暗闇の迷路



何とか書類を拾い集めた私は、ふらふらと力無く目的地とは逆方向に歩を進める。ザンザス様に書類を提出しなければならないのに。散財を食い止めなきゃならないのに。
しかし、今はとてもそんな気分では無い。気分を仕事に影響させるべきでない事は重々承知だが、どうにも足はザンザス様の執務室の方へ向いてはくれなかった。
放心状態のまま、ふらふらと目的地も定まらぬまま廊下の端っこを歩いた。


「花が咲くも枯れるも、その恋の行方次第だ。」


放心状態前に聞いた言葉がグルグルと私の頭を占領していく。
なんて事を言いやがったのだあの子供は。花の成長に恋心が関係している?
そんなの訳が分からないし、非現実的過ぎて話しにもならない。……はずなのに。
平凡な人生を歩んで来た私が、この世界に身を置くようになってから、非現実的な事は寧ろ日常であった。そんな事は絶対にありえない。そういった言葉を今では言えない程に、信じられない事が次から次へと起こるのだ。
だから、この訳が分からない非現実的な話も、きっと本当の話だ。
大体、今日初めて会った人物に、わざわざそんな嘘を付く必要も無い。
ただ、自分が受け入れる事が出来ないから、信じたくないだけだ。

恋などする気は無い。
そんな馬鹿馬鹿しい物をする気は一切無い。

そう言い続けて来た私を一瞬で否定してしまうこの出来事を信じるだなんて簡単には出来ない。


『―――スゥッ。』


ノロノロと動き続けていた足を止め、大きく息を吸い込んだ。
グルグルと巡る思考を一旦ストップさせて、ゆっくり、ゆっくりと息を吐き出す。
今一度、ヴェルデくんの言葉を思い出して、念仏のように頭で何度も繰り返す。
育てる者の恋心が成長の鍵で、花を咲かせるも枯らすもその恋の行方次第。
と、言う事はまだ間に合うのではないか?芽が出たばかりと言う事は、その恋心とやらも芽が出たばかりと言う事になるのではないだろうか。
育てる者の心と植物の成長がリンクしているのならば、まだその想いは成長しきっていないのかもしれない。昨夜芽が出たばかりなのだ。その芽を今の内に摘み取ってしまう事は可能かもしれない。


『でも、なんで昨夜…?』


久し振りに深い眠りに付けていたからだろうか、昨夜の記憶はどうも朧だ。
悪夢にうなされ、無理やり仕事をしようと仕事部屋へ来たのはいつもの事だとして。
そうやって記憶の糸を探っていると、頭に浮かんだスクアーロの顔。
ちょっぴり下手くそな笑顔を浮かべ、遠慮がちにソロリと私へ伸びて来たスクアーロの長く綺麗な指先。
その指先が私に触れた瞬間に感じたあの衝撃を何故今まで忘れていたのだろう。
否。その時は気が付かなかったのだ。考える間も無く、訳も分からないのに何故か居た堪れなくなって、そそくさとその場を後にしてしまった。
今なら分かる。自分の身に起きたその事態が。なぜ居た堪れなくなってしまったのか。花の芽が出てしまった理由も、全て。すべて理解できる。

果たして私は、その芽を摘む事が本当に出来るのだろうか。
理解した矢先にそう思ってしまった自分が居た。

考える事に少し疲れてしまった私は、廊下に並ぶ窓を一つ開けて、今度は外の空気を身体一杯に吸い込んだ。空に漂う雲をぼんやりと眺めながら、ゆっくりと息を吐き出す。身体の中に留まるモヤモヤも一緒に出て行ってくれればいいのに、所詮それは叶わない。
答えが出ない事だらけで、全くどうしていいか分からない。
真っ暗闇の迷路が永遠に続いているようだ。出口の見当が全く付かない迷路では、歩く気も更々起きない。
そんな不安定な精神状態のままでは不安だが、ある程度自分の気持ちが落ち着いたらザンザス様の元へも行かなければならない。気分は益々重くなるばかりだ。


『―――――ッ!』


ウダウダとした思考で空を眺めていた私の嗅覚が突如として反応する。
窓を開けた事で、空気の流れが変わったのか、どこからか流れて来た臭いに身体が硬直した。

じわり。と、背中に冷たい物が流れ出て、強く握った拳は小さく震える。
そうこうしている内に、数人の慌ただしい足音が風に乗ってやってきた。
臭いは益々強くなり、足音も激しくなっていく。
やめておけばいいのだが、正体不明のままも恐ろしくって、何やらガヤガヤと騒がしい方へと足を向けた。

喧騒と身が震える香りに導かれるようにして辿り着いたのは談話室だった。
丁度、部屋の入口で騒ぎの原因と鉢合わせた。このフロアには滅多に上がって来ない隊員達が青い顔をして談話室の扉を勢いよく開け放つ。


