小説 | ナノ

 第46話:お薬のめたね!


 やえさんの隣で洗い物を手伝ったあと、私は庭へ出た。
 ゆきちゃんの洗濯を手伝うためだ。


 勝手口から外へ出て壁伝いにぐるりと回る。
 しばらく行ったところで、井戸端にしゃがみ込むゆきちゃんの背中を見つけた。
 せっせと手を動かしている彼女のうしろから声をかける。


「ゆきちゃん、私もやる!」

 大きな洗濯桶をはさんで向かいに腰をおろすと、彼女は思いのほか穏やかな声色で「うん」と相づちをうってくれた。
 ふと桶の中に目をやれば、何やらぶくぶくと所々に泡が立っている。

「わ、どうしたのこれ? 何で洗ってるの?」

 私はふだん洗濯には灰汁や米汁を使うことが多いけれど、こんなにも水面に泡が浮かぶことはない。

「石鹸や。大坂におった頃兄ちゃんの塾仲間から、しみ抜きにええって聞いてなぁ」

「へぇ〜、そうなんだ」

 と、そばにあった篭の中からうっすらと血のついた手拭いを拾いあげて桶に浸す。

 中の水は、ぬるま湯だった。
 ふわふわと浮かぶ泡をすくい取って汚れた部分を揉むように洗えば、みるみるうちに色が落ちて真っ白になった。


「すごいっ、本当にきれいに落ちる! いいね、これ。私も今度から使うよ!」

「ええやろ? これ、どっか異国の石鹸なんよ。謙吉さんが壺入りを譲ってくれたから、後でみこちんにも分けたるよー」

「へぇ、長岡さんが!」

「あ……」

 しまった、とゆきちゃんは言葉を詰まらせ目線を反らした。
 話題にあげたくないはずの名がよりによって自分の口から出たことに、本人も戸惑っているようだ。



「……ゆきちゃん、長岡さんのこと好きなの?」

 目線を洗濯ものに落としたまま、私はそっと核心に迫る。
 こうなったらもう、はっきりさせておこう。
 隠しごとはしないって約束したじゃないか。

「……みこちん、遠慮ないなぁ」

「友達だもん。知りたいよ」

「うーん……あのな、なんちゅうか……」

 ゆきちゃんは返答に困って長々と唸り声をあげている。
 この調子だと、しぶり続けて煙に巻かれてしまいかねない。
 だったら、もう一押しだ。

「好きだけど言い出せない、とか?」

「いやいやいや、ちゃうねん! あのな、好きやったんは昔の話。今はそんなんやないよ」

「へぇ! 昔のこととはいえ、好きだったのは本当なんだ!」

「うんまぁ……うちの初恋。見事に砕けたけどな」

 汚れの落ちた布巾を張ってしわをのばしながら、彼女は照れくさそうに笑みをうかべた。

 ――初恋、か。


「砕けたって、もしかして本人に気持ちを伝えたの?」

 だとしたら信じられない。
 はたから見ていて二人にぎくしゃくした様子はなく、自然に会話できていたはずだ。

「伝えまくってたわ。ほとんど毎日好き好き言うとったし、最終的に嫁さんにしてほしいと突撃までしてな……」

「積極的すぎるよゆきちゃん!」

「うちがまだ九歳とかそこらの頃な」

「あ、そんなに小さい時の話? だったらいいと思う。微笑ましいよ」

 もし私が一回りも歳の離れた子からそんな言葉をかけられたら、きっと嬉しいと思う。
 慕ってくれているんだなぁと和やかな気持ちになることはあっても、迷惑には思わないだろう。


