▼ またお願いします、トリコさん!
満腹都市・グルメタウンの裏通りで、私は心底疲れ、迷っていた。
そもそもこうなったのは、会社にかかってきた一本の電話がきっかけだ。
――「四天王トリコの熱愛写真を売りたいんですけど」
その内容は少々胡散臭かったが、とにかく現物を確かめてみるのがなによりの優先事項である。
会社で唯一大きな仕事を抱えていなかった私は、上司の命令でこのグルメタウンにやってきたのだ。
しかし、案の定というか。
電話で指定されていた場所に行っても、誰も来ず待ちぼうけを食らっただけだった。
ちなみに、こんなことは良くあることだ。
無駄足の方が多い。
でも、そんなことは慣れているし、100歩譲ってもいい。
ただ、私にはどうしようもない強烈な不満があった。
それは私の精神と大事な懐を襲うもの。
そう。
グルメタウンの入場料が自腹、ということである。
その上で、私は迷っていた。
手持ちのお金があまり無い。
けど、喉渇いたのだ。
――薄暗い裏路地。
目の前には、自販機が2台。
一つは一缶一万円で丁度いい量。反対にもう片方は、一缶十円で持つことも苦労しそうな量の清涼飲料水が出てくる。
値段差と量の差が異常に激しい。
それは入ってくる飲料が天然物だとか、人工物だとか、様々な根拠に基づいて付けられた値段なのだろう。
でも十円のものでも十分美味しい。なんせここはグルメタウンだ。
私個人としは十円の方を選びたい所なのだか……いかせん量が多すぎる。
だってほら、見てみてよ。
こりゃあ、ビール樽くらいの大きさはあるだろう。
こんなもん、平気でヒョイと持てて、ゴクゴク飲み干せるのは美食屋くらいのもんじゃないの。
私は自販機の前で唸り声を上げた。
その時だ。
背中に何か大きな塊がぶつかってきたような衝撃に襲われる。
「ぎゃ……っ」
私は小さな悲鳴を上げて、自販機に顔から突っ込んだ。
ゴィンッという鈍い音がして、衝撃的な痛みと共に、鼻の中で鉄の匂いが広がった。
「っ!」
私は半泣きで鼻を押さえて、バッと後ろを振り返る。
よそ見客なら怒ってやるし、強盗の類なら脱兎の勢いで逃げてやる。
ここはグルメタウンとはいえ、裏路地なのである。
何があるがわかったもんじゃない。
――しかし、そこに居たの予想だにしていない人物だった。
「ああ、わりぃわりぃ」
あっけらかんとした声が、私の頭上から降ってくる。
見上げると、目が冴えるような青髪をもつ大男が立っていた。
普段とは違う、白いスーツを身にまとった彼からは、この裏路地にそぐわないオーラが漏れ出している。
「……美食屋トリコ」
私はつい鼻を押さえるの忘れて、間抜けな声で目の前の人物の名前を口にした。
すると彼も一瞬だけ目を丸くて、あぁ! と思い出したような顔をする。
「お前、この前の記者じゃねぇか」
珍しい。
彼は私を覚えているらしかった。
なぜ珍しいのかと言うと、
『トリコが記者を覚えるなんてことは滅多にない』
……と、いうのがこの業界の常識なのだ。
実際に、何度もトリコの取材をしている担当記者が『俺のこと、覚えてくれないんだよ〜』不満そうに呟いていたのを聞いたことがある。
なのに私を覚えてくれているなんて。
「私のこと、覚えてるんですか?」
「そりゃあ、あんだけ涎まみれで取材してくる奴なんか見たことなかったしな」
「あぁ……」
言われてみればそうだ。
彼にしてみれば、どん引きの記者という印象がよほど強かっただけなのであろう。
なんというか、一瞬でもちょっと嬉しいと思ったのが恥ずかしい。
「……ってか、お前鼻血スゲー出てるぞ」
「えぇ!?」
私は慌てて手の甲を鼻の下に当てた。
するとトリコさんの言うとおり、手の甲にはベッタリ赤い鮮血が付いてくる。
うわっ、最悪だ。
しかも多分今の行為で、鼻血は私の鼻の下で広がっているだろうことも予想できた。