「ル、ルッスーリア様!お助け下さい。」


必死な形相で隊員の一人がルッスーリアを呼んだ。
談話室にはその御目当ての人物が居たようで、私の目の前で慌てる隊員達とは裏腹になんとも暢気な声が中から響いた。


「なぁに?騒がしいわね。御茶は静かに嗜むものよん。」


流石と言うべきか何と言うべきか。普段と変わらないルッスーリアの様子が目に浮かぶ。
そんなルッスーリアにつっ込む者はおらず、彼等はただ慌ただしく「失礼します。」と談話室へゾロゾロと押し入る。
私はと言えば、ただその騒然とした様子を少し離れた場所で見つめていた。
よくよく見てみれば、その場にいる全員が満身創痍といった様子であった。
ただ茫然と事の成り行きを見守っていれば、あの嫌な臭いがより一層強くなり、思わず顔を顰める。そんな私の目に飛び込んで来たのは、一人、歩く事もままならず、担架に乗せられた隊員だった。


「なまえさん。御久し振りです。」


つい、数時間前に私に笑顔をくれた彼が、今は立ち上がる事も出来ず、青い顔をして横たわっている。その青白い表情を目にした瞬間、激しい悪寒が身体を走り、それはそのまま一本の鋭い針のように私の心臓を一突きした。途端、「ドクリ」と、内側から耳に付くように響いた心音はドクンドクンと激しく高鳴り、それに釣られるように息も短くなっていく。まるで呼吸の仕方を忘れてしまったかのように、空気は全く身体に入って来ない。ハッハッと必死に酸素を求めても、短い呼吸では満足する量を得られなかった。
頭痛がしてきて頭が働かない。視界が狭まる。
怖い、苦しい、気持ち悪くて吐きそうだ。



――――バタンッ!



勢いよく閉まった談話室の扉の音で、遠のいていた意識が引き戻る。
求めていた酸素を思いっきり吸いこんで、力の抜けてしまった私はゆるゆるとその場へへたり込んでしまった。
低くなった視線の先には、点々と染みが出来てしまっている床。
何だか目が離せなくって、私はとうとう、荒くなってしまった呼吸が落ち着くまで、その染みをジッと見つめていた。


今日、顔を合わせた同僚は、昨夜、誰かの命を奪ったかもしれない。
にこやかに笑顔を浮かべる上司が、恐ろしい命令を部下に下しているかもしれない。
しかし、その反面。
今日、顔を合わせた同僚は、昨夜その見返りに誰かの命を守ったかもしれない。
にこやかな笑顔を浮かべる上司のその瞳の奥は、涙の色を浮かべているかもしれない。

私はまた、なにを甘い事を考えていたのだろう。
そんな物、無事であってこそ考えられる事で。
人の生死に関わる時点で、関わる者の生死も関係していると何故考えつかなかったのか。

現に、つい数時間前、笑顔で私を気遣ってくれた隊員は、下手をすると、もう二度と笑えないのかもしれないのだ。

一体、自分の中で何をどう整理していけばよいのだろう。次元が違い過ぎて、もうとっくに容量オーバーで。働かない思考はもうクタクタだ。
そんな中、私は無心で立ち上がり、くるりと方向転換をした。

カツン…カツン…、カツンカツンカツンカツンッ!

考える事を放棄した私は、ヒールの音を響かせて、一目散に長い廊下を駆け抜ける。
私の足元で音を鳴らし続ける靴は、今日、無意識の内に履いていた、スクアーロが以前買ってくれた靴だった。談話室前で汚れてしまったのだろうその靴は、少しだけ紅色に染まっていた。
しかし、今はそんな事には目も暮れず、目的地へと一心不乱に駆けて来た私は、呼吸を整える事も、ノックをする事もせず、目の前に現れた重厚な扉を走ってきた勢いのまま乱暴に開け放った。
荒い呼吸のまま室内を見渡せば、家光様が「…なまえちゃん?」と、驚いたような声を上げ、ヴェルデくんもこちらへと振り返り、そして、その部屋の奥では机に足を投げ出したままのザンザス様が不機嫌そうな御顔でこちらを睨み付けていた。
失礼極まりない私の訪問に、何か物が飛んで来なかっただけでも凄い事だ。
家光様が居たから…かもしれないが。


「残念ながら、交渉は成立したよ。君は金策に走ってくれたまえ。」


ヴェルデ君が得意気にそう言った。一瞬、私の動きは止まってしまったが、疾うに思考は放棄していたので、その言葉に反応する事無く、数歩前へと進んだ。
一体どうしたと家光様とヴェルデくんの視線が痛い程突き刺さる。
そんな視線を全く無視して、私は、ザンザス様に真っ直ぐ目を向けた。





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