センチ漬け







カタカタカタカタ………


『あ、モスカ、ちょっとその資料取って………ん、ありがとう。』


ブラインドタッチの音と、モスカの機械音。それに紙を捲る音。
3つの音が忙しなく鳴り響く私の仕事部屋。
風邪で休んだ分と、ここ数日は身体に負担を掛けないようにスローペースで仕事をしていたので、いい加減、溜りに溜ってきた業務を片付けなければと、今日は朝から躍起になっていた。
手を休める事も無く、ひたすらせっせと仕事の音を奏でていると、合いの手を打つように部屋の外からリズムのよいノック音が聞こえた。


『はーい、開いてまーす!』


扉の方を見る事も無く、その音に声だけで答えると、扉がガチャリと開かれた。


「なまえ、そろそろ休憩しなさいよ。」


その言葉にやっとモニター画面から視線を外せば、そこにはルッスーリアが美味しそうなパニーノを持って立っていた。
途端に鳴った私の腹の虫は、何とも素直で正直だ。


「んもう!一度集中すると他の事なんてほったらかしになるのは、貴女の悪い癖ね。また倒れても知らないわよ。」


『……アハハ、全くその通りデス。』


ルッスーリアに痛い所をつかれて、ぐうの音も出ない。お腹からは、ひたすらぐぅぐぅ音が出ているけど。
それを見かねたルッスが「しょうがないわね!」と、パニーノを私に手渡して、飲み物の準備をしてくれる。


『ありがとう、いただきまーす。』


仕事に集中している時は、お腹が空いたという感覚が無いのに、いざ食べ物を目にすると、思い出したかのように空腹が襲って来るから不思議だ。


「お礼はスクアーロにもね。」


『え?なんでスクアーロ?』


「また無理して倒れる前に、何か持って行ってやれ。って、私に言ったのはスクアーロだもの。」


『………ふーん。』


相変わらず、面倒見がいいと言うか、見かけによらず親切と言うか。
ここ最近、仕事部屋に籠りっきりだったので、スクアーロとも顔を合わせてはいない。
実は少し気まずかったりもして…。
後々、冷静になって考えて見れば、あの日の私はスクアーロの言う通り、やっぱり少しおかしかったと思う。最終的には子供の様な言い合いをして無視するとか、小学生か!っと、突っ込まれてもおかしくは無い有様で。
今更ながらに恥ずかしい…。

思い出して、恥ずかしさのあまり心の中で悶えていると、ルッスーリアが紅茶の入ったカップを私へ差し出した。動揺から、それを溢さないように注意しながら受け取って、パニーノで乾いてしまった喉を潤す。
口の中で、ふわり。と、広がるアールグレイの香りに気持ちが落ち着くようだった。
ルッスーリアの淹れる紅茶は、毎回どれも美味しくて、私のお気に入りだ。


「ねぇ、なまえ?」


『ん〜?』


「あなた、なんでスクアーロを避けてるの?」


アールグレイの香りに絆されて、再びいそいそとパニーノを口に運んでいたのに、突然そんな事を言われたものだから、口に含んでいたパニーノをふき出しそうになって、慌てて食い止める。反動からか、噎せてしまって、ゴホゴホッと咳き込んでいると、ルッスーリアが、大丈夫?と、背中をさすってくれた。


『はぁ゙。死ぬかと思った……。』


「このくらいじゃ死なないわよ。それにしても、んふ♪何をそんなに動揺しているのか・し・ら?」


『………べ、別に動揺なんかしてないし、スクアーロの事も避けてなんていないよ。』


「そうかしら?避けているようにしか見えないけれど。」


そう言って、優雅な手つきでソーサーからカップを浮かせ、ルッスーリアも紅茶を一口飲み込んだ。サングラスの奥の瞳の色は見えないけれど、なんだか楽しそうに微笑んでるようにしか見えない。


「なまえ、この前“恋の喜びは一瞬だけど、恋の悲しみは一生だ”って言ったじゃない?それって、過去にとても辛い経験をしたって捉えてもいいのかしら?」


『………何?突然。』


ルッスーリアが、以前私がうっかり口を滑らしてしまった事を思い出したかのようにポツリと言った。
あの時は、たまたまジャンニーニが電話をくれたのでその場から逃げだす事に成功したけれど、今、この状況は逃げ出せる要素が一つも無い。
いつか突っ込まれるかもしれないと思ってはいたけれど、やっぱり来たかと身構える。
あまり、つまらない過去を掘り下げるのは好きではない。
自分で出してしまった話題なので仕方が無いのだけれど、うっかり言ってしまった事なので、出来ればこのまま聞かなかった事にして忘れて欲しかった。
まあ、そうそう自分の思い通りに物事は都合よく動かない。

