▼ 第47話:気になるひと
夕餉を食べ終わり、一通り洗い物も済んだ。
かすみさんは夕刻から眠りについていて、まだ目を覚まさない。
彼女が起き次第のんびり絵でも眺めようか、なんてゆきちゃんと話していると、馴染みのある元気な声が玄関のほうから上がった。
駆けつけた先にあったのは、田中先輩の姿だ。
「せんぱいっ! 来てくださったんですね!」
「おうよ! 一人でヨソに泊めんのは心配だしな」
「ありがとうございます、心強いです! どうぞ、入ってくださいっ」
「んじゃまぁ、お邪魔します」
居間へと彼を案内しながら、互いにとりとめのない報告をする。
先輩は屯所で夕餉を済ませてきたそうだ。
かすみさんのことについても把握しており、でしゃばらずに奥の部屋に引っ込んでおくと控えめに肩をすくめてみせた。
……となると、私の護衛のためだけにわざわざ足を運んでくれたんだな。
矢生一派からいつ襲撃されるか分からないと怯えながら、私は陸援隊に駆け込んだ。
彼らは守ると約束してくれた。
外泊先が必ずしも安全とは限らない。
だからこうして、警戒を緩めずに寄り添っていてくれるのだ。
――感謝しなきゃ。ここまでしてくれる人なんて、他にはいない。
「先輩、本当にありがとうございます」
「礼なんざいらねぇって。おめぇの顔が見たかったんだよ」
「え? あ、あの、はい。私も先輩に会えてなんだかほっとしました……」
びっくりした。何を言い出すかと思えば。
たまにこの人は、さらりと恥ずかしいことを言うなぁ。
変に意識しちゃうこっちがおかしいのかな。
「んで、傷の具合はどうだ? 額はだいぶよくなってんな」
コツンと、かるく先輩の指先が額に触れる。
久しぶりだな、これをされるの。
くすぐったくて、自然に頬がゆるんでしまう。
「傷はどこも順調に治っていますよ。元気です」
「そっか。んじゃ、その元気をかすみさんに分けてあげるんだな」
「はいっ!」
思えば、こうして体の具合を心配されるのも久しぶりだ。
ここに来てからも、朝夕と手当てはしてもらっている。
そのたびにむた兄からは『よくなっている』とお墨付きをもらえるものだから、私自身ですら怪我のことは忘れがちになっていた。
けれど、先輩の中ではまだまだ私も怪我人なのかな。
無理をして心配をかけないように気をつけなきゃ。
すぐに先輩を居間に通して、お茶を運ぶ。
その場で一息ついていたむた兄とゆきちゃんも、彼を歓迎してくれた。
「田中さんこんばんは、ゆっくりしてってください」
「兄さん、久しぶり! 元気にしとった?」
やんわりと微笑むむた兄と、ぱっと華やかな笑みを浮かべるゆきちゃん。
ゆきちゃんは人懐っこいからなぁ。
いつの間にか田中先輩とも距離をつめて親しげに話をしている。
「元気だぜ! ゆきちゃんも相変わらずいい笑顔だな」
「うち、明るいのだけが取り柄やから」
「おう、オレもオレも! あけっぴろげすぎて女からは全然モテねぇけどな!」
「うちもやー! もうそのへんは諦めてるわ! たぶんどっか落としてきてしもうたんよ、女らしさとか」
「きっと母ちゃんの腹の中だな!」
あっはっはーと、ふたつの笑い声が部屋に響く。
……なんだろうこの感じ。思っていた以上に仲がいい。
この二人、どこか似てるんだよね。
ゆきちゃんを男にしたら田中先輩が出来上がる気がするもの。
「美湖ちゃん、どないした? さっきからむくれてるで」
はっとして、背筋をのばす。
目の前には、首を傾けてこちらを覗きこむむた兄の姿がある。
……むくれてた? 私が?
「なんだよ、焼きもちか? そんなにオレと話がしたかったのかよ」
「ごめんな、みこちん。さ、二人で好きなだけ話し」
どうしてそうなるの!?
