小説 | ナノ

 第48話:形見


 寝支度を済ませた私は、応接間に部屋を借りた田中先輩のもとを訪ねた。
 寝る前に一言挨拶しておこうと思ったのだ。


 障子を開ければ、先輩は何やら文机に向かって筆を動かしている最中だった。
 私が声をかけると、彼はこちらを振り返って部屋に入るよう促した。

「先輩、もしかしてお取り込み中ですか?」

 何か大事な文でもしたためているのかな?
 首をかしげながら彼の背後にそっと足を向けると、先輩は一息ついて硯の上に筆を置きこちらを振り返った。

「べつに忙しかねぇぜ。ただ、こういうの書きはじめると止まらなくなるタチでよ」

「こういうのって、誰かにお便りですか?」

 机の上には幾重にも重なった紙の束が乗っている。ずいぶんな量だ。

「いや、霧太郎さんが没にしたぶんの文を引き取って続きを書いてた」

「ああ、あのやたらと長いむた兄の半生ですか」

「おうよ。せっかくだしもっと面白くしてやろうと思ってよぉ、いろいろ書き加えたから完成したら読んでくれや」

「それは楽しみです!」

 面白くしようと加筆したのであれば、それはもう事実とはかけ離れた内容になっているに違いない。
 先輩のことだからきっと、ぶっ飛んだ内容に仕上がることだろう。



「……んで、かすみさんの様子はどうだった?」

 静まり返った部屋の隅で、廊下まで響かないようにと低くしぼった声で先輩は問う。

「穏やかで、機嫌もよさそうでした。ゆきちゃんややえさんとも仲良くお話するようになったので、私がここを離れてもひとまずは安心です」

「そっか、そりゃあ良かったな。おめぇはいつ頃屯所に戻る予定だ?」

「うーん、かすみさんのことは気になりますけど、こうして毎晩先輩たちに泊まりにきてもらうのは悪いですよね……」

「んにゃ、別に苦ではねぇぜ。こっちに気ィ遣う必要はねぇよ」

 先輩の表情はさっぱりとして、いたって明るいものだ。
 私がどんな選択をしようともすんなりと受け入れてくれるだろう。



 でも、あらためて考えると迷ってしまうな。
 いつまでここに留まるべきか。


 かすみさんの傍で彼女を見守っていたいという気持ちは強い。
 けれど、神楽木家を出るときにある程度の覚悟も決めた。

 それは、一人で生きていくという決別の誓いであり、矢生たちとの因縁を自分の手で断ち切るのだという強固な意思だ。
 このままかすみさんの傍にいたら、離れられなくなってしまうんじゃないか、一緒に神楽木家に帰りたくなってしまうんじゃないかと少し不安にもなる。



「……明日か、明後日には屯所に帰ります」

「いいのかよ? そんなに早く」

「はい。それまでにいろいろとかすみさんに話をしておきます」

「分かった。んじゃ、そろそろ部屋に戻れ。おやすみ」

「はい。先輩、おやすみなさい」

 一人部屋で待つかすみさんに気を遣ってくれているのか、先輩は早々に話をまとめて私を廊下へと送り出してくれた。
 別れ際にポンと優しく背中を叩いてもらったことで、張りつめていた気持ちがいくらかゆるんで肩の力が抜けるのを感じる。


