Gospel of Judas


 大理石でできた床を大半の人が注意深く、ゆっくりと歩いていた。見上げれば壁に敷き詰めるように並べられた絵の数々、どれも古くて価値のあるものばかりだ。ここは革命時代で打撃を受けた城を再び再建し、中に美術品を飾った美術館のような、観光地のようなところだった。私はどちらかというと、美術品よりかは城内の内装や、花柄のタイルが敷き詰められた一角や、アーチなんかが好きだった。美術品が飾られていない一角で足を止めて、ステンドガラスから差し込んでくる光の具合だとか、この空間の全体的な雰囲気だとか、空気だとか、香りとか、そういったものが私を造っている源であって、私のこれからの道を示すものでもあるような気がする。

 長い廊下は観光客でいっぱいになっていたが、クロロがどこにいるかはすぐにわかる。最初に見たあの後ろ姿となんら変わらない。美術品をそこまでじっくり見ているように見えなかったが、何を考えているのか、思慮深そうに時々立ち止まったりしている。黒いスラックスに手を突っ込んで立っているだけだったが、そこには静けさと凄みがあった。一人で生きてきた人の強さなのかもしれない。私はそういったところに惹かれたのだと思う。後ろにいた若い女の子達がクロロの事をまるで王子様みたいだと話していて思わず吹き出しそうになった。王子様というよりかは、魔王か死神だろうに。あの男は必要であれば私の命ですら奪うから。もうそれに関して悲しみはなかった。割り切れているわけではないが、それを選んだは自分だったからだ。気づけばぼうっと突っ立っていた私の前にクロロはいた。

「どうしたの?」

 突っ立っている私たちを避けて両側を人の群れが通っていく。しかし私達だけはどこか時間の流れが違っていた。クロロは何も言わないで私の手を引いた。城を出る頃には辺りは暗くなっていて、お腹も空いた。夏特有の気温と風が心地よかったのでテイクアウトしたサンドウィッチを浜辺で食べた。私達は何だかんだ海が好きなんだ。いや、海に2人でいるのが好きなのかもしれない。少し肌寒くなってクロロに身寄せると横目でクロロはこちらを見た。またその視線を不思議に思い「もしかして私の事相当好き?」とくだらない事を口走ってみる。するとクロロは繋いでいた手の力を強めた。

「痛いよ」
「これぐらい、好きかもな」

 ふっと軽く笑った彼の横顔に心に吹き抜けるような風が通った。ふわふわと、している。なんだか落ち着かなくて抱きついてみればクロロの手が背中を撫でる。

「もしかしたら、愛しているのかも」
「え?」

 耳元で聞こえた言葉の強さと柔らかさに思わず声が漏れた。愛するというのは簡単には言えないだろう。生涯で一度、愛せる人に出会えるか出会えないかだろう。心が真っ先に走り出しそうな思いだったが、また泣きたい気持ちになった。幸福すぎる時には終わりがあるからだ。先のことは誰にもわからない。わかりたくもない。でも今は抱きしめ合っているこの人と鮮やかな感情を取り戻したい。彼の体が離れると手を引きながら歩き出した。とりわけ背が高いわけではないけれど、広く感じる背中を見つめているとクロロは鼻先だけこちらに向けて振り返る。

「帰ろうか」
「うん」
「手料理でも作ってくれよ」
「クロロが作ってよ」
「なら俺のために、コーヒーぐらいは入れてくれ」
「仕方ないな」

 嘆息して答えると、クロロは眉尻を下げて目を細める。我儘な私に、なんて優しい目をするんだろう。握りしめた手を引いて、背伸びして頬にキスをした。クロロはまた一瞬固まってからもう一方の手で口元を抑える。なんだか今まで見たことないような表情をしていた。相変わらず耳元の青い飾りが印象的で綺麗だ。さっきまで幸せを噛み締めていたというのに途端に胸の奥が痛くなる。恋愛なんて常にこのような不安や孤独を伴うものなんだろう。でももう怖くない。彼になら私のこの壊れた心を直してほしいから。


***


 夢を見た。懐かしくて繊細な夢だった。海辺に布を広げて寝転んでいたら自然と眠っていたみたいだった。重たい体を起こしてみれば、夕暮れを背景に真っ黒の長い髪が目の前で風に靡いていた。歪みの一つもない、イルミの真っ直ぐで艶めいた髪だ。どうしてここにいるのがわかったのだろう、一体何の用だろう。イルミとは暫く会っていなかったし、ゾルディック家にも行っていなかった。

「……それは、何かの冗談?」
「残念ながら違うよ」

 近づいて私の姿を見たイルミの全身から、悍ましい気配が湧き上がるのを感じた。今ここに、彼の前にいてはいけない。全身が粟立ち、体の内側からイルミに怯える警報がなっている。それでも地面に踏ん張って立っていたのは矜持だったのか、よくわらない意地だったのかもしくは諦めであったのか、わからない。

「怒らないでよ」

 ただイルミには今にも泣き出してしまいそうな声に聞こえたのだろう。髪が逆立ちそうな勢いだったのが一瞬で霧散した。軽蔑するような鋭い視線を向けながらも、その口元は懸命にこちらの言い分を待っているように固く閉じられている。

「もう産むって決めた」
「あの男の子供なんて何になる?子供がいたって二人とも仲良く捨てられるのがオチだよ。なにより、親父は助けてくれない」
「いいの。私一人で育てるつもりだから。でもイルミは、貴方は私の味方でしょう?」

 さらに鋭い視線を向けられて、イルミの眉間に深く皺が刻まれる。納得のいかない思いを押し出すように私を睨みつけるイルミは、まるで小さな子供が癇癪を起こした時のような顔をしていた。しかし私はこの男の優しさを利用しようとしているのだ。イルミは一瞬たりとも表情を和らげることはなかった。「俺は絶対に許さない」と口にも出した。でも彼には私の意志を変えることも、傷つけることもできない。

 クロロはこの事を知らない。遠くに行くと言ってから、随分長い間会ってない。寂しさは少しあった。不安もあった。でも怖くはなかった。この子が私を強くしているようだった。私は変われる。結婚も、一般的な家庭もあげられない。でも愛することはできる。クロロを愛したように。

 それから半年後に娘が生まれた。黒い髪でクロロによく似た女の子。あれからずっと怒っていたイルミが訪ねて来た。妙なものを見るように赤子を見下ろしているので「抱いてみなよ」と娘を押し付けるようにすると顔を顰めながらも娘を抱いた。下に弟達が沢山いるので抱き慣れているのだろう、その手つきは不安なものではない。暫くじいっと娘を睨みつけて突然「目がお前に似てる」と言った。ホッとしたのか私の方はなんだかどっと疲れた。

 娘はどんどん大きくなった。いつの間にか歩くようになって、流暢に喋るようになった。早送りしているように時が流れている。一人で子育てしていて大変なことは沢山ある。しかし苦ではなかった。楽しかった。それに毎年匿名で大金が口座に振り込まれる。それがクロロなのか、意地を張っているイルミなのかは不明だ。どっちも可能性が高かったし、どちらでもよかった。見返りを求めない物だ。貰えるものはもらってこの子のために使おうと思う。もし、クロロが急に訪ねてきたら今度こそ手料理を作ってあげようと思う。そして娘を優しい目で見るだろう。あの時のように、信じられぬほど暖かい視線で。
 




END



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