気をつかっている様子のゆきちゃんにも、やれやれとため息まじりな田中先輩にも、返す言葉がない。
どちらも何か勘違いしている。
「全然気にしてないよ! 私ちょっとむた兄に話があるから、このまま二人で楽しんでね」
むくれても、すねてもいない。本当に何も気にしていないんだから。
うん、むしろ二人が仲良くしてるのは嬉しい。
私はむた兄の手をとってぐいぐいと引っ張りながら、部屋を出て奥の応接間まで連れ出した。
そうしてそっと障子をしめる。
「なんやようわからんけど、怒ってるんか? 田中さんあのままにしとってええんやろか……」
むた兄はいまいち状況が把握できていないらしく、目を丸くして首をかしげている。
気持ちはわかる。
自分でもどうしてこんなに衝動的に動いてしまったのかよく分からない。
ほんの少し前まで先輩に対する感謝で胸がいっぱいだったはずなのに。
なぜだか今は心の奥がざわついて、胸がばくばくと音を立てている。
『焼きもちか?』だって――。
そんなわけない。
先輩のことは信頼していて人として好きだけど、別に焼きもちをやいたりするような関係じゃないし。
みんな、なんだか勘違いしちゃってるな。
後でゆきちゃんにもそのあたりのことをきちんと話しておかなきゃ。
私は別に、ゆきちゃんがどんどん田中先輩と仲良くなって、最終的に好きになっちゃったとしても応援できるよ。
多分。いや、ちょっとは驚くかもしれないけど、きっと。
まぁ、いいか。むた兄に話したいことがあったのは確かだ。
そしてそれは、今後にも関わる重要な話。
「あのね、むた兄。かすみさんのことで話があるの」
「かすみさんの? 何や!?」
その名が出た途端、むた兄は目の色を変えて私の両肩を掴んだ。緊迫した表情だ。
「かすみさん、このまま男の人を避け続けるわけにはいかないと思って」
「うん、うん。そうやな」
「それで、何とかしてむた兄と話をできるようになってもらいたいの」
「……ぼ、僕!? いやいや、アカンやろ。目を覚ましてすぐに僕を見て、泣き出したんやから……」
その時の光景を思い出したのだろう。
むた兄は力なく首をふって眉を寄せた。
私はその場にいなかったけれど、その日の出来事は彼の心にも深い傷を残したに違いない。
「だからね、少しずつ距離を縮めていくのはどうかなと思って。たとえば文のやりとりとか」
「文……か。読んでくれはるやろか?」
「大丈夫! 必ず読んでもらう。何だったら私が読み聞かせるよ」
「うーん……ほんなら、今から書いてみるわ! おおきに美湖ちゃん!」
言うが早いか、むた兄はすぐさま部屋を出て自室へと引っ込んだ。
これからこもって文面に頭を悩ませるのだろう。
具体的なかすみさんへの接し方が決まったからか、彼の表情は明るかった。
私には二人の間を取り持つことしかできないけれど、少しずつ両者の意識を変えていけたらいいな。
この方法が実ってくれたら、かすみさんが外へ出られる日も遠くはないはずだから。
さて、こちらの話も済んだことだし居間に戻らなきゃ。
……大丈夫かな、気まずい雰囲気になっていないかな。
とりあえず、こちらは何も気にしていないと強調しておこう。
やきもちなんて焼いていないし、二人が仲良くしてくれるのは嬉しいことだ。
そうだ。よし、そんな感じでいこう。
「二人とも、さっきはごめ――」
