僕らの余白に


「さっきは助かったよ。ナマエが来てくれなかったらここまで来れなかった」

 ゴンがいなくなった黒塗りの病棟、薄暗い廊下は冷え切っている。キルアは膝の上に乗せたアルカを大事そうに抱きしめる。冷たい空間に広がった声色は落ち着いたものだったが、その中に込められた意志はキルアの首を締め付けているように感じた。悔しかった。キルアはもう少しで大切な友人を失いかけ、今は必死に家族を守ろうとしている。レオリオの言う通りだ。私は今まで見て見ぬふりをしてきた。

「これからは私が二人を守るから」

 膝を折って、下から碧眼を見上げるとそれは一瞬見開いた。私が好き勝手生きている間にキルアには背負うものが増えた。まだ幼かった彼がどれほど苦労したのか、キルアの傷だらけの体や目を見ればわかる。ゾルディックで育った彼が受け入れられない事態や辛い事が沢山あっただろうに。胸の奥が痛くて堪らない。

「まさかお前がナマエを巻き込むなんてね」

 奥から聞こえてきたイルミの声にキルアの目が変わった。咄嗟に二人を庇うように立つと、闇に溶けていたように現れたイルミが酷く乾ききった目をしている。溢れ出る威圧感に皮膚がひりついて自然に体を緊張させていた。

「私は自分の意思でここにいるんだよ、イルミ」
「本気で俺と闘る気?さっきは見逃したけど今度はそうはいかないよ」
「私が本気じゃないと思う?」
「はっ、あれほど俺達に関わりたくないと言っていたくせに」

 鼻で笑ったイルミはこちらを挑発するような視線を向ける。お互い石の投げ合いのような討論が続き、加速的に苛立ちは増していく。

「ナニカの能力をゾルディック家のために安全かつ効率良く使えるのは俺だ。今のままじゃアルカは一生開かずの間の座敷童だよ。だけど俺がお前ごと管理するなら、最低限の自由は補償してやれる」

 その言葉にぶわりと怒りの念が押し広がった。拳がブルブルと震えるのと同時に凄まじい空気が屋内を震感し出す。よく似ていた。カイトの件で感情が炸裂した時と。内側から火が指先へ、足へ広がっていく。イルミが眉間に皺を寄せて腰を僅かに下げ構えた。大人になってイルミと本気で闘うなんて初めてだった。どうせ薄情な奴だと思っているのだろう。あれ程助けてもらったのに今はイルミに牙を剥いている。

「二人共やめろ!」

 突如響いた低く太いキルアの声、体が透明の壁にでもぶつかったように止まる。

「アルカは、俺が守る。兄貴もナマエの助けも要らない」

 まさかそこに自分の名前も含まれると思っていなかったのだ。驚いて振り返った時、力強い眼光が胸を貫く。こんな目ができるようになったのかと感心する反面、寂しくもあった。瞬きもできずにいるとキルアは口元を少しだけ緩めて、眉を下げた。

「ナマエには自分らしくいてほしい。じゃないと、困るんだ」

 それが今、なんの関係があるというのだ。キルア達を守ることだって自分の意思だ。そう言いたいのに喉元が拳を押し付けられたように苦しくなって、うまく声が出せなくなった。キルアの名前を呼ぼうとしたがそれより先にイルミが動き出そうとしたのを感じ取った。そうはさせない。キルアとアルカには指一本触れさせはしないと意気込んだ時、キルアの強い声が再び鼓膜を揺らした気がしたが、何を言ったのか理解できなかった。瞬きした瞬間には、目の前にはシルバやキキョウ、ミルキがいてその向こう側にはスクリーンにら映し出されたキルアが見える。ここは、さっきまでいた空間ではない、ゾルディック家に私はいた。隣では同じようにイルミが佇んでいる。一瞬でキルアに二人共追い払われたのだ。これがナニカの能力によるもので、キルアの命令ならリスクがないということか。ますますイルミが喜びそうな展開ではないか。しかし思考は目の前でこちらをじっと見つめるシルバに大半を奪われていた。よりによってゾルディック家に飛ばすなんて、キルアもタチが悪い。恨む気にはなれないが。