 ありがとうございます、先輩。
 おかげでかすみさんに話を切り出す決心がつきました。





 部屋に戻った私は、体を起こして絵を眺めているかすみさんに一声かけて、掛け布団の上に正座した。

 私の現状をきちんと話そう。
 そして、いずみ屋の事件の顛末について話を聞かせてほしい。


「かすみさん、ちょっと話したいことがあるんだけど、いいかな?」

「……うん。私からも話があるからちょうどよかった」

 かすみさんは持っていた紙束を絵箱に収納し、こちらに向き直った。
 向こうからも話があるとは予想外だな。


「あ、それだったらかすみさんからどうぞ」

「そう? 美湖ちゃんの生活についてのことなんだけど、聞いてもいいかしら?」

「せ、生活っていうと……?」

「やえさんから聞いたんだけど、美湖ちゃんは今よそのお宅でお世話になっているんですってね。それが心配で」


 ……知ってたんだ、かすみさん。

 やえさんは雨京さんから話を聞いているはずだけど、まさか私が切り出すよりも先に話が通っているとは思いもしなかった。



「私が話そうと思ってたのも、そのことなの。あのね、かすみさん……いま私を預かってくれてるのは、とってもいい人たちで……」


「――浪士の集まりだと聞いたけれど、大丈夫なのかしら」


 鋭い槍で下から突き上げられるような悪寒が、瞬時に体の芯を貫いた。
 唇が震え、こめかみから冷や汗が流れ落ちる。

 かすみさんの表情にいつもの柔らかさはない。
 いたって真剣な様相でかすかに眉を寄せている。
 いったい、どこまで知っているんだろう……。


「浪士だけど、味方だよ。私たちと同じく、深門たちに大切なものを奪われた人たちで、いずみ屋が焼けた夜からずっと力になってくれたの。かすみさんを助けに行ったときも、命懸けで戦ってくれた。私は、あの人たちがいなかったら今こうして立っていられなかった!」

「……そう、なの……? それじゃ、私の恩人でもあるのかしら……」

 深門の名を出したことでかすみさんの表情が曇ってしまったのは、誤算だった。
 私はひやりと肝をつぶしながらも、問いかけに対して頷いてみせる。


「そうなるね。特に橋本さんは、かすみさんのことずっと心配してくれてたんだよ」

「橋本さんって、あの橋本さん?」

 かすみさんは、わずかに目を見開いてこちらに身を乗り出した。
 思わぬ名が飛び出して心底驚いている様子だ。

「そうだよ。拾った写真に写ってた、いずみ屋のお得意様の橋本さん」

「美湖ちゃん……橋本さんのところでお世話になっているの?」

「うん。というより、あの写真に写ってた三人が住んでるお屋敷。もちろん悪い集まりじゃないよ! 藩からお仕事をもらってるちゃんとした人たちでね……!」

「……美湖ちゃんは、あんなにも手酷く浪士に裏切られたのに、なおも別の浪士を信頼しているの?」


 鋭い問いかけだった。

 他の誰に言われようともはねつける自信があるその言葉は、さすがにかすみさんが口にすると受け止めきれないほどの重みでこちらにのしかかってくる。
 けれど、私の決意も固い。


「浪士とかなんとか、肩書きはどうだっていいよ。私はその人の内面を見て決める。人助けのために火の海に飛び込んでくれた人を、白刃と銃弾の中恐れずに立ち向かってくれた恩人を、表向きの肩書きだけで非難したりはできない。彼らは誠意を行動で示してくれたから。誰が何と言おうと私は信じるし、ついていきたい! 味方でいたいの!」

 ぽろぽろとこぼれ落ちる涙が、とめどなく頬をつたう。
 心の奥底にあるまっすぐな気持ちを吐き出すとき、どうしてこうも胸がしめつけられてしまうんだろう。

 大切な人たちが誤解されたままでいるのは嫌だ。

 かすみさんのためにと皆が命懸けで駆け抜けてくれたあの晩のことが、走馬灯のように脳裏に写し出される。
 他でもないかすみさんにだけは、彼らを否定してほしくない。
 たとえこのまま喧嘩になってしまったとしても、そこだけは譲れない。



「……ごめんなさい、美湖ちゃん。橋本さんたちが悪い人じゃないのは、私もわかっているの。兄さまともきちんと話をしたのよね。やえさんは、兄さまが問題ないと言っているから心配はいらないって言っていたわ」

「……でもかすみさんは、やっぱり嫌だって思ってる?」

「ううん、ごめんね。ちょっとだけ、美湖ちゃんの気持ちを試してしまった。本当は慣れない環境で不安なんじゃないかなって……」

「不安はないよ、大丈夫。私今まで周りの優しさに甘えてばかりだったから。これからは新しい場所で頑張ってみたいと思ってる。もっともっと強く生きられるように」


 涙をぬぐいながら、できる限りはっきりとした口調で正直な気持ちを伝える。

 この様子だと、矢生一派が神楽木家を襲撃したことまでは耳に入ってはいないようだ。 やえさんの怪我については、どうにか別の理由でもつけてごまかしたんだろう。
 そういうことなら、ひと安心だ。