私は居間の障子を開いて素直に頭を下げた。
が、その言葉尻はかきけされる。二人の笑い声にだ。
「あー! みこちんお帰り! 兄ちゃんは?」
「部屋に戻ったよ」
「話は済んだのかよ?」
ぴたりと会話を止めてこちらに顔を向ける二人は、笑いすぎたのかお腹をさすっている。
盛り上がっていたところを邪魔しちゃったかな。
私が割って入ったことで、急速に空気が冷えていくように感じる。いたたまれない。
「話は終わりました。二人とも、なんだか楽しそうですねぇ」
ふたたび去るわけにもいかないので、ゆきちゃんの隣にそっと腰をおろす。
「もー兄さんの初恋話がめっちゃおもろくってなぁ!」
「いやぁ、ゆきちゃんの話もすげぇよ。相手の男はひでぇな。オレだったら嘘でも嫁に来いって言ってやるけどな」
相手が長岡さんだということは伏せているのかな。先輩の口ぶりは、非難の色が強い。
「でもうち、当時九歳やで? 普通は軽くあしらうやろ」
「いや、子供だからこそだよ。どうせ成長したら別の男んとこに嫁ぐだろうしよ、だったらその場だけでも喜ばせてやりゃいいじゃねぇか」
「口約束はアカンな! 了承なんぞされたらもうその場で成立やんか! 即日嫁入りするわ!」
「展開早ぇな! 私が大人になるまで待っててねってなるだろフツー」
「うちの中ではあの時点で大人やったんや。一瞬たりとも待たんわ」
「オレの初恋並に一方的に突っ走ってんな!」
わいわいと意見をぶつけあいながら、二人は愉快そうに笑っている。
私が言葉をはさむ余地はない。
やっぱり、恋の話というのは盛り上がるものなんだなぁ。
「まーそんな感じで、うちはみこちんの初恋を楽しみにしとるんよ」
ゆきちゃんはしみじみと頷きながら、私の肩に手を回す。
そんな感じって、どんな感じなの!?
予期せぬ流れに、わずかに胸の奥が脈打った。
「私もなんだか、人並みに恋しなきゃいけない気がしてきたよ……」
失恋ですらこんなに笑いながら語り合えるんだもの。
誰かに思いを寄せている間は、さぞきらきらとして楽しい日々なのだろう。
「今、気になってるヤツとかいねぇの?」
お茶をすすりながら、先輩がニヤリとこちらに視線を向ける。
「気になるというと……うーん……」
誰かいるかな?
ここ最近出会った人たちの顔が次々と頭に浮かぶ。
好き嫌いの感情とは別に、気になるという意味なら陸援隊のみなさんの名が真っ先に挙がるかも。
「よう考えたらみこちんのまわり、男だらけやんか。大橋さんや中岡さんも一緒に住んでるんやろ?」
「そうだよ」
「まぁ、だからと言ってどうこうなるワケじゃねぇけどな」
「そうですね、別に全然好きとかじゃないですし」
彼らは恩人だ。
あるのは信頼と尊敬の念だけ。
そもそも陸援隊にとって私は、雨京さんからの預かりものでもある。
男として意識されては困るだろう。
「オイ、その言い方はねぇだろ。こっちはこんなにおめぇのこと可愛がってやってんのによ」
先輩はムッとして眉をよせる。
少しつっけんどんな口調になっちゃったかな。
「もちろん先輩としては、すごく頼りにしてますよ。でも好きになったりはしないので安心してくださいね」
「安心ってなんだよ……まぁな、おめぇはどっちかってぇとむっちゃんに懐いてるしな」
「……え!?」
何を言い出すかと思えば! どうしてそこで陸奥さんが出てくるの!?