「服にもついてんな」
「うそ!……うわ、ホントだ!?」
言われて確認してみると、確かに服の上着にもポツポツと零れ落ちた鼻血の染みが出来ている。
うぉぉお、なんてバイオレンスな感じなんだろう。
「あーあ……」
どうしようもないので、とりあえずバックからポケットティッシュを取り出し、顔の周りだけでも拭くことにした。
「まるで喧嘩でもした後みてぇだな」
そんな私に四天王トリコは、能天気な言葉をかけてくる。
そりゃあ、こんな巨体にぶつかられたら、殴られたような衝撃と同じなもんでしょうよ。
少々苛立ちながら、私は乾いた笑いを返した。
「ってか、お前何してんだ? こんな所で」
「……仕事でひた」
だいたい鼻血を拭きとった私は、最後にティッシュを鼻に詰める。
鼻声になってしまうが、仕方あるまい。
しかし、私が鼻にティッシュを押し込めるのと同時に、トリコさんがまた目を丸くするのが見えた。
「トリコひゃんこそ、どうひてこんなところに?」
「……お前珍しいな」
「ひゃい?」
「いや、グルメタウンで鼻にティッシュ詰める奴、初めて見た」
私の顔を見てしみじみ言うトリコさんに、私は少々どころか、盛大に苛立つ。
誰のせいだと思っているんだろうか、この人は。
しかも鼻ティッシュがなんだっていうだ、このやろう。
「あの、私の質問に答えてくれまひぇんか?」
苛立ちを露わにした声を出しす。
しかし、鼻ティッシュでは何もカッコが付かない。
「俺は別に、言う程の事じゃねぇーよ」
「はぁ……?」
曖昧な言葉で交わされた私の質問。なんていうか、イライラだけが降り積もる。
鼻血の代償に何かスキャンダラスなネタでもくれればいいのに!
熱愛写真は結局ガセだったのだから、それくらいしてくれないだろうか。
……熱愛。
熱愛?
「あ? おい、なんだよ」
急に黙ってジッと見つめ始めた私に、彼は怪訝な顔をする。
白いスーツ。
いつもとは違う出で立ち。
目をじっと凝らす。
そして――、
「あ。キスマーク発見」
私がポツリ呟いたその一言に、四天王トリコはバッと自分の首筋を押さえた。
わぁ、意外と単純なんだ。
「嘘でひゅよ」
「は!?」
「まひゃか、引っかかるなんて……」
私がそう言うと、トリコさんは少しだけゲンナリした顔をしながら、首筋に当てていた手を降ろした。
私はその様子に、フフンと鼻で笑いながら、詰めていたティッシュを外す。
よし、鼻血は止まっているな。
私は鼻ティッシュを新しいティッシュで包んでバックに直し、変わりメモと録音機を取り出した。
「トリコさん、やはり熱愛のお相手がいらっしゃるんですね! どうなんですか!」
「んなもんいねぇよ、ってかなんだあのフェイント」
「あのフェイントにひっかかるなんて、黒も良い所ですよ! さぁ、真実を!」
「だから、違うっつーの」
「答えてくれないんですか!? では、大切な人なんですね!」
「おい、捏造すんな!」
「捏造ってなんですか!? ならば真実を教えて下さい!」
「だから、お前の期待するような真実なんかねぇよ!」
狭い裏路地でどんどん言い争いのようになっていく私と四天王トリコ。
傍から見れば、きっと喧嘩そのものに見えるだろう。
――しかし、それは突然終わりを告げた。
その合図は、カメラのフラッシュだった。
ピカッという光が私とトリコさんを包む。
「え?」
驚く私をよそに、トリコさんはすぐさまその光の元を探し出し、そちらに顔を向ける。
それはこの裏路地の側面にあるビルの三階。避難用ガラス窓からだった。
確かにその奥に人影が見える。
……なんてこった!
「撮られちゃいましたよ!」
「ああ、そうだな」
「そうだな、じゃないですよ! 今の写真、きっと売られますよ!」
私はつい頭を抱えた。
冗談じゃない!なんでまた私が他社のスクープ材料にならないといけないんだ!
今度こそクビを切られる!
