「みょうじさん、これ今期のレッスンスケジュールです」
『あ、ありがとうございます』
新学期が始まり登校して、午前の全ての授業を受けた後学科の先生に呼び出され渡された一枚の書類。
その紙を目で追って、思わず顔が引き攣る。
その書類に書かれていたのは、今期のピアノレッスンのスケジュールだ。
作曲科の中でもピアノレッスンの授業をとっている私だが、そのスケジュールは割とハード。
一番遅い曜日は夜の八時まで。
元々の担当の講師の方とはあまり方向性が合わず、一年生の最後に講師の方と話し合い変更をお願いした。
だから仕方ないと言えば仕方ない。
元々はピアノ科の講師の方だ。
そっちを優先するのが普通と言えば普通。
しかしそうなってくるとこの八時までの曜日は困ったものだ。
学科の方のスケジュールと照らし合わせると、困ったことに毎週その曜日は午前しかない日なのだ。
七時からピアノのレッスンがあるのだが、間が見事に中途半端に八時間空いてしまった。
とりあえず先生に頭を下げ、キャンパス内を歩く。
家からここまで徒歩十分。
レッスンの前に夕飯を作っておくには十分余るこの時間。
中庭のベンチで二枚の書類を見比べて、頭を抱えていると、不意に肩を叩かれびくっとなった。
「なまえ、どうしたの?」
『サイ!』
振り返るとそこには画材道具を肩にかけたサイが首を傾げていた。
「これからお昼だよね?よかったら一緒に食べよう?」
『うん!』
そう返事をして、一度教室に戻り、食堂で待ち合わせをすることになった。
「どう?あの家は慣れた?」
『うん、二人とも優しいよ』
定食を食べるサイの前に座りお弁当を広げる。
「そっか、良かったね、心配してたんだ」
『ありがとう』
高校の時から、サイは何かと心配してくれて、力になってくれている。
それはすごく嬉しくて、ありがたいこと。
学科は違うが、こうして同じ大学に合格が決まった時は、二人ですごく喜んだのもいい思い出。
「ところで、さっきはどうしたの?なんか考え込んでたけど…」
その問い掛けに、先程のレッスンの日程の予定を思い出す。
そして簡単に事情を説明すると、サイは箸を置き、にこっと笑った。
「なまえさ、うちでバイトしない?」
『へ?サイの家の画材店?』
「うん。いつもその曜日は僕が手伝ってたんだけど、今年から授業増えて手伝えそうにないんだ」
その空いた時間だけでいいからさ、と付けたし、サイはお茶を啜る。
『え!いいの!?やる!やりたい!』
ぱあっと自分の表情が明るくなるのがわかった。願ったり叶ったりの状況だ。
引っ越してきて、新しくバイトを探さなくちゃと思っていたのだが、なかなか授業との兼ね合いがうまくいかず、困っていたのだ。
『休みの日も手伝うよ!』
「本当?助かるよ。学校の近くなのもあって、結構忙しいんだ」
じゃあ決まりね、とサイは優しく笑ってくれた。
早速明日からサイの家で働き始めることになった。
「そういえば講師の先生変わるの?」
『うん、あんまり合わなくて無理言って変えてもらったんだ。悪い先生じゃなかったんだけど、方向性がね…』
「難しい問題だよね。なまえはどちらかと言うと自由に弾かせてもらいたいんでしょ?」
図星をつかれ、瞬きが増える。そして思わず浮かぶ苦笑い。
『よくわかってるね』
そう言うとサイはニコニコ笑顔を浮かべた。
「なまえと付き合いこそは数年だけど、割とわかってるつもりだよ」
サイの言う通り、私は自由に弾かせてもらうのが好きだ。
だったら独学でもいいじゃないかと言われることもあるのだが、自由に弾かせてもらった上でアドバイスが欲しいのだ。
最初から基本に忠実に、譜面通りに弾きなさい。なんてのは専らごめんだ。
そこまで思考を巡らせた後、脳裏に浮かぶのは母親の姿。
「両親には引越したこと伝えたの?」
タイミングを見計らったかのようなサイの問い掛けに思わず背筋を伸ばす。
「その様子じゃまだなんだね?」
『う…。だって…』
「なまえが両親のこと苦手なのは知ってるけど、ちゃんと伝えなよ?」
子供にそう言い聞かせる様に優しい口調にしゅんと項垂れる。
『でもさ、男性二人と一緒に住んでるなんて言ったら…』
あの両親のことだ、下手したら実家に連れ戻されるかもしれない。
それだけならまだしも、学校を辞めさせられるかもしれない。
「別に二人のことは伝えなくても、キャンパスが変わったから近くに引っ越したって言えばいいでしょ?嘘はついてないんだから」
『…そっか』
「先延ばしにすればするほど言いにくくなるよ?早く言いなよ?」
項垂れる私の頭を軽く叩き、サイは荷物をまとめ立ち上がる。
「じゃ、明日からよろしくね」
『あ、うん、ありがとう』
サイの背中を見送り、私も荷物をまとめる。
両親の顔を浮かべ、重々しい溜息が一つ零れた。