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「―――ふう。これで家のことは全て終わりましたね」
「ああ。ご苦労様」
「はい。桔梗もご苦労様です」
この家に厄介になると決まった日から、桔梗は春の家事の手伝いをしていた
ただ、料理だけはまったくといてもいいほどできないので掃除や洗濯の手伝いであったが
今日、家でやることを全て終えた後、桔梗と春はお互いに労いの言葉をかけ合いながら居間に座った
用意しておいたお茶を啜ってこれからのことを考えてみる
「この後はどうする?」
「そうですね…、今日は三人とも昼食をとりに戻って来ませんから外で食べませんか?」
偶には違うことをしてみるのも良いかと思うのだ
それに外を出歩いた方が桔梗の記憶を刺激するに違いなかった
今まで時間を見つけては二人でちょくちょく外へ出歩いていたが、未だに彼女の記憶を刺激するものはなかった
けれども諦める気はなかった。なぜか彼女の事を放っては置けないのだ
それはどうしてなのかはわからないが…
それに今まで刺激されなかったが今度はあるかもしれない
「今日は少し時間があるので遠くに行きませんか?」
「私には土地勘がないから目的地は春に任せる」
「はい、お任せください」
とはいってもどこにいけばいいのだろう
当てずっぽうに歩き回ってもやはり記憶が戻る可能性は低いだろう
せめて何かしらの手がかりが欲しい
そう思って何か手がかりがないかをもう一度考えてみる
手始めに桔梗と出会った日のことを思い出してみよう
北野天満宮の境内にたった一人で佇んでいた桔梗
そういえば春には、桔梗に初めて会った時から気にかかっていたことがあった
「あの、初めて会った時はいろいろ手一杯で聞きそびれてたんですけど、あの時桔梗は着物を着ていましたよね?」
初めて会った時、明らかに上等とわかる着物を彼女は着ていた
あの時着ていた着物は大事に仕舞われているが今も着物の方が着やすいという理由から彼女は春の着物を着ている
「そうだな? だが春も着ていただろう」
桔梗は不思議そうに首を傾げる
「まあ、そうなんですけど。でも桔梗の記憶が始まった時の情報って大事だと思うんです。京都のあの場所、北野天満宮にいたのは偶然ではないと思います。桔梗、記憶のなくなる前の貴女が何らかの意図をもって行ったのではないでしょうか」
「意図…」
「はい。着物を着ていたことについては保留しましょう。趣味で着ていた可能性もありますし……。それよりもどうして桔梗があの場にいたんでしょう? あの場所にいて何か感じることはありませんでしたか?」
桔梗はあの時ただじっと社殿を眺めていた
そのときには既に記憶が無かったというのに
「……懐かしかった」
「懐かしい…?」
不意に桔梗が呟いたことに驚いて彼女を見ると、桔梗は手元の湯呑に視線を落としていた
「懐かしいと同時に悲しかった」
「それは、どういう…」
「わからない。ただ私が大切にしていた何かはもうあそこにはない。…それが私にはとても悲しかった」
だから桔梗はあの時とても寂しそうな眼をしていたのだろうか
今にも壊れてしまいそうな脆さと儚さ
「桔梗は北野天満宮になにか思い入れがあるんでしょうか?」
903年に菅原道真が冤罪で配流されて大宰府で没した後、都で落雷などの災害が続き、これが道真の祟りだと恐れられた
そこで、没後20年目に朝廷は道真の左遷を撤回して官位を復し、正二位を贈った
947年、現在地の北野の地に朝廷によって道真を祀る社殿が造営された。これが北野天満宮である
そして1587年10月1日、境内において豊臣秀吉による北野大茶湯が催行されたという
豊臣と徳川が争うこの時に桔梗が現れたことが偶然でないとしたら彼女は戦国時代の人間の生まれ変わりの可能性が高い
北野天満宮を懐かしいという彼女は豊臣の縁者かもしれない
だとしたら豊臣の中でも最も知名度の高いこの名を知っている可能性は高いのではないだろうか
「そうです、桔梗。豊臣秀吉を知っていますか??」
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