「むっちゃんて、陸奥さん?」
ゆきちゃんの目がらんらんと輝く。
すぐさま興味津々といった様子で、こちらに膝を寄せてきた。
「そうだけど、でも……」
好きだとかそんなふうに思ったことはない。
物静かで頭がよくて、人の気持ちがわかる優しい人だとは思うけど。
なにしろ会って間もないのだ。彼のことをほとんど何も知らない。
「そういえばみこちん、神楽木家で密会した夜に、陸奥さんの手握って嬉しそうにしてたなぁ」
「それだよそれ。オレのことは、こえだめみてぇな目で見やがってよぉ」
「そっかぁ、陸奥さんは男前やもんなぁ」
なにやら納得顔で二人は頷いている。
そういえば、そんなこともあったな。
手を握ったのは再会が嬉しかったからで、他意はないんだけど――。
誤解をとくのも大変そうだ。ここはさらりと流しておこう。
「うん。陸奥さんのことは気になるし、もっと知りたいよ。中岡さんや大橋さんのこともね」
「オレが入ってねぇな!」
口を尖らせながら、先輩が吠える。
「先輩は、聞かなくてもいろいろ話してくれますから」
「気になんねぇってか!?」
「ええと、まぁ……」
こうして一緒に過ごしているうちに、彼の情報は嫌というほど入ってくることだろう。 陸奥さんや中岡さんのような謎多き雰囲気はまるでない。
そんなわけで、先輩は気になる人枠からは少し外れている。
……でも、そばにいてくれると一番安心するのは先輩かな。
本人には言わないけど。
それからすぐに、かすみさんが目を覚ました。
話を中断して、私とゆきちゃんは絵を持って彼女の部屋へと急ぐ。
田中先輩が何やら拗ねたようにぶつくさ言っていたけれど、謝るのは後にしよう。
部屋につくと、すぐさま絵箱を開けてゆきちゃん秘蔵の絵画の鑑賞が始まった。
直筆のものから、大阪で集めた錦絵や玩具絵、草双紙までその中身はさまざまだ。
ひとつひとつを手にとり、かすみさんは目を輝かせる。
「すごい……これも雪子さんが描いたの?」
「うん、それはうちの自信作!」
これは見覚えがある。私も以前見せてもらったものだ。
「二天様かしら? 力強い線ねぇ、とっても素敵」
「そうそう、二天様! ええやろ、自分でも男らしゅう描けたって満足してるんよ」
「なんだか見ていて元気づけられるわ。私、武者絵が特に好きだったの」
「うちも大好き! わぁ、なんやかすみさんとは話合いそうやぁ」
ゆきちゃんは始終嬉しそうにはしゃいだ声を出しながら、あれこれと絵について説明している。かすみさんの表情も穏やかだ。
……うん。やっぱり絵を見せて正解だった。
ゆきちゃんとも意気投合した様子だし、ほっとひと安心だ。
「美湖ちゃんは、どの絵が好き?」
盛り上がる二人を眺めながらぼうっと座っていたら、かすみさんから声をかけられた。 私はあわてて目線を絵に落として、会話に加わる。
布団の上には三枚の絵が並べられている。
馬上で刀を抜き、味方の軍勢に指揮を飛ばす武将の絵。
鋭い槍を振るって勇猛果敢に戦場を駆け抜ける若武者の絵。
列を成し、鉄砲をかまえて一斉に敵を撃つ足軽たちの絵。
「あ、銃だ」
思わず手にとってしまったのは、足軽の絵だ。
これは火縄だよね。
筒の先に棒を突き入れている描写があるから、先込め銃だな。
なるほど。何列かに並んで入れ替わり立ち代わり撃って、隙を作らないようにしているんだなぁ。
うーん、やっぱり長銃って格好いい!
「えー? それだけはないと思ってたわー。やっぱ若武者やろ」
「私はこの威厳ある武将さんが好きだな。美湖ちゃんは鉄砲が好き?」
くすりと優しく微笑みながら、かすみさんが首をかしげる。
そりゃ、もちろん。
「好き! 鉄砲って格好いいんだよ! キレイに構えてこう、まっすぐに的を撃ち抜くの!」
「……なんやみこちん、見てきたみたいに言うなぁ」
「え!? いや、あはは……なんとなくね、鉄砲ってすごいなぁって」
つい最近銃撃戦を間近で見てきた、とは口が裂けても言えない。
それでも、ここ数日で銃への興味が膨れ上がったことは事実だ。
特に田中先輩の持っていた長銃は、ぎらぎらと洗練されていて火縄の何倍も格好よかった。
それを構える先輩はとても様になっていて、力強く頼もしかったなぁ。
……あれ?