 私が神楽木家を離れたのは、危険を遠ざけるためではなく単に独り立ちしたいと決意を固めたからということにしておこう。



 ふぅと一息ついて、高鳴る胸の鼓動を沈めるべく肩の力を抜く。
 油も残り少なくなった行灯の灯が、ゆらゆらと心もとなく枕元を照らしていた。




「……だったら美湖ちゃん、いつまでもここにいるわけにはいかないね」

 言いたいことは他にもあるだろうに、かすみさんはこれ以上現状に口をはさむようなことはしなかった。
 私の決意を汲んでくれたのだろう。


「かすみさんのそばにいたいって気持ちも強いんだけどね、そろそろ彼らのところに帰ろうと思う」

「そう……うん、それがいいよ。私も、このままだと美湖ちゃんに甘えちゃいそうだから」

「でも、毎日お見舞いに通うよ! 傷が癒えてからも会いにいく! かすみさんが私のお姉ちゃんなのは変わらないから!」

「うん……そうだね。変わらない。美湖ちゃんはこれからも、私の大切な妹」

 互いに涙ぐみながら、そっと手を握り合った。

 そうだ、家族はどこにいても、離れていたって家族なんだ。
 いつだって会いに来れる。
 私もこれからは、雨京さんのようにマメに診療所まで足を運ぼう。




「……それとね、あとひとつ伝えておきたいことがあって」

 涙をぬぐって一呼吸おいたあと、かすみさんが新たに話を切り出した。

 一体なんだろう?
 彼女は少しかしこまったように背筋をただしている。


「なに? なんでも言って」

「いずみ屋が焼けた夜のことなんだけどね」

 どきりと、胸の奥が跳ねた。
 尋ねてみてもいいものかと、今まさに頭を悩ませていた事柄だ。
 まさかかすみさんのほうから切り出してくるなんて。


「あ、うん! 私も気になってたんだよ。あの時、絵を回収してる最中だったでしょ? あれってどうなったのかなって……」

「あの場にあったものは、掛軸と錦絵が数枚持ち去られたわ。絵をめぐって揉み合っているうちに行灯が倒れて、火がついてしまってね……」

「そうだったんだ……」

 やっぱり、目の前にお金になりそうな肉筆画が積まれているのを見過ごすような真似はしないか……。


「問題はそのあと。火が回りきる前に一人が二階に上がって、私の部屋の荷物を回収したの。前日に荷造りをしておいたでしょう? あの時に手持ちの絵を箱に詰めておいたんだけど、それをね」

「それって、かすみさんが特に大切にしてた絵だよね……」

「そうなの。そしてそれは私だけの損失じゃない。美湖ちゃんにも謝らなければいけないこと」


 沈痛な面持ちで、かすみさんは大きく頭を下げた。
 店が焼けたことと同等に、取り返しのつかないことをしてしまったという表情だ。

 一体どういうことだろう。



「どうして私に謝るの? お父さんの絵を失ったことなら気にしないで!」

 そういえば未完の絵を何枚か預けていたっけ。
 もしかしてそのことが気がかりなのだろうか。


「ううん、謝らないわけにはいかない。天野先生の絵の中でも、何より大切なものが奪われてしまったんだから。それは、先生が美湖ちゃんのために残した一枚だったの」

「え……何それ? そんな絵、私知らないよ」

「先生が亡くなる数日前に、私が預かっていたものでね。今からその絵について話すから聞いてくれる?」

「う、うん……」


 ごくりと息をのんで、居ずまいを正す。

 父が病に臥せてからもせっせと絵筆を握っていたことは、よく覚えている。
 死期を悟ってかすみさんに託したものであるとすれば、その絵は父の絶筆になるのだろうか……。



 かすみさんの言によると、こうだ。
 まず、父は亡くなる一年近く前から持病の悪化に気付いていた。
 そうしてもう己の命は長くないと悟ったそうだ。


 それからすぐに、三枚の絵の製作に取り掛かった。

 日々お世話になったいずみ屋のかすみさんに贈るための一枚。
 たびたびこちらを気にかけて、様々な援助を惜しまなかったかぐら屋の雨京さんに贈るための一枚。
 そして、一人娘の私に形見として遺すための一枚。