「いや、うちはかなり本気やったんよ。本当に好きやったし謙吉さんの嫁さんになりたかってん」

「そっか……それで、長岡さんは?」

「ありがとーって笑ってたな。でも嫁はアカンかったみたいで、雪子ちゃんにはもっとぴったりの人がいるはずだよって……」

「うーん。まだ子供だったから、本気にしてもらえなかったのかな」

「そりゃそうもなるわなー。今考えたら困らせるだけやって思うもん。あー! 思いだしたら死にたくなってまうわ!」

 ゆきちゃんは顔をふせて、洗濯桶の水をばしゃばしゃとかき回す。
 恥ずかしい思い出と脳内で格闘中のご様子だ。
 勢いよくあたりに飛び散る水滴が私の足元を濡らしていく。


「あのさ、子供の頃はそうだったかもしれないけど、今なら少しは違うんじゃない? 長岡さんにもう一度好きだって言っちゃえば?」

「ううん。うちもう、完全に吹っ切ったんや。謙吉さんのことは尊敬してるけど、男として好きなわけやないよ」

「本当? もし長岡さんが突然奥さんを連れてきたりしても平気?」

「そらぁ……謙吉さんが選んだ人なら祝ってあげられると思うけど。あまりに釣り合わへん人やったら、さすがに丑の刻参りやな」

「こわいよ、ゆきちゃん」

 吹っ切ったとはいえ、好きだった人がどんな相手を選ぶのかはやっぱり気になってしまうものなんだな。
 長岡さんのお相手なんて私には全然想像がつかないから、その時は是非会ってみたいとは思うけど。



「まー、みこちんが謙吉さん好きになってもうちは応援するからな!」

「え? なんで私!?」

「最近みこちん、謙吉さんからえらい世話焼かれてるやんか。たまに会うと謙吉さん、美湖ちんの話すること多いで」

「そうなんだ……でも私たち、まだ会ったばっかりだからさ。好きだとかそんな気持ちにはならないよ」

「ほんまに? うちなんか謙吉さんの優しさに一日で惚れたのになー。みこちん強いなー」

 ゆきちゃん、恐るべき惚れっぽさだ。ほとんど一目惚れだったんだな。



「……私まだ、初恋もしたことないから」

 面白いようにしみが落ちていく洗い物を次から次へとこなしながら、私は小さく息をついた。

 十七年も生きてきて人を好きになったことが一度もないというのは、やっぱりおかしいだろうか。
 ゆきちゃんの初恋は九歳で、田中先輩なんか五歳だ。

 大人になるまでに、多くの人が誰かしら身近な相手に想いをよせて、些細な反応に一喜一憂しながら日々を過ごしていくものらしい。
 それはきっと、何年経っても忘れられない特別な思い出になるだろう。
 思いが通じようと通じまいと、そうして人に語ることのできる恋の話を持っているというのは少し羨ましいな。


「みこちんも、はよ初恋しぃ。ほんで一緒に砕け散った思い出を語り合おうや」

「砕け散りたくはないけど……私も、人を好きになる日がくるかな?」

「くるくる! そん時は絶対うちに一番に教えてな!」

「うん、ゆきちゃんも教えてね」

「うちはしばらくそういうんはええわー。みこちんのこと応援しとく」

 にっと目の前で笑ってみせるゆきちゃんの表情は、いつの間にやら険がとれて普段通りの明るさだ。
 いろいろと吐き出せてスッキリしたのかな。
 何はともあれ、よかったよかった。




 無事に洗濯を終えた私たちは、夜にかすみさんの部屋で絵の鑑賞をする約束をして互いに次の仕事についた。


 ゆきちゃんは、むた兄のお手伝い。
 私は、門前の掃除を頼まれて現在ほうきを振っている最中だ。


 掃いても掃いても落ち葉が降ってくる。
 一通り掃除を終えたあと、振り返ったらまたあちこちに散りたてほやほやの葉が! やるせない!
 一度気になり出したらもう、木の下に立って落ちてくる瞬間を鷲掴みにしたくなってくる。


「……よぉし、取ってやる」

 私はほうきを塀に立てかけて、軽く袖をまくる。
 気晴らしに二、三枚、地につく前に掴みとってみよう。
 枯れ葉は何も一斉にバサバサと降ってくるわけじゃない。ひらりひらりと一枚ずつだ。


