歩行補助器に手をかけるために、ベットから足を降ろした私は意外な足の感覚に驚いた。
ぱちくりと目を瞬かせ、自身の足を見つめる私に鉄平さんは首を傾げる。
「どうした? 歩けないなら抱っこしようか」
「い、いえ、結構です!」
鉄平さんの本気か冗談か解らないそれに即答する。
少しだけ笑った鉄平さんに苦笑いで返し、私は小さく息を吸い込んで、足に力を入れた。
――あぁ。うん。
震えるけど、いけそうだ。
ひやり、とした床に足をつく。
私は片手だけ歩行補助器について、ほぼ自力で立ち上がった。
「ワカメちゃん」
「びっくりです。立てちゃいました」
「あぁ、みたいだね」
「……あの、とにかくキッスの所へ」
鉄平さんの驚いた顔に、私は困ったように笑うしかない。
――キッスの元へ歩く途中、少しフラフラする私を鉄平さんが支えながら歩いてくれる。
その途中、鉄平さんが神妙な顔で口を開いた。
「ワカメちゃんは、思ってた以上に毒に強い」
「……え」
「あの毒で死ななかった上に、足の自由から見ても浄化作用が高い」
「それは、私の遺伝子がこの世界と違うからですか」
赤黒い染みの付いた床は、踏みしめる度に少しだけ軋んだ音を立てる。
足を取られて、前のめりになる私の肩を鉄平さんの手が力強く支えてくれた。
ただ、そのことに言葉はなく鉄平さんは先程からの内容を話し続けた。
「多分そうだけど、抗体を持っているわけでもないし、ただ、この世界の毒に強いんだろう」
「……そう、ですか。あの、じゃあ、私って強いんですか?」
鉄平さんの顔を見上げてそう聞くと、鉄平さんはちょっとだけ素面になった。
「いや、超弱い」
「あ、やっぱり」
「うん。特別筋力があるように見えないし、多分獣に襲われたら一飲みだろう?」
「……否定はしません」
少し残念に思いつつ、私が情けない返事をすると鉄平さんは声を立てて笑った。
「それに、毒も……多少強いだけ。あのままじゃ、死んでただろうな」
「そうですねぇ」
鉄平さんの客観的な意見に、私は静かに同意して、また歩を進める。
……あぁ、でも、そうか。
毒の瘴気が覆っていたココさんの家で、あそこまで活動出来たのは――私がこの世界の人とは違うものだからだったんだ。
そう考えると、複雑なものが私の心をかき乱す。
この世界で、異質な私。
でも、その異質が少しでもあの人の役に立ったんだろうか。
自分がこの世界において、人であって人でないことへの嫌悪感と、ココさんの毒に強いという事実。
その二つが、私の中をぐるぐると駆け廻った。
――そうこう考え込むうちに、私と鉄平さんは扉の前に着いた。
鉄平さんが、いける?と聞くように私に目で合図するものだから、こくりと小さく頷いてドアノブに手をかけた。
留め具が跳ね、ガチャリと音がすると同時に私は扉を押し開ける。
すると目に入るのは、大きなお月さま。
緩やかな光を湛えるその月が、夜だと言うのに、ぼんやりと世界を映しだしていた。
――青い草、豊な木々、整えられた岩場が、青白い月の光でよく見える。
少し遠くに、ライフの町並みも見えた。
私はそれに微かに目を細め、ゆっくり足を前へと前進させた。
そして、漆黒の姿を探す。
きょろきょろしながら、地面を踏む私に――、一陣の風が吹いた。
月明かりに照らされていた私を、影が包むように降りてくる。
あぁ、こんな夜でもハッキリと映しだされるその姿。
キッスは、やはり雄大だ。
「……キッス!」
私の目前に舞い降りたキッスに、私は大きな声で呼びかけて、フラつく足で駆けよる。
キッスは高らかな声を上げ、丸く黒い瞳で私を見つめた。
最後は絡まり縺れた足のせいで、前に転んでしまったが、キッスの大きな体が私を抱き止める。
暖かな体温。
柔らかい羽毛。
喉を鳴らす声。
夜の匂い。
私の髪と頬を撫でる、つるりとしたくちばし。
「キッス……」
私が名前を呼ぶ度に、キッスは穏やかな音で喉を鳴らし、私の髪にくちばしを通した。
「キッス、ありがとう。ごめんね。でも、本当にありがとう」
私は手に力を込めてキッスの体を抱きつき、顔を羽毛に埋めてぐりぐり擦りつける。
「私、あんなにひどいお願いをしたのに、キッスは助けてくれたんだね」