 雨京さんに贈ったものは、神楽木家の蔵に今も大切に保管されているそうだ。
 かすみさんに贈ったものと私に遺したものは、いずみ屋で保管していて、今回深門たちに奪い去られてしまったとの話だった。



「そんな絵をのこしてくれていたなんて……」

「天野先生は、美湖ちゃんのことを本当に可愛がっていたからね。その絵は、美湖ちゃんが嫁入りする時に持たせてあげてほしいって託されていたの」

「そんな……」

「先生は、美湖を嫁にやりたくないなぁっていつも冗談を言って笑ってらしたわよね。最期まで心配だったみたいで、見届けることが叶わないならせめて絵を持っていてほしいって。ずっと見守っているよって気持ちを込めて描いた絵だからっておっしゃってね……」


 ――そこまで聞いて、涙が止まらなくなった。

 父は確かに、私がお嫁に行くことを寂しがって縁談のたぐいはまだまだ先でいいと突っぱねていたし、変に縁談を組むよりは、美湖自身がどうしても添い遂げたいと思うような男を探しあてて連れてきなさいというのが口癖だった。
 連れてきた男はまず二、三発殴らせろとも言っていたっけ。


 そんな頑なな姿勢が崩れたのは、亡くなる直前だった。
 父は最後に「お前のことをよく見てくれる、強くて優しい男に嫁ぎなさい」と言い残した。
 そして「これからもずっと見ているから」と。
 弱々しく私の手を握って、息を引き取った。


 もしかしたら父はその絵に自分の魂を注ぎこんで、かすかに安堵しながら最期を迎えたのかもしれない。

 刀にしろ、絵にしろ、人形にしろ、職人がその執念を燃やしながら丹精込めて完成させた作品には、たしかに命が宿ると聞く。
 まだ見ぬその形見の一枚には、父が託した私への想いが焼き付けられていることだろう。


 ――だとしたらその絵は他の誰でもない、私が持つべきものだ。




「かすみさん、話してくれてありがとう。私、絶対にその絵を取り返すよ」

「取り返すっていっても……そうねぇ、彼らは金銭目的だろうから、ひょっとしたらもうどこかに売りに出されているかもしれないね」

「そっか、じゃあ探すよ! 全力で、どこまでも探す! かすみさんの絵も必ず取り返すから、待ってて!!」

「美湖ちゃん……」


 無謀なことだと、かすみさんは思っているだろう。
 それでもいい。
 父の絵がまだ焼けずにどこかに残っていてくれるなら、必ず探しあててみせる。


「私、なにも悲観してないよ。焼けてない絵がまだ残っているって聞けただけでも嬉しいんだ! ね、かすみさん、前を向こう。失ったものにすがって肩を落としてばかりじゃ辛いよ」

「美湖ちゃん……なんだか強くなったね」

「そ、そうかな? あはは、強い人たちと一緒に暮らしているからかなぁ?」

「――そっか、うん。なんだかこっちまで前向きな気持ちになってきちゃった」

「私は私でがんばるから、かすみさんも無理せずゆっくり怪我をなおしていこうね」

「……うん」



 心の中のもやが晴れた。
 これから何をすべきか、どう動くべきか自分の中で一つの目標ができたことで、驚くほど気力が充実してくるのを感じる。

 まずは、絵を取り返そう。
 未だに尾を引くあの夜の傷痕をふさぐために。
 もう一度、心からかすみさんに笑ってもらうために――。




 話を終えて、互いにすっきりとした表情で床についた。
 布団を並べて眠れるのは今夜までだと思うと少し寂しくもあるけれど、しっかりと握りあった手のひらのぬくもりが、いくらかそんな気持ちを和らげてくれる。