 庭から突き出す木々の下に仁王立ちして待ち構えていると、やがて手前の木から一枚の葉が落ちた。
 大股で駆け出して手を伸ばすも、握りこんだ手のひらをすり抜けるようにそれはくるくると身をひねりながら不規則に落下していく。

「あれ!? 意外と、とれない……! えいっ!」

 さんざん空をきりながらも、地につく寸前でなんとかつかまえることができた。

 やったー!
 私の目が黒いうちはこの通りに着地することは許さないんだからね!
 勝ち誇って枯れ葉を握りしめながら、私は額に浮かんだ汗をぬぐった。




「やったじゃん。よく粘ったねー」

 ぱちぱちと手を叩く音とともに、背後から何やら愉快そうにはずんだ声が聞こえてくる。

 うわ、恥ずかしい。人に見られてた……!
 恐る恐る振り返って愛想笑いを浮かべる。


 螢静堂の門前に背を預けて立っているのは、着流しに羽織をまとった細身のお兄さんだ。
 くせのある長い髪を無造作にうしろでくくっている。
 だらりとした風体に似合わず、腰に差してある刀は立派なものだ。

 通りすがりの人かな?
 私が道の真ん中で右往左往していたから、通り抜けできなかったんだろう。


「ごめんなさい! 邪魔でしたよね!」

「いや、謝らなくてもいいよ。で、葉っぱ掴まえてどうすんの?」

「いえその……掃除してもしても落ちてくるものですから、いっそ掴もうと思って」

「あはは、面白いなぁきみ」

 着流しのお兄さんは、表情をくずして愉快そうに笑い声をあげる。
 そんなに面白いかなぁ。
 確かにさっきの動きは、はたから見てると間抜けだったと思うけど……。

「でも、落ち葉を掴むのって意外と難しいんですねぇ」

「ああ、なんかきりきり舞いしてたね」

「ご、ごめんなさい! さぁ、どうぞお通りください。道をふさいでしまって申し訳ございませんでした!」

 これ以上話すのもなんだか気まずい。早いところ通りすぎてもらおう。
 私は頭を下げて道の端に体を寄せる。

「いや、ここの診療所に用があるんだ。じゃー掃除頑張ってね」

 口角を上げてひらひらと手を振りながら、彼は螢静堂の門をくぐった。
 ……なんだ、患者さんだったんだ。

 私は肩を落としてふたたびほうきを手にとると、簡単に落ち葉を集めて掃除を完了した。
 新しく舞い落ちる葉を気にしていたらキリがないから、夕方あたりにまた掃きにこよう。


 続いてざっと庭の掃除も済ませた私は、ほうきと屑篭を塀の端に立てかけて診療所の入り口に回った。
 何かお手伝いできることはないかな。




「なんであんたはいっつもそうなんや!」

 一面真っ白で澄んだ空気の診療所内には、ゆきちゃんの怒鳴り声が響いていた。


 ……一体どうしたんだろう。

 とっくに怒りはおさまったと思ったんだけどな。
 もしかしてまた、むた兄と喧嘩でもしてたりして。

 恐る恐る中を覗き込むと、先ほどの患者さんが着物を整えている隣でゆきちゃんがガミガミと小言をぶつけているところだった。

 怒られているのはむた兄じゃなくて、あの人なんだ……。
 踏み込んでしまってもいいものかと躊躇していると、こちらの存在に気づいたむた兄が微笑みながら手招きをしてくれた。