「困るんですよ! 本当なら、私がトリコさんをスクープするはずなんですから!」
「いや、だからスクープなんかねぇっての!」
「無くても、今の写真はスクープになっちゃうんです!」
テンパッた私はビシリッと先ほど写真を撮られていた窓を指差した。
「……あの写真、取り返して来て下さい」
四天王相手に命令を下す。
普段ならこんなことは考えられないが、今はそれどころじゃなかった。
「はぁ!? なんで俺が」
しかし、トリコさんは眉間に皺を寄せて面倒くさそうに言う。
だけどもわかってないのは彼の方だ。
「この現状……冷静に考えても見てください。もともとトリコさんは女性スキャンダルの多い方ですよね?」
――そう。
この四天王トリコの女性スキャンダル記事は多い。
否、正しくは多かった、だ。
しかも、ほとんど『一晩限りのお相手』。
記事として“熱愛”と報じるが、実際はどれもこれもこの四天王トリコに抱かれ、名を上げたいだけの女性ばかりだった。
そして彼も、深く気にしない性格だったのだろう。
ただ、ここ最近はぴったりとそんなスキャンダルは無くなっていた。
理由は明確だ。
「小松シェフとコンビを組んでからですよね? 最近そんなスキャンダルは無いのは」
私の口から“小松”という単語が出た瞬間、トリコさんのやる気のない表情が変わる。
目が一瞬だけ鋭くなって、私は情けなくもビビッてしまいそうになった。
でも、小松シェフの名前を出して正解だったと思う。
この無頓着な彼にしては、ずいぶん大事にしている様子に見えた。
私は、深呼吸する。
ここで負けるわけにはいかない。
「……ですから、この記事は大きく載りますよ。しかも、熱愛とかそんな生易しいもんじゃない」
私はホラッと、洋服の裾をつかみ広げた。
――明るい色の服には、少々目立ちすぎる鼻血の跡。
それを見たトリコさんは、苦い顔をして溜息をついた。
「そりゃあ、最悪だな」
「そうですよ。四天王トリコが“痴情のもつれで女性に暴力”だなんて」
駄目押しだ。
すると彼は私に向けていた鋭い目を閉ざした。
「……で? あの野郎が撮ったカメラのネガかデータを取り返してくればいいんだな」
観念した様子のトリコさんに、私はすぐさま頷く。
次の瞬間、彼は窓の方に向き直ると――地面を蹴った。
そして、そのまま人間離れした跳躍を見せ、壁を登っていく。
彼はあっという間に三階の窓までたどり着くと、あろうことかそのまま拳で窓ガラスを殴り破った。
うわーお。
なんてワイルドなんだ。
私はその様子をただ口を開けて眺めるしか出来ない。
そして――その後すぐ、命乞いをするかのような男の声が聞こえてきた。
……わ、悪くないよね。私、悪くないよね。
私は一瞬だけよぎりそうになった後悔と同情心に、一人首を横に振った。
* * * * * * *
「……ああ、疲れました」
「そりゃこっちのセリフだ」
そう言いながら、トリコさんは取り返してきてくれたデータチップを大きなその手の平で握りつぶした。
バキバキッという音と共に砕け散るチップを見ながら、私は心の中で謝る。
どうなったかは知らんが、写真を撮った人はずいぶん怖かったろうなぁ。
だがとりあえず、これで私のクビは繋がったし、トリコさんもスキャンダルにならずに済んだ。
――なのに、この大男はまるで災難だと言わんばかりの顔をしている。
思えば、初めて会った時もそうだ。
雑誌の表紙では太陽みたいに明るい笑顔をしているくせに、どうも私と居ると、不運に巻き込まれたような気分になるらしい。
しかし、今回は私も反省する気持ちにはなれない。
「……お礼言ってほしいくらいですよ。第一、この鼻血だって元を辿れば貴方のせいなんですからね」
私がジト目でそう言うと、意外なことに彼は気まずそうに視線を逸らした。
「あー」なんて言って、頬を指先で掻いている。
「それに、これで小松シェフのメンツも保たれたってもんでしょう。安いもんです」
私がフンッと鼻を鳴らして言葉を続けると、彼はキョトンとしてから苦笑いを浮かべた。
「まぁ、確かにそうだな」
「そうでしょう? ……私も小松シェフのファンですからね」
いい加減に疲れた私は、軽く息をついて自販機にもたれかかり、足元に視線を落とした。
もう彼のスクープをとる気も起きない。
データも取り返してくれたし、おあいこにしても良いだろう。
「……お前、小松のファンなのか?」
てっきりさっさっと去っていくだろうと思っていたトリコさんに声を掛けられて、少し驚く。
「え? あ、はい」
「俺より?」
「はい?」
そりゃあ、小松シェフと四天王トリコを比べたら、若い女性の多くは後者が好きというだろう。
しかし、それが当然だと思うのはおごり過ぎだ。
サニーさんが言うなら……彼の性格的にちょっと納得してしまうが。
トリコさんはきっと、ココさんの爪の垢でも煎じて飲んだ方がいい。
とにかく、私はムッとした顔を隠すことなく告げる。
「私は、あなたではなく小松シェフのファンです」
すると、トリコさんが声を出して笑った。
私の言葉が可笑しいみたいに。
ただ、それは馬鹿にするようなものではなく――ひたすらに明るい。
「……?」
なんだろう。
小松シェフ効果?