キッスは私の髪を傷つけない様に撫で続ける。
あぁ、どうしてこんなにもキッスは優しいんだろう。
ふとすれば、溢れそうな涙を誤魔化すように、私は顔を上げて左右にぶんぶんと振った。
そうしてキッスを見上げてみれば、その瞑らな瞳と視線が通う。
泣きそうなまま、微笑んでみればキッスは僅かに目を細めた。
――キッスの様子を見た私は、自分が心配に思っていたことが、恐らく杞憂に過ぎないことを感じる。
それでも、堪らなくて私はキッスに問いかけた。
「キッス、ココさんは大丈夫……?」
名前を口に出すだけで、震えてしまう声が情けない。
キッスはそんな私の頬にくちばしをすり寄せた。
まるで頬ずりのような行動は、何度も何度も私の頬を往復する。
優しいそれは、やはり私を安心させるためにしてくれているようで、ホッと息を漏らした。
ココさんはきっと大丈夫なんだ。
安心感と同時に、胸に走る微かな痛み。
身勝手な己の行いと、乱暴に残してきた手紙が気になって仕方ない。
……気になると言っても、どうすればいいのかなんて、今の私には思いもつかないのだけど。
少し俯いた私だったが、次の瞬間には驚きの声を上げることになる。
――ふわりと、後ろから抱きあげられたのだ。
慌てて後ろを振り向けば、鉄平さんが私を抱き上げていた。
「え、ええ!?」
私の素っ頓狂な声に、鉄平さんはにんまりと笑う。その反対に、キッスは気が立ったような鋭い声を上げた。
「な、なんですか?」
「なんだか、妬けちゃって」
「や、やけ……? と、とにかく降ろして下さい」
しかし鉄平さんは、うんうんと頷くだけで、一向に私を降ろす気配は無かった。
キッスは怒っているのか、毛を逆立てているように見える。甲高い声はヒステリックなまでに大きくなっていく。
しかしそんなキッスに対しても鉄平さんは笑うだけだった。
「鉄平さん、あの……」
「ん?」
涼しげな眼。
彼は一体、何に妬けたというのだろう。
あぁ、でも……。
「私、鉄平さんにも大変感謝してますよ」
「そう?」
「はい。そりゃあもう……あと、与作さんにも」
私は眉を下げて笑った。
すると鉄平さんも口元を少し緩ませる。
「あの、だからというわけでは無いんですが……下ろしていただけませんか?」
「このままじゃ、ダメ?」
「良くは、無いです」
その瞬間、キッスが私の首の襟元を咥えて引き寄せてくる。
私は、「わぁ!」なんてまた変な声を上げてしまった。
なのに鉄平さんはまだ離してはくれない。
「ち、ちぎれます!私、ちぎれます!」
私の情けない声が夜の空に響く。
「あ、そっか」
鉄平さんが気の抜けた声でそう言うと、私から手を離した。
そのまま私は、キッスに引き寄せられて、地面へと下ろされる。
キッスは今だにどこかピリピリしているようで、私は苦笑いした。
それを鉄平さんがとても可笑しそうに見ながら、
「お前、意外と短気だね」
と、言うと、キッスはまた一鳴き。
キッスの意外な面を見た私は、首をかしげた。
キッスはしばらく鉄平さんに対して威嚇するような態度をとっていたが、時間が経ち落ち着いてくると、黙って鉄平さんを見つめる。
そして、沈黙の後――小さく喉を鳴らすような声を漏した。
すでに怒りを失っているキッスの声は、ずいぶんと穏やかで、切ない響きを含んでいるのを感じる。
鉄平さんをそれをどう受け取ったのか、会話するように「ああ」と相槌で返した。
夜風が静かに吹いてくる。
風が草木を撫でる音に、私は一瞬、気を取られた。
「――で、ワカメちゃん」
そんな私に、鉄平さんの抑揚の無い声が降ってくる。
「あ、はい」
「どうする?」
「……どうする、とは?」
鉄平さんの意味深げな言葉に少し瞬きをした。
ほぼ同時に、するりとキッスのくちばしが私の首元へと入り込んできて、ピタリと寄り添ってくる。
「帰る?それとも……」
鉄平さんの声色は穏やかで優しい。
意味がわかった私は、少し考えてしまう。
「……どう、しましょうか」
そう、曖昧な台詞を口にしながら、キッスのくちばしを緩々と撫でた。
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bkm