「美湖ちゃん、掃除終わったんか? ほんま助かるわー。部屋に上がって休んでてええで」

「うん……」

 そろりそろりとむた兄の前まで行くと、ご褒美にかわいらしい飴玉をくれた。
 なんでも小さな子が来たときに渡しているものらしい。


「……あの、ゆきちゃんどうして怒ってるの? このお兄さんも怪我や病気でここに来てるんだよね? あんまりきつく言ったらかわいそうだよ」

 ご立腹な様子のゆきちゃんに視線を向ける。
 しかし彼女は頭を左右に振りながら大きくため息をついた。

「しゃあないやん。言うこと全然聞かんからや」

「どういうこと……?」

「渡した薬飲まへんのよ、この人!」

 そんな指摘に、むた兄も困ったような顔をしながらぎこちなく笑っている。

 肝心の患者さんの反応はどうだろうか。
 彼は気だるげに小さく息を吐きながら、深刻な顔つきでむた兄を見据えた。
 続く発言に注目が集まり、一瞬場が静まる。



「……薬がまずすぎて飲めません」

 ゆきちゃんがずっこけた。
 私も思わず苦笑いだ。
 けれど、むた兄だけはそんな訴えを真剣に受け止めながら、うんうんと頷いていた。

「薬っちゅうのは、どれもまずいもんなんですわ。茶か、少しの酒でさらっと流しこんでみたりはできませんか?」

「いやー、液体になると更におぞましくなっちゃって。あの臭いと苦みがどうにも駄目なんです」

「なるほど……」

 茶化してはいけない。きっと本人にとっては死活問題なのだ。
 それは難儀ですねぇ、と少しばかり眉間にしわをよせながらも、むた兄はなんとか打開策を練ろうとしている。


「藤原さんは、洋薬より漢方がええと仰ってましたねぇ」

「いやー…もうこの際、飲みやすければ何でもいいような気がしてきました」

 患者さん、藤原さんって言うんだ。
 彼はしばらく考えこんで、意を決したように両手で膝を叩いた。

 なんとなく洋薬というと得体の知れない感じがして怖いなぁ。
 藤原さんが漢方を所望したのも気持ちとしては理解できる。
 ……なんて、蘭方医のむた兄の前では口にできないけれど。


「一番辛いのは、熱ですか? 咳ですか?」

「咳はたまにひどいんですが、やっぱり熱が嫌ですね。夕方ごろから気分が悪くて、ろくに動けなくなります」

「……なるほど、わかりました」

 むた兄が席を立って、何やら瓶が立ち並ぶ棚の中をあさりはじめた。
 そしてそこからひとつ小瓶を取りだすと、中身をぱらぱらと印籠のような小箱へ移す。
 それを持ってふたたび席に戻ってきた。


「解熱の薬です。洋薬ですが、見てのとおり丸薬なのでのみやすいと思いますよ」

 光沢のある小箱の蓋をあけて、むた兄はその中身をじゃらりと鳴らしてみせた。
 箱の中に散らばるのは、小指の先に乗るほどの大きさの丸薬だ。

「これならいけるかもしれません!」

 藤原さんは立ち上がって、大喜びでそれを受けとった。
 先ほどまでの萎れた様子はすっかり吹き飛んでしまっている。



「よかったなぁ、ほんなら今ここで飲み!」

「えっ……」

 嬉しそうに手をうちながら、ゆきちゃんは彼に水の入った湯飲みを差し出した。
 藤原さんの笑顔は瞬時に剥がれ落ちる。

「な、いけるやろ? 兄ちゃん、今のんでもええんよね?」

「うーん。藤原さん、朝餉は?」

「あー、食べました! 食べたばっかりですよ! たしか食前に飲むんですよね。しまったなー残念だー夕方までは飲めないなー」

 すさまじい棒読みっぷりだ。
 薬の小箱を握りしめた状態で、彼は後ずさりをはじめている。

 何が何でも後回しにしたいんだろうな。
 気持ちは分かるけど、ゆきちゃんは押しが強いからうまく逃れられるかどうか……。


「この薬は食後にのむものなんで、大丈夫ですよ」

「いや、ちょっと……今は腹がいっぱいで……」

 藤原さんの顔色がみるみる青ざめていく。今にも倒れそうな重病人の様相だ。
 ここまでくるともう、薬を飲んだらかえって具合が悪くなりそうに見えるけど、大丈夫かな……。