頭の中の先輩がやたらときらきら輝いて見える。
いやいや、美化しすぎだ。
格好よかったのはそう、あのきんぴかの銃だ。
うん、今度じっくり見せてもらおうっと。
絵の好みも人それぞれだねぇと、話は盛り上がった。
万人にうけるものも、誰からも嫌われるものもない。
魂を込めて描いた一作は、必ず誰かの心を掴むのだと、かすみさんは力説した。
だからこそ、唯一無二の肉筆画が好きなのだと。ゆきちゃんと私も、それに頷いた。
いずみ屋に飾られていた絵の数々が頭をよぎる。
……いっそこの流れで聞いてしまおうか、あの夜の顛末を。
私はごくりと息をのむ。
そうして口を開こうとしたその時、障子の向こうから声があがった。やえさんだ。
「失礼いたします、今しがた旦那様がご到着されました。お通ししてもよろしいでしょうか?」
雨京さん、来てくれたんだ!
そっか、また顔を見せるって昨夜約束してくれたんだった。
かすみさんの表情をうかがえば、彼女は少し照れ臭そうにしつつも小さく頷いてくれた。
もう昨日みたいに拒絶することはない。
雨京さんを迎え入れるべく私はそっと立ち上がって障子を開けた。
廊下には風呂敷包みを下げた雨京さんが、やや緊張気味に立っている。
「こんばんは、雨京さん。どうぞお入りください」
「ああ、失礼する」
どうぞどうぞ、と彼の背中を軽く押しながら部屋へと招き入れる。
数歩下がった場所で、やえさんが深々と頭を下げた。
雨京さんとかすみさんの様子を心配そうに見守る彼女は、まるで二人の母のようだ。
健気なやえさんに『大丈夫ですよ』と目配せをして、障子をしめる。
これからはもっともっと兄妹らしく仲良く過ごしてもらうんだ。何も心配なんていらない。
「かすみ、ぼた餅を作ってきたぞ」
雨京さんが風呂敷包みをといて重箱の蓋をあけると、中には丁寧に作られたぼた餅がぎっしりと並んでいた。
お、おいしそう………!
お腹いっぱいだったはずなのに、これなら二つ三つはぺろりといける気がする。
「わぁ、こんなにたくさん。兄さま、ありがとう」
「……ああ。少し遅くなってしまったからな、食べるのは明日にしても構わない」
「ううん、今食べたい」
かすみさんはお重に手を伸ばしてぼた餅をひとつ掴みあげると、躊躇なくそれを頬張った。
雨京さんはそんな彼女を少しだけ心配そうに見守る。
喉につめないかとはらはらしている様子だ。
「私、お茶を淹れてくるね!」
かすみさんとゆきちゃんに目くばせをして立ち上がる。
水気をとらずにぼた餅ばかりを飲み込むのは少しきついよね。
甘味とお茶は切っても切れない仲だもの。
「美湖、人数分頼む」
「わかりました! すぐに戻りますね」
雨京さんの注文を受けて元気に頷きながら、小走りで部屋を出ていく。
……なんだか今日は、かすみさんの機嫌がよさそうで嬉しいな。
まだまだ不安なことも多いだろうに、それをあまり表に出さなくなってきた。
彼女なりに、前を向こうとしているのだろう。
土間へと向かう途中、何やら居間で紙を広げるむた兄と田中先輩に出くわした。
彼らは私を見るなり、揃って声を上げる。
「美湖ちゃん、どないしよう」
「いいとこに来たな! ちょっくら意見聞かせろ」
難しい顔で唸る二人。
眉間にしわをよせ、考え疲れたようにうなだれている。
「……何ですか?」
「かすみさん宛の文なんやけど……」
畳の上に散らばる紙の束を手にとって、目を通す。
細かい字で長々と何やら書き綴られている。かなが多くて読みやすいな。
ええと。
まず時候の挨拶が五行ほどあって、その先は『初めまして』から成る自己紹介がつらつらと……。
ふむふむ。それで?