ルッスーリアの質問に私がきちんと答えていないからだろうか、ルッスは黙ったままだ。
「どういう意味なの?何があったの!?」なんて、根堀り葉堀り尋ねられるより、逃げられないような変な迫力を感じてしまうのは何故だろう。


『……別に、辛い経験と言うか、つまらない事だよ。』


ついには根負けしてしまってポツリとそう言うと、ルッスーリアは意外にも、「そう。」とだけ言って、私が言う“つまらない事”をそれ以上掘り下げるような事はしなかった。
その代わり、紅茶をもう一口飲み干して、ゆっくりと私を見据えてこう言った。

「早く抜け出さなきゃ駄目よ?」


『え?』


「センチメンタリズムとナルシシズムからよ。ほんの少しそこに浸っているのはいいけれど、長々と浸っているものではないわ。」


カチャリ。


カップが再びソーサーの上に置かれる音が頭に響く。
何を言われたのか一瞬戸惑ったけれど、成程。ルッスーリアは私がまだ、彼女の言う“辛い経験”を引き摺っていると思ったようだ。
しかし、そんな心配には及ばない。


『大丈夫よ、そんな感傷的な自己陶酔からはすでに脱却してるわ。』


「そうかしら?そうは見えないけれど。」


ニッコリとルッスーリアが笑う。その笑顔を直視できなくて、思わず視線を逸らしてしまった。
そんな事は無いのに、そうは見えないと言われて何故か直ぐに反論出来ない。
そんな自分がどんどん情けなく思えてくる。
大体、その"つまらない事"は私がイタリアへ来る前、日本に居た頃の大昔の話なのだ。それに、10年間も引き摺っている程、私も暇ではない。
それなのに『違う』と直ぐに言い返せないだなんて、自分で自分にガッカリする。

これでは本当にルッスーリアの言う通り、長々とおセンチな池にでも浸かってると思われても仕方が無い。そんな精神的な段階からはとっくの昔におさらばしていると思っていたのに、実は気付いていないだけで、未だに私は過去から抜け出せていないのだろうか。


「ふふふ。まあ、いいわ。兎に角なまえ、傍から見ててスクアーロがあまりにも不憫だから、早めに何とかしなさいね。」


『え?あ、うん。』


もう行くわ。と、ルッスーリアが立ち上がる。
私は特にこれといった反応も取れないまま、ルッスの姿を見送った。

扉が閉まろうとした時、再びそれが少しだけ開かれて、出て行ったはずのルッスーリアがひょっこり顔だけ覗かせる。


「なまえ、男の傷は男で治すものよ♪」


そう私に告げて、笑顔のまま、今度こそパタンと扉が閉まった。
後に残された私は、やっぱり上手く反応が取れないまま、閉められた扉を暫く見つめていた。









『……………ルッス!?』


反応して、廊下に飛び出した時には、もうルッスーリアの姿は無かった。


『(男の傷は男で治せって……。何だか、勘違いされてない?)』


そう思ったが、勘違いだ!と、あながち強く言えない自分もいる。
顔を見てしまってはヤバイじゃないかと、思ってしまったあの日の事があったから。
ルッスーリアはそんな私の心情に薄ら勘付いているのかもしれない。
そういう部分の嗅覚は恐ろしく良さそうだ。


『恐るべし、ルッスーリア……。』


そうは言っても、今更どうにかしようなどと全く思えない。
長々とおセンチな池に浸っているべきで無いのは分かっている。
が、そもそも、そんなつもりも自覚も全く無い。
ただ、念のため例えるならば、"もし"実際にはずっと浸かっていたとしたら。それも10年も。
そうなってくると、もう浸り過ぎて、身体の芯からいい具合に漬け物状態にでもなっているのではないだろうか。まるで熟成されたワインのように、芳醇な香りを放ってまろやかになっているかもしれない。


『――と、なってくると、傷を治す必要も無し!ってね。』


これを言えば、ルッスーリアがどんな反応を取るかだなんて手に取るように目に浮かぶ。
それがなんだか可笑しくて、私は一人、クスリと小さく笑った。


部屋に戻り、机の上に散乱していた書類を簡単に纏めて片付けて、私は再び廊下へと飛び出した。
ルッスーリアの言う事には色々と思う事もあるが、ただ一つ、賛同した意見。
気まずさから、少し避けていたスクアーロとの事。
そんな大袈裟な事でも無いけれど、元はと言えば、私が全面的に悪い気がして、何とも申し訳ない。


『さてと、何処にいるかな?』


取り敢えずそれを何とかしようと、長い廊下を急ぎ足で進んだ。





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