やはりコンビを褒められるのはいい気持ちの良いものなんだろうか。
まぁ、コンビの為に女性関係を抑えているくらいだし。
私は首を軽く傾げる。
トリコさんはそんな私に気がつくと、急にニッとこちらに笑った。
……人懐っこい。
太陽みたい。
私はようやく雑誌でみるような彼の笑顔を間近で見ることが出来たようだ。
なーんだ。
やっぱり笑うとこの人はこんなに印象が良いんじゃないか。
私は少しだけ、自分の心がほんわりするのを感じた。
「……しっかし、改めてみるとひどい格好だな」
一瞬だけだったけど!
「だから、誰のせいだと思ってるんですか」
「服、買いに行くか」
「は?」
「汚したのは俺のせいだからな」
――つまり、服を弁償してくれるってこと?
トリコさんの突然の申し出に、私は目を見開いてしまった。
いったい、どういう風の吹きまわしなんだろう。
この人の思想回路にはついて行けそうもない。
「いいですよ。そんなの」
私が恐縮して答えると、トリコさんは今度は「じゃあ、飯でも行くか?」と言ってきた。
予想もしていなかった彼の言葉に私は困る。
そしてしばし考えて――ひらめいた。
そうだ。そもそも私はコレを欲していたのだ。
「じゃあ、トリコさん、あのこれ買って下さい!」
私はそう声を上げて、自販機を指さす。
そうだ。
私は喉が渇いていたんだ。
思い出すと途端に喉が潤いを求め始めた。
「あ? これでいいのか?」
トリコさんは拍子ぬけした声を出す。
「はい! いいんです! っていうか、これがいいんですよ」
しかし、私が何度も頷くと、納得したのかトリコさんはそれで手を打ってくれる気になったらしい。
トリコさんはポケットからなにやら凄そうなカードを取り出して自販機に歩み寄る。
「いいんだな? これで」
「もちろん」
「……よし」
「あ! 何してんですか! それじゃない!」
「あぁ? なんだよ、お前はこれが飲みたいんだろ?」
「ち、違いますよ! その一万円のじゃなくて、横の十円のです!」
私は慌てて、十円の方の自販機を指差した。
ところがトリコさんは目を丸くするばかりだ。
「いいのか? そっちで」
「……いいんですってば!」
痺れを切らした私は、トリコさんからカードを奪い、勝手に十円の自販機に通した。
そしてボタンを押す。
ドコンッ! と、もはや清涼飲料水の缶とは思えない音と共にジュースが落ちてくる。
私は使ったカードをトリコさんに返した。
「……それでですね、トリコさんがこの缶を持ってください」
「あ、あぁ」
「そしてその飲み口を開けてください」
私はトリコさんに指示を出す。
「そしてゆっくり私の口に傾けてください」
不思議なことにトリコさんは私の言うがままにしてくれた。
私はとにかく必死で大きな缶の飲み口に口をつける。
そして零れないように、流れ出てくる清涼飲料水を勢いよく飲んだ。
美味しい。
特に喉が渇いている時は最高だ。
「っも、いいです」
私はプハッと息を吐き出しながら飲み口から口を放した。
「あー、幸せでした! ありがとうございます。あの、残りはトリコさんが飲んで下さい」
「……」
満足な私に反してトリコさんは黙っている。
「あ。もしかして飲めないジュースでした?」
「いや、飲める」
「なんだ。なら良かった」
「……お前、変わってるな」
「何がです? 私はそれが飲みたかったんです」
私をじっと見下ろすトリコさんを私も見返す。
「でも、持てないし、何より全部飲めなくて残すのも嫌だったから、迷ってんたんですよ。だから、ちょうど良かったんです」
私は説明しながら困ったように笑った。
「……じゃ、そろそろ失礼します。今後もパパラッチにはお気を付けて」
私はペコリと彼に頭を下げた。
まさか自分の方がこの場から先に離れるとは思ってもなかった。
しかし会社に帰るのがあまり遅くなってはいけない。
私は何か言い淀んでいるトリコさんにもう一度挨拶をしてから、裏路地から大通りへ出る方へ向きを変えた。
「おい」
「……はい?」
「お前、あれだ、名前なんていうんだ」
トリコさんの言葉に、私は何度も瞬きを繰り返す。
「ワカメ、ですけど」
「そっか、ワカメか」
トリコさんは、私の顔だけでなく、名前まで覚えてくれる気なんだろうか。
珍しいこともあるもんだ。
「じゃあな、ワカメ」
――トリコさんはそう言うと、やっぱり青空に眩しく輝く太陽みたいに、ニッと笑う。
単純だけれど、私はその日、ちょっとだけ気分が良くなった。
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