 そしていつしか穏やかに眠りについた彼女の寝息に誘われて、うつらうつらと私も夢の中へと落ちていくのだった。





 翌朝。
 居間で朝餉を済ませたあと、むた兄から丁寧に折られた文を託された。


「美湖ちゃん。これ、読んでみて問題なかったらかすみさんに渡してくれるか?」

「……うん! むた兄、わざわざありがとう!」

 さっそく広げて目を通してみたけれど、内容はいたって簡素なものだった。
 軽い挨拶と、かすみさんの体調を気遣う言葉が最低限まとめられているのみ。

 どう書こうかと悩みぬいて寝不足なのだろう、むた兄は先ほどから何度も大きなあくびをしている。


「これだったらきっと大丈夫! これからかすみさんに見せてくるね!」

「よ、よかったー! たのむで、美湖ちゃん!」

「うん! あ、それとね。私、今日は田中先輩たちのところに帰ろうと思って」

 やえさんとゆきちゃんがお膳を持って慌ただしく行き来している中で、あえて全員の耳に届くよう声を張った。
 一同はぴたりと動きを止めてこちらに目を向ける。


「かすみさんに、ちゃんと話はつけたのかよ?」

 中央であぐらをかいて昨夜の余りのぼた餅を頬張っていた田中先輩が、お茶で喉を潤しながら首をかしげてみせた。

「はい! 昨夜いろいろお話して、かすみさんも納得してくれました」

「……そっか、そんなら良かったぜ。支度ができたら声かけろよな」

「はいっ!」

 私の表情を見て納得したように頷くと、先輩は遠慮なく二つめのぼた餅にかじりついた。
 ゆきちゃんとむた兄は突然の申し出に引き止めるような言葉をかけてきたものの、そろそろ帰って一旦中岡さんたちにもかすみさんの具合を報告したいという旨を告げれば、それもそうかと首を縦に振ってくれた。


 さて、あとはこの文をかすみさんに読んでもらうだけだ。
 うまくいってくれるといいけど……。

 男の人の名をそう抵抗なく話題に出せる程度には回復しているようだけど、間接的なものであれ、ほとんど面識のない男の人と接触をもつのは目を覚ましてから初めてのことだ。

 大丈夫かなぁ。怖がらせてしまわないように気を配っていかなきゃ。





 部屋に戻ると、かすみさんはまたしても絵を眺めているところだった。
 ゆきちゃんの描いた武者絵の数々がよほどお気に召したようだ。

「かすみさんあのね、ちょっとお便りを預かってきたんだけど、読んでみてくれるかな?」

「……どなたから?」

 顔をあげて小さく首を傾けるかすみさんは、かすかに眉をよせて不安げな表情をしている。
 それはそうだよね、安心して話をできる相手なら直接顔を出すはずだから。


「ここのお医者さま。ゆきちゃんのお兄さんだよ」

「……そ、そう。お世話になっている身で、ろくにご挨拶もできていないから、きっとご不快に思われているわよね……」

「ちがうちがうっ! そういうことじゃないから! かすみさんのこと、ものすごーく心配してくれてるんだよ!」

「そうなの……? どちらにしても、わざわざ筆をとってくださったんだから、きちんと目を通さなきゃね」

 かすみさんは震える手で私が差し出した文を受け取ろうとし、そしてそれを取り落とした。

 さっと顔色が青ざめて、俯きながら恐る恐る指先で紙のふちをめくり上げている。
 男の人が触れたもの自体が怖いのか、文の内容に不安を感じているのかは定かではないけれど、このまま読ませることを強要するのはあまりにも酷だ。



「かすみさん、私がかわりに読むよ」

 優しく彼女の肩を叩いて、その手から文を抜き取った。

 もしもの時は読み聞かせられるようにとむた兄が配慮して、全文をかなで書いてくれている。
 そのあたりの気遣いは本当にありがたい。


「こほん、いいかな? 読んでも」

「う、うん。お願い」

 きゅっと布団の端を握りしめながら、かすみさんはわずかに身を固くした。
 何か辛辣な言葉が投げ掛けられはしないかと怯えているようだ。

 できるだけ安心させてあげられるよう、つとめて明るい声色で文面を読み上げる。



「神楽木さん、はじめまして。
 雪子の兄で医者をやっております、山村霧太郎です。
 その後体調はいかがですか。

 足の傷はそう深いものではありませんが、元通りに歩けるようになるまでは少々根気よく時間をかけて治療を続けていく必要があります。
 必ず治してみせますのでご安心ください。