二枚、三枚とめくっても紹介が終わらない。長い。無駄に長い。
「むた兄! 何が伝えたいの!?」
四枚目の半分までむた兄の半生で埋まっているのを見て、私は思わず顔を上げた。
これはおかしい。
なぜか途中から講談風の語り口で盛り上げようとしだしているし。話の肝がまるで見えない。
「いや、得体の知れん男からの文やと怖がられるかもしれんから、僕が何者なんかじっくり語っておこうと」
「こいつは医者としてただ者じゃねぇぞって逸話とか盛り込んでみたりしてよぉ。どうだ? 続きが気になるか?」
「ちょっと待ってください、本にでもするつもりですか!?」
続きってなに!? 何日かに分けて話が展開されるの!?
「草双紙風に綴じたほうが親しみやすいやろか?」
「んじゃ、題は霧太郎一代記で決まりだな」
明らかにおかしな方向に向かっている……!
このままでは物語がひとつ完成してしまう。
「あのね、むた兄。自分のことは後回しにして、まずはかすみさんの体の具合で気になるところを質問してみたら?」
「……おお! せやな、確かに一番気になるんはそこんとこや!」
目からウロコ、といった具合にむた兄は大きく手を打った。
文を書くのをすすめたのは、そのあたりのやりとりを円滑にすすめるためだったんだけどな……。
彼はいろいろと勘違いをしていたようだ。
「私はまたすぐ部屋に戻るけど、書けたら見せてね」
「もちろんや! 一晩で書き上げるな!」
「まかしとけ、オレがついてる!」
むた兄の隣で田中先輩が自信ありげに胸を叩く。
なんだか心配だな。
先輩の助言でまたおかしな方向に進まないように祈っておこう。
そうして土間へ下りようとしたところで、やえさんと出くわした。
彼女は急須と湯飲みをお盆にのせて居間へと上がってくる。
「美湖様、お茶が入りました」
「わぁ! ありがとうございます、助かります!」
「お運びになられますか?」
「はい、あとは私が。やえさんはしばらくゆっくりしていてください」
お盆を受け取って微笑みかける。
彼女だって怪我人なのだ。こう働きづくでは、身も心も休まる暇がないだろう。
「……いえ、わたくしはまだ……」
なにかやり残したことがあるのか、やえさんはかぶりを振る。
そんな彼女に横から声をかけたのは、むた兄だった。
「休んでください、やえさん。家のことは僕らがやりますんで」
「そうだぜ、怪我人はおとなしく療養してねぇとな!」
田中先輩も同調する。
やえさんは、困ったように眉を下げて言葉に詰まっていた。
ふだんこんな言葉をかけられることがないからかな。
休めと言われても、特にすることが思い浮かばず手持ちぶさたな様子だ。
「それじゃ、やえさんも一緒にかすみさんとお話しましょう!」
「いえ! とんでもございません、わたくしなど……」
「待っててください、お湯のみ持ってきますから!」
完全に及び腰なやえさんを廊下へと押し出して、私は急いで追加の湯飲みを取りに走った。
そうしてすぐさま彼女のもとへ戻り、肩を並べてかすみさんの部屋へと続く廊下を歩き出す。
やえさんは緊張した面持ちだ。
「かすみさんも雨京さんも最近は特にやえさんに助けられていますから、きっと歓迎してくれますよ」
「助けになど……」
やえさんは言い淀む。
けれど、神楽木家のために日々尽くしてくれていることは事実だ。
ここに来てからは毎日かすみさんの傍で身の回りのお世話をしてくれているし、雨京さんにも細かに状況報告をしているようだ。
「少なくとも私は助けられました。そのおかげで怪我まで……やえさん、今はもう少しゆっくり休んでください」
「……そのようなこと、旦那様の前ではとても」
「大丈夫ですよ。私が話してみますから!」
やえさんの怪我は私のせいでもある。
無理をせずに安静にしていてほしいというのが正直な願いだ。
