエを探してただけってな!」
げらげらと、タカトは哂う。
その笑い声は、聞いている者を不安にさせるようなものだった。狂人があげるそれだった。虚空を見つめ、嘲るようにこの世界と人間と神を罵倒し笑い声をあげるその姿は、恐ろしい。
思わず後退ってしまいそうになったが、タカトに抱きしめられているのでそれは出来なかった。腕の中でフィオラルドが動いたことに気を取られたのか、タカトはぴたりと笑い声を止めた。
虚空を見つめていた視線が、フィオラルドへと戻ってくる。奈落の底、光の一切届かない闇のような目。フィオラルドは、衝動的に左手を伸ばした。油断していたのか、それともフィオラルドが何をしようと対処する自信があったのかは定かではないが、拘束が緩んでいた為、左手はあっさりとタカトに届いた。
すぐ近くにあった黒い髪に触れ、そして、押さえつけるように軽くその髪をかき混ぜた。タカトの頭は簡単に下を向いた。
「……すまない」
フィオラルドの口から、絞り出すように出たのは謝罪の言葉。
タカトの黒い髪から覗く黒い目には、自分は今どういう風に映っているのだろうか。おそらく、情けない顔をした男が一人、映っているのだろう。
「泣いてんのか」
視界は歪んでいないし、頬に伝わる雫などない。泣いているわけではない。だが、泣きたい気持ちであるのは確かだった。
「アンタ、泣いてるのか。泣きたいのか。理由も分からないくせに」
馬鹿にするような言葉と、熱に浮かされたような顔はどこかちぐはぐだった。
ぐるり、と視界が反転したかと思うと、本物の月がタカトの背後から覗いていた。土と草花の匂いが強く香る。自分が地面に押し倒され、タカトに覆い被さられているのだと気付いたのは、タカトがフィオラルドの顔の横に肘をつき、ぐっと顔を近づけてきた時だった。
「ずっと、ずっと思ってた、綺麗な赤だなあって。宝石みたいな美しい色。なあ、悪いと思ってんならさ、抵抗すんなよ」
まあ、抵抗しても無駄だろうけどな。
嗜虐的に笑う男の頬にぞろりと黒い影が這う。
いつの間にか音が無くなった偽物の中庭にいるのは、フィオラルドと男だけだった。
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王子様と2周目勇者