 気持ちの面で不安な部分は、私では十分に支えてあげることができないかもしれませんが、体のこと、またあらゆる悩みごと、生活面での要望など、些細なことで構いませんので、なんでも遠慮なくお話しください。

 またお便りします。山村霧太郎」


 声に出してみると意外に長かったな。
 一気に読み終えて、長々と息をつく。

 かすみさんは、目をぱちぱちさせながらこちらを見ている。
 身構えていたものの拍子抜けしたという感じだ。



「それでおしまい……? 先生は、怒ってらっしゃらない?」

「怒ってなんかないよ。あ、なんか端っこにまだあった。神楽木さんは絵がお好きだそうなので、僕も描いてみました……だって。あはは」

 思わず吹き出してしまった私を見て、かすみさんがそわそわしている。
 絵と聞いて、どんなものだか気になっているんだろう。


「絵だけでも、見てみない?」

「……う、うん。見てみたい」

「はい、これ。ちっちゃく描かれてるでしょ?」

 かすみさんの間近に膝を寄せ、文の下段に何やら細い線でぐにゃぐにゃと踊る落書きを指差す。


「……なにかしらね、これ?」

「猫です、だって」

 自分でも描きあげたものに自信がないのか、見落としてしまいそうなほどに小さな字でそう補足してあった。
 お世辞にも上手いとは言えないけれど、なんだか愛嬌があって可愛らしい絵だ。



「……ふふふ」

 かすみさんがようやく肩の力を抜いて笑ってくれた。
 絵を気に入ってくれたのか、先ほどまで触れるのをためらっていた文に手を添えて、取り乱すこともなく文面に目を通している。

 ……よかった。
 むた兄が気をきかせてくれたおかげで、かすみさんの警戒心も和らいだみたいだ。



「山村先生、お優しい方なのね。私、お返事を書くわ」

 幾度か文を読み返したあと顔を上げたかすみさんは、すっかり落ち着いた様子でかすかに微笑んでくれた。

「ほんと!? むた兄きっと喜ぶよ!」

「……このまま男の人を避け続けるわけにはいかないものね。まずは先生と、文でやりとりできるように頑張ってみる」

「うん、うん! 少しずつやっていこうね」

 今のところは確実に前に進んでいる。
 けれど、無理をすれば彼女の繊細な心を締め付けてしまいかねない。

 ふとしたきっかけでまた気持ちが深く沈んでしまわないか心配だ。
 一歩一歩、焦らずにゆっくり回復を目指していこう。



「まだ先のことになるとは思うけれど、橋本さんと写真のお二人にもいつか会ってお礼が言いたいな」

「それはきっと喜んでくれると思う! 中岡さんも田中さんも、とってもいい人なんだよ! 頭がよくて、強くて、優しくて、勇気があって――!」

 思わぬ申し出に、ぱっと花が咲いたように気持ちが高揚する。

 陸援隊は完全に男所帯だからとてもかすみさんをお招きできる状態ではないけれど、三人をつれてお見舞いにうかがうことくらいはいつでもできる。


「美湖ちゃんは彼らが大好きなのね。写真を拾ったあの日と同じ顔をしてる」

「うん! ずっと一方的に憧れて追いかけてた人たちだけど、実際に会えて本当によかったって思ってるよ! 話してみたらもっと好きになったもん!」

「……それじゃ、その人たちに伝えておいて。助けにきてくださって本当にありがとうございました、いつか直接お礼を言わせてくださいって」

「分かった! 伝えておくね!」


 何よりも、かすみさんが彼らの存在を拒絶することなく受け入れてくれたことが嬉しくてたまらない。
 矢生一派のもとから救い出してくれた恩人だと言っても、その場で顔を合わせたわけではないからいまいちピンとこないはずだ。

 彼女が判断基準にしているのはきっと、私の語り口や表情のみ。
 私が掲げてみせた彼らへの信頼と尊敬の念を汲み取ってくれたのだろう。



 かすみさんとはそれから少し今後の話をして、名残惜しくもお別れすることになった。

 明日からも毎日お見舞いに来ることを約束して、ぎゅっと手を握りあいながら互いにさよならを告げる。


 彼女の表情にもう翳りはない。
 そのことに心底安堵し、私は荷物を手にしてそっと部屋をあとにするのだった。



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