雨京さんだってきっと分かってくれるだろう。
やがて部屋の前に到着し、中の面々に一声かけたあと、私はそっと障子を引いた。
和やかに歓談していた三人の視線がいっせいにこちらに集まり、私は笑顔を返す。
隣に立つやえさんは緊張を通り越して真っ青になり、小刻みに震えながら障子の陰に身を寄せている。
大丈夫かな、そんなに怖がることないのに。
「雨京さんかすみさん、怪我をおしてやえさんが頑張ってくれていたので、一緒に休憩してもらおうと思うんですけど、いいですか?」
やえさんの肩をそっと叩いて鴨居の下まで誘えば、彼女は不安そうに眉を寄せて大きく頭を下げた。
「やえさん、お疲れさまでした。どうぞ入って。おいしいぼた餅もありますから」
「……ああ。入りなさい」
柔らかい微笑みを向けて歓迎するかすみさんを見て、雨京さんも静かに頷いてくれた。
よかった、反対されなくて。
安堵する私の隣で、やえさんは信じられないといった表情のまま固まっていた。
神楽木家にいた頃はこんな機会もほとんどなかっただろうから無理もないことなのかもしれないけど、ただ事ではない狼狽ぶりだ。
女中さんにとって主人というものは、それほど近寄りがたい存在なのだろうか。
ひとまず私は雨京さんの隣に座り、やえさんはやや後方に距離を置いて腰を下ろした。
話に入りにくそうな位置どりだけど、そこが落ち着くのであれば仕方ないか。
「美湖ちゃん、やえさん、ぼた餅どうぞ」
湯のみが全員に行き渡ったところで、かすみさんが上品な漆塗りの重箱をこちらに差し出してきた。
それを受け取ってぼた餅をひとつ手に取り、後ろに座るやえさんへと重箱を回す。
「……あの、いただいてもよろしいのでしょうか」
おずおずと重箱を受け取り、上目遣いで主人たちに視線を送るやえさん。
「ええ、もちろん。やえさんには毎日すごくお世話になっているもの」
そうだよね、かすみさん。
その隣でゆきちゃんも、おいしいから食べてみるようしきりに勧めている。
「では、ありがたくいただかせていただきます……」
「食べましょう食べましょう! 雨京さんの手作り、おいしそう!」
「……!!」
私が思い切りかぶりつこうと口をあけたところで、やえさんは重箱を雨京さんの膝元に突き返し、ひれ伏すように頭を下げた。
「や、やえさん……?」
「いただけません!旦那様がお作りになられたものを口にするなど、とても……」
彼女は何か重大な失態を犯してしまったかのような狼狽えぶりで、震えながら首を振っている。
とは言っても何事も起こってはいない。
ぼた餅が雨京さんお手製のものだと発覚しただけだ。
「……雨京さん、食べちゃだめなんですか?」
雇われる身分の人は主人の作ったものを口にしてはいけないものなんだろうか。
べつに、そんな決まりはないよね。
「問題ない。やえ、遠慮せずに食べなさい」
雨京さんは、青ざめるやえさんに対していくらか穏やかな調子で声をかけた。
そんなに固くなることはないと、緊張をほぐそうとするような声色だ。
「しかし、かぐら屋のお客様は旦那様のお料理に相応の対価をお払いの上、お口になさいます。このような形でいただいてしまっては、お客様方に申し訳が立ちません」
やえさんの言い分に、私とゆきちゃんは口をぽかんと開けて顔を見合わせた。
かすみさんは少し困ったように肩をすくめて雨京さんの表情をうかがう。
「これは私が、家族のためにとこしらえたものだ。日々神楽木家に尽くしてくれるお前も、当然食べる権利はある……食欲がないのであれば無理強いはしないが」
雨京さんが語ったのは、不安をまるごと拭い去ってくれるような、まっすぐで率直な心の内だった。
そこに含まれているのは感謝とねぎらいの気持ちのみだ。
「と、とんでもございません! あの、でもわたくし、本当に……」
「ああ、構わん。食べなさい」
「はい……」