「薬くらい入るやろ? さ、口あけぇ。あーんしてみ」

「……」

 ゆきちゃんの口調は先ほどまでとは違い、幼子に語りかけるような優しいものだ。
 診療所には薬を飲みたがらない子供もたくさん来るだろうから、自然と対応が身に付くのかな。
 ……藤原さんは立派な青年だけど。


「ほらぁ、口あけぇって。薬が入ったらすぐ水でごっくんするんよ?」

「……」

「女からあーんで飲ませてもらうなんて贅沢なことやで? ほら、今日だけや」

「こんな形で俺の初めてのあーんを捧げたくは……」

「ええから、はよせえ言うてるやろ!! みこちん、押さえといて!」



 そこから先は、あっという間だった。

 ゆきちゃんが藤原さんの口を強引にこじ開ける。
 薬が舌に乗せられる。
 藤原さんが目を白黒させながら水を流し込み、ごくりと喉をならす。

 ――と、そんな流れでめでたく終了。拍手喝采だ。

 どさくさに紛れて私も彼の肩を羽交い締めにしてしまったけど、終わり良ければすべてよしということで水に流してもらおう。


「飲めたやん! えらいっ! ほらぁ、やればできる子なんよー!」

 ゆきちゃんは対お子さま用の笑顔で藤原さんの頭をぐりぐりと撫でまわしている。
 もう完全に幼子と同等の扱いなんだなぁ。
 当の藤原さんはというと、うっすらと目に涙を浮かべながら、うなだれきっていた。


「藤原さん、今のも苦かったですか?」

 目の前の腰掛けに前のめりで座る彼の肩に手を置きながら、むた兄が尋ねる。

「いや……すぐ飲み込んだのでよく分かりませんでした……」

「そうですか、でしたら今後も問題なく飲めそうですねぇ。夕餉のあともお忘れなく」

「はい、ありがとうございました……」

 かろうじて成立する受け答え。
 藤原さんの燃え尽きっぷりといったら尋常じゃない。
 本当に薬が苦手なんだなぁ。
 少しかわいそうだけど、こればっかりは誰も代わってあげることはできないもんね。




