満たされぬ聖杯を宿し者へ


「このまま道なりに進めばすぐ下山できる。それとこの道は他には教えるなよ、一般人じゃあ危険すぎる」
「なら私も普通の道から帰るよ」
「弱気だな。ジンの弟子なら大丈夫だよ」

 男は何を今更と言いたそうな顔をする。この男は昔、ジンに連れられてやってきた私を覚えていたらしい。先に下山すると言った私を放牧ついでに途中まで送っていってくれると言ってくれた。搾りたてのヤギのミルクや、温かい食事も提供してくれたおかげで長い道のりもそこまで苦ではなかった。男は道中色んなことを教えてくれた。狩の仕方や自然との関わり方、村同士で放牧地の取り合いの過激化。自分の生活とかけ離れたものばかりで興味深かった。そんな彼との時間も終わりだ。教えてくれたルートを辿ればここから僅か3日で下山できるというのだ。

「ここから降りるとバス停が近い」
「バス停?」
「海辺の街行きの。行きたいんだろう?」

 どうしてわかったのか詳しくは教えてくれなかったが、見ればわかるそうだ。男は特にすごい念能力者ではなさそうだったが、この山で暮らしている人達はなんらかで優れている人達が多い気がする。環境がそうさせたのか。冬は凍えるほど寒く植物も家畜も死ぬ。それが終われば畑を耕し家畜を育て冬に備えるために必死に働かなければならない。生きることで精一杯だろうに。しかしこの男のように、村人はそれに大変満足している。ここに住む人々は美しい輝きがある。確かに人混みで埋もれて自分を見失う社会よりはよっぽどマシかもしれない。ここでは余計なことを考える暇があったら働かなければならないからだ。私たちの社会には手に余るものが多すぎる気がする。豊かさとは何なのか考えさせられる。

 不意にジンから返してもらったネックレスの冷たさが胸に広がっていく。彼はこの冷たさを感じて苦しんだ日などないだろう。ジンは全てを受け入れているから強い。私は周りを受け入れ穏やかに振る舞っているつもりでも、自分のことで精一杯だった。本当に恐ろしいのは孤独でいっぱいになって、苦しくて息もできなくて、身悶えすることだ。それを知ったから強者を求めなくなった、孤独を恐れなくなった。しかし、本当に求めているものを受け入れられずにいたのだ。

「これをジンに渡してほしいの」
「こんなに高そうなもんをジンにやるのか?」
「うん。きっとジンと一緒にいたいと思う」

 これは父の形見だった。しかし私が持っているよりジンと一緒に旅をした方が断然父が報われる気がした。男と別れた後進んだ道は予想通り険しく、崖を下っているようなものだった。一歩踏み外せば奈落の底。ここで禿鷹の餌になるのはごめんだ。集中していれば3日で下山することができた。男の言っていた通りバス停がある。走ってきたバスに乗り込んで死んだように眠っていたと思う。運転手に肩を揺さぶられて起きた時には周りに敷き詰めあって座っていた乗客が消えていた。路面が悪い道の上を走っていたというのに12時間ほど眠りこけていたらしい。窓の外を見ると青い海が見えた。ここがバスの最終地点だった。

 荷物を持ってバスを降りれば広大な土地と海が広がっている。少し歩かないと人里まではいけないらしい。海を見たら、クロロに会いに行こう。砂浜を裸足で歩いていたが、思ったより貝殻の破片が多くて痛い。それに砂に足が埋まって全然前に進めない。痛みともどかしさでなんだか泣きたくなった。しかし私の気持ちには目も暮れず、太陽はもうすぐ沈もうとしている。赤くなった空が追いかけるように広がっていく。安らかな波の音で心はいっぱいになり、鮮烈な空に胸は焦げるようだった。ゆっくりと呼吸していた私の指に、何かが触れた。優しく、確かめるような手つきで触れる指先。懐かしい男の匂いが鼻先を掠めた途端にぐしゃりと顔が歪んだ。眉間に力が入ってしまって、腹の底から何かが込み上げてくる。幻覚でも、夢でもいい。懇願する自分に恥じることも疲れた。

「会いたかった」

 顔も見えないのに、秋の木の葉のようにカサカサに乾いた声が胸を締め付けた。喉の奥が細くなって咄嗟に心臓の上のシャツを握りしめる。それだけでは根本的な痛みは変わらず、空気を吸いむ度に雑巾で絞られているみたいな錯覚が起こる。それは現実だと痛みだけが教えてくれるみたいだった。

「私ね、強い人の側にいれば私まで何かになれた気がしたんだと思う。けど一人になってみてはじめて、私はこういう人間なんだなって思い知った。もう誰かに縋りたくはないんだよ。弱くなりたくないから」

 ぎゅっと手を引かれて後ろから引き寄せられた。密着している部分だけが火照るようだ。滑るように肋骨に当てられたクロロの掌が左胸の下まで動いて、まるで心臓の動きを確かめるみたいな手に自然に呼吸が早くなる。

「俺は、お前が笑っている時は嘘みたいに身体が軽い。お前の悲しみなら一緒に味わって苦しみたいとも思う。お前がクモの敵になれば殺すかもしれないが、お前の足が折れた時は背負って歩いてやる」

 クロロの高い鼻が首筋と耳の隙間に押し込んできて、繊細な髪が皮膚に触れる。

「お前には俺の矛盾がわかるだろ」

 喉の奥に声が込み上げ、必死になってそれを呑み下すと代わりにポロッと涙が溢れた。

「うん、わかるよ」

 無意識に背後のクロロにもたれると、顎に手がかけられ顔を仰向けにされた。そこで今日初めて真っ黒の瞳と目が合う。改めて威力を持つ視線に骨抜きになってしまったようだ。下から見上げても美しいその風貌に息を呑みながらも、骨董品のようなこの男が自分を求めていることが嬉しくてたまらないのだ。クロロの指が私の目尻を優しく撫でると唇が触れた。熱くて、溶けてしまいそうなキスだ。倒れかかっていた身体を反転させられ向かい合って抱きしめられると肺が彼の香りでいっぱいになった。懐かしさと温もりによじれた心が包まれていく気がする。次第にしゃくり上げて泣き始めた私の両頬を大きな掌が包み、クロロの額と私の額が触れ合った。彼の瞳が私を捕らえている。このまま溶けて、形を無くしてしまえたらどんなにいいだろうか。ずっと一緒にいられたらいいのにと思いながらもそうできないことも既に受け入れられている気がした。この男を好きだと認めるということはそういうことだから。気づけば自然に言葉が漏れていて呟いていて、クロロは目を丸くしてこちら覗き込んでいる。驚いているのか真意を確かめているのか。

「お前の口からそんな言葉を聞くとはな」
「もう言わない」

 急に羞恥が込み上げて顔を背けると触れていたクロロの手が強引に顔を引いて、また彼の唇が噛み付いてきた。今度は荒く貪るような口づけに体の芯が熱くなっていく。何度も噛みつかれ、苦しくなって肩を叩けばようやく解放された。肩で呼吸している私を今度は抱き寄せて、これでもかというぐらい強く抱きしめられた。痛かったけれど、その痛みが愛おしい。このまま溶けるように、孤独も、感情もわからなくなってしまえたらいいのに。



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