目尻に涙を浮かべながら、やえさんはぼた餅を大事そうに手で包んで頬張った。
家のためによく尽くしてくれる女中さんだとは思っていたけれど、私の想像以上に神楽木家やかぐら屋のことを考えて動いているんだな。
私も一応、陸援隊の女中を志願していた身だ。
彼女の心構えを見習って、これからは少しでも隊に尽くすことを考えていかなきゃな。
石のように畏まっていたやえさんも、その後はだんだんと会話に参加してくれるようになり、一同は絵の話でおおいに盛り上がった。
「なんだかんだで武者絵が一番燃えるわ!」
「私は、華やかで楽しい双六絵なんかも好きよ」
「やはり水墨画の趣深さに心惹かれるな」
「……わたくしは、役者絵など」
好みはてんでバラバラだ。
けれど、それがまた面白い。
意外だったのはやえさんの好みだ。
「やえさん、好きな役者さんとかいるんですか?」
役者絵を集めるのはわりと流行りに敏感で、華やかなものが好きな人が多い印象だ。
千両役者とまではいかない役者さん方でも、追っかけはそれなりにいるようだし。
最新の役者事情についていくのもなかなかお金と労力がかかるみたいだ。
「いえ、その……」
「冬山雪之丞(とおやまゆきのじょう)という役者が好きなのではないか?」
言葉につまったやえさんに視線を向け、かすかに笑みをうかべる雨京さん。
その一言を耳にした瞬間、茹でだこのように彼女は真っ赤になった。
「だ、旦那様!? なぜそれを……」
「お前の部屋の壁に、冬山殿の絵が飾ってあったからな」
「ああ……そ、それは……はい、あの」
何かとてつもなく恥ずかしい秘密が晒されたかのように、やえさんは両手で顔を覆う。
普段の鋭く凜とした姿勢からはかけ離れた可愛らしいしぐさだ。
部屋に飾るほど好きなんだから、堂々としてていいのに。
「雪之丞さんは確か、とっても整ったお顔立ちの方よね。去年、評判になった心中物を観に行ったわ」
と、きらびやかな役者名に真っ先に反応したのはかすみさんだった。
「かすみさん、本当!? どうして私も誘ってくれなかったの!?」
たまにお店を閉めて出かけることはあったけれど、一人で歌舞伎やお芝居に出かけていたりしたんだ……!
誘ってくれたらよかったのに!
「ごめんね、最初に誘ったとき、じっと座っているのが苦手だから行かないって興味薄そうだったから、それ以降誘わなくなっちゃって」
「えー! そうだっけ? じゃあさ、怪我が治ったら皆でいこう! やえさんも一緒に!」
いまだに一人頬を押さえて悶絶しているやえさんに話を振る。
彼女は、はっとして目を見開いた。
「よ、よろしいのですか? ご一緒しても……」
「もちろんですよぉ! ね、雨京さん?」
「ああ、私も興味がある。役者に詳しいやえに解説を頼むとしよう」
「は、はい……少々取り乱すことがあるかもしれませんが、解説はおまかせください」
やえさんほどの人が取り乱すだなんて、雪之丞さんは一体どれほどの色男なんだろう。
なんだかまた一つ楽しみが増えた。
家族とのお出かけは、かすみさんの快気祝いにもなるだろうし。
今は怪我人の二人が、お日様の下を笑って歩ける日が一日もはやく来てくれるといいな――。
和やかな雰囲気で面談は終了し、やがて雨京さんは用心棒を引き連れてかぐら屋へと帰っていった。
昨日、今日と間近で顔をつき合わせて話をするにつれ、だんだんと元のように仲むつまじい兄妹のやりとりが垣間見えるようになってきた。
すべてに怯えて何もかもを拒絶するかすみさんの姿はもうない。
心の奥底に眠らせた暗い記憶が消えることはないからまだまだ油断はできないけれど、これから先、彼女の不安が少しでも和らいでいくように私たちが見守っていかなきゃいけないな――。
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