「ほんなら、また何かあったら来てなぁ」

「俺、人類の中でおまえが一番怖いよ……」

 にこやかに手を振るゆきちゃんにそう言い残し、藤原さんは診療所をあとにした。
 うーん、患者さん一人一人にいろんな事情があるんだなぁ。


「私ちょっと、門の先まで送ってくるね」

 疲れた様子で立ち去った彼のことが少し心配だ。
 私は、むた兄とゆきちゃんにそう伝えて駆け足で門のほうへと向かった。




「藤原さぁん! どうですか、気分は?」

 門を出てすぐの塀沿いに彼は立っていた。足を止めて空を見上げている。

「ああ、うん……一通り騒いでスッキリしたよ」

「そうですかぁ、よかったです」

「みこちん、だっけ? 羽交い締めにしてくれてありがとうね」

「うっ……それは、ごめんなさい」

 やたらと清々しい表情で笑みを浮かべる彼から、思わず顔を背ける。
 意外と根に持つ人なのかな。


「いや、おかげで薬も飲めたしさ。感謝してる」

「お薬、今まではどうしていたんですか?」

 ふと気になって尋ねる。
 いくら苦手だと言っても、処方されたものを握りつぶして見ないようにするわけにはいかないだろう。

「無理やり飲み込もうとして吐いたり、茶漬けに混ぜて吐いたり、団子に振りかけて吐いたりしてたよ」

「ぜんぶ吐いてたんですか!?」

「毎日吐いてたね。ほんとは丸薬も苦手でさぁ、口の中に入れたまま飲み込むことも吐き出すこともできずに陽がくれたりするんだよ」

「でも、さっきはきちんと飲み込めましたね」

「不思議だねぇ、なんでかな。勢いかな?」

 首を傾げながら、藤原さんはくすりと笑う。満足そうな表情だ。

「勢いって大事ですよ。夕餉のあとも同じように乗りきってくださいね!」

「うん、頑張ってみる」

 よかった。項垂れて門をくぐる彼の背中を見た時は、無事に家までたどり着けるのか不安なくらいだったけれど、どうやらそれは杞憂だったみたいだ。



「ところでみこちん、このへんに住んでる子? どうしてわざわざ診療所の掃除を?」

「私の姉がここでお世話になっているんです。それで、私も泊まりこんで身の回りの世話を」

「お姉さん、具合悪いの?」

「少しひどい怪我をしていて……治るのに時間がかかるそうなんです」

「……そっか」

 わずかに沈黙の時が流れる。
 他人の体のことは繊細で難しい話題だ。返事にも困るだろう。


「必ず元気になってもらいます! 藤原さんも、お薬のんではやく体をなおしてくださいね」

「うん、そうしなきゃ。いつまでも寝てはいられないもんな」


 言葉が切れるよりも早く、彼の右手が空を掴むような動きをした。


 一回、二回。


 そうしてゆっくりとひらいた手のひらには、くしゃりと歪んだ落ち葉が二枚乗っていた。
 掴み取りだ。
 そのあざやかな手際に思わず感嘆の息が漏れる。


「わーーっ! すごいっ! 藤原さん上手!!」

「そう?」

「すごいですよ、全然無駄な動きがなくて。ご病気とはとても思えません!」

「……なんか嬉しいな、久しぶりにそんなに誉められたよ」

「そりゃ誉めますよぉ! そうだ、ぜひおうちでご家族にも見せてあげてください。そんなふうに動けるんだって安心すると思いますよ」

 ふだんから布団の中で過ごしているのだとしたら、きっと家の人も体の衰えを心配していることだろう。

 藤原さんは私なんかよりずっとしっかりとした動きで立ち回ることができるんだ。
 たまには背筋をのばして体を動かしているところを見せてあげるのもいいと思う。

「これくらいは誰でもできるって」

「そんなことないですよ。藤原さんのご家族は今、お側に?」

「家族とは離れて暮らしてる。まぁ、兄ちゃんみたいな存在は二人側にいてくれるけどね」

 ……みたいな存在?
 私とかすみさんみたいな関係かな。


「だったら心強いですね。お薬をのむ時も、お兄さんたちに手伝ってもらってください」

「手伝うっていっても……」

「二人いたら、羽交い締めにする役とお薬を口に入れる役ができます!」

「うわ、嫌だよ。絶対嫌だ」

 あらら。元気づけようと思ったら、逆にげんなりさせてしまった。
 きっと絵づらを想像してしまったのだろう。
 ……たしかによく考えたら、男の人に羽交い締めにされるのはちょっと怖いな。

「それじゃ、飲めなくなったらまたここに来るといいですよ。ゆきちゃんが飲ませてくれます」

「……うん、明日も来ようかな」

「はいっ、またお会いしましょう。お大事に!」

 互いに軽く手を振って、別れを告げる。

 カラカラと下駄をならしながら帰路につく彼の足取りは、そう重いものではない。
 薬を飲めないということが、本人にとっては最大の気がかりだったのだろう。
 少しばかり荒療治だったけれど、気持ちが晴れたのであれば何よりだ。




「ふぅ……」

 目を向けた細道には、容赦なく落ち葉が散っている。
 このぶんだと夕方の掃除も大変そうだ。
 新たに頭上に降ってきた一枚を掴むべく手のひらを突き出すも、それはむなしく空をきった。


 それにしても――。

 患者さん一人一人に悩みがあって、それは身内だからといって解決してあげられる問題じゃないんだな。勉強になった。
 かすみさんが今一番治さなければならないのは、きっと体の傷よりも心の傷のほうだ。

 男の人が怖いという感情。
 植え付けられた恐怖を和らげる方法を、探す必要がある。
 このままじゃ、足の傷だって適切な治療が受けられないはずだ。
 せめて、むた兄とだけでも話をできるようになってくれたら……。

 あとで、そのあたりのことをむた兄やゆきちゃんに相談してみよう。



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