「ナマエ、怪我はもういいのか」
「大丈夫、です」
「お前の意志を尊重せず悪かったと思っている」
「…え?」

 その言葉に拍子抜けになった。それが表面だけの感情かどうかは今の私には計り知れない。叔父はそれほど甘い人ではない、しかし全てを知っているわけではない。

「またお前と話したい。いつでもここに帰ってこい」

 それだけ言ってシルバはスクリーンに視線を戻した。横で様子を伺っていたキキョウは口元を緩め、ミルキは納得がいかないような顔でこちらを睨んでいたが同じようにこちらに背を向けた。既に関心はこちらにない。なんて呆気なさだろうかと思わず息を吐き出したが、隣ではイルミが顔を顰めたままだった。

「ちょっと、きて」

 イルミの腕を掴んで部屋から引きずり出す。以外にも大人しくついてきたが「俺と闘るんじゃなかったの」と憎たらしく問いかけてきた。

「もう闘る意味ないよ、わかってるでしょ?」
「まあね」

 先ほどみたいに怒りの矛先をイルミに向けるのはなんだか気が引けた。キルアを見逃せとか、解放しろとか、今更そんなことイルミに言ってもどうしようもないからだ。この男の考えを変えることほど難しい事はない。何より昔からそういう男だった。いや、環境がそうさせたんだろうが、不器用なのは自分も同じだ。

「俺に話があるんじゃなかったの?」

 自分から引っ張ったくせにイルミを前にして何を言えばいいのかわからなくなっていた。この男は説教を聞くつもりもないだろう。イルミの腕を掴んだまま動けなくなってしまう。背が高いから細く見えるけど筋肉質で自分より断然太く逞しい腕はいつだって優しかった。悲しみに濡れてどうしようもない日は柔らかく包んでくれた。イルミは顔を傾けて掴まれた腕をそのままにしながら言葉を待っている。この時だけは自分中心でいつも皮肉ばかり言う男の腕が愛おしくも見えた。

「イルミが困ってたら必ず行くから。寂しかったら、傍にいてあげるから」
「は?」
「だって大事だから。キルア達と同じように、イルミだって大事なの」

 さっきまで本気で闘おうとしていたくせに、自分でもいきなり何を言っているんだと思いながら、言葉は意外にすんなり続いた。イルミは何か奇妙なものを見るような目をしてから思いっきり嫌そうに顔を顰めたのだ。手を振り払われてイルミは背を向けて歩き出す。何が気に障ったのかわからないままだ。「なんで怒るの」と背中に問いかけてみれば足を止めたイルミの目がぎょろっとこちらを見た。

「嘘だね」

 重苦しく吐き出された言葉にムッとした唇を噛んだ。

「嘘じゃない」
「お前は昔から大嘘つきだよ」
「何それ。私がいつ嘘ついたって?」

 再び歩き出したイルミにヤケになってついていくが、足の長さが違うので自然に早足になる。急にイルミが足を止めると同時に額がイルミの背中に激突した。

「じゃあ俺がずっと傍にいてって言ったらお前はどうするの?」

 イルミは振り返らなかった。声色に優しさはない、ただ不器用な強がりが滲んだような声だ。核心のような気がした。イルミが今まで私に向けていた感情の、答えだ。

「傍にいるよ」

 イルミの長い髪が少しだけ揺れた。どんな顔をしているのは分からない。迷うことなく答えたつもりだった。イルミもそれを感じたのだろう、だから戸惑っているのか暫く沈黙が続いた。

「本当に、馬鹿だね」

 どこかあどけないものを残しているようなふくよかな声だった。イルミは再び足を踏み出す。その背中には先ほどまであった重たく暗い影はないように見えた。イルミに馬鹿だと言われる事は多い。そうだと思うし愚かだとも思う。しかし私が見て感じるものには何か意味がある気がするから。それは私以外では気づけないものであるから。僅かに押し出されて膨らむ感情がこのままイルミの中に在り続けてくれればいいと強欲にも思う。イルミは大切だった。それはジンやクロロに抱いた感情とは全く違うけれど、私たち二人の間には複雑で言い表し難い関係が、答えを持つ事なくただ存在している。



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