軋む歯車


 国立病院の窓ひとつない一室。眩しいぐらいの白い光で照らされたベットを囲う透明の遮断シート。いつ緊急の手術が行われてもいいように医療機材が並べられている。遠目から見ても危機感を感じさせる状況に自然に足が止まる。それでも後ろに控えているモラウやレオリオからの圧で引き下がることはできない。浅く呼吸しながらシートを潜ってベットに近づいた。骨に張り付いた皮膚は硬くなり、生気というものが全て吸い取られたようだった。無数に付けられた管や、呼吸器でようやく命を繋いでいるような状態。無垢で活気に満ちた少年の面影はもはやない。口の中が異常に乾燥していた。そして少年を覆う悍ましき念に向き合った時、ナマエは根源なる恐怖と向き合った。全身が粟立ち体が怯みそうになたが、ゴンの前でそんな失態は許されない。ナマエがゴンに吐き捨てた無数の悪態が風船のように胸で広がって喉元が苦しくなった。

「なあ、どうなんだよ、あんたならゴンを助けられる方法知ってるだろ?」

 レオリオの声は自分自身を宥めるようだ。王を倒したのだからゴンだって救えるはずだと期待していたのだろうが隠しきれぬ焦燥が全体に滲み出ている。

「……私は、何もできないよ」
「でもキメラアントを倒したんだろ?何かあるはずだ!」

 がっと、両肩を掴んだレオリオの目を見てナマエは唇を噛んだ。取り返しのつかない酷いことになってしまったのだ。自分がゴンと一緒にいればこうならなかった。キルアだって死んでいたかもしれない。

「あんた、見たことあるぜ。キルアの家に行った時にいた奴だ。キルアのことも、ゴンのことも、なんでもっと気にかけてやらなかったんだよ!」

 レオリオの声は鼓膜から入り込み傷口を抉るような痛みをもたらす。ごめんなさい、と口に出すのも気が引けて、うまく言葉を紡げない。

「おいレオリオ、そこまでだ。現にナマエが王を倒さなかったらもっと酷いことになってたんだぞ」

 王を倒した事もナマエの記憶にない事だ。他人事のようにか聞こえない、庇われている気さえしない。レオリオは両肩を掴んでいた手をゆっくりと離すと、深く刻んでいた眉間の皺を振るわせた。力なく細まった瞳が潤んで、その奥は悲痛な色をしている。レオリオは優しい奴なのだろう。友人であるゴンとキルアの痛みを分かち合い、怒ることができる。キルアは本当にいい友人を持ったのだとこの場にそぐわない思考を打ち消すことはできなかった。幼少期のキルアをよく知っているからだろう。きっとキルアもレオリオと同じ目をしているはずだ。海のような碧い目を思い出しては、痛みに掻き消される。

「キルアに頼るしかねえのかよ、クソ」
「…キルアに?」
「そうだ。今、ここに向かっている。ゴンもそれに合わせて移動させなきゃならない」

(まさか、アルカの能力を?)

 ナマエはアルカにあまり関わったことがない。覚えているのもほんの小さな時の姿ぐらいだ。確かにアルカならゴンを直せるだろう。しかしそれにはリスクが伴うはずだ。まさか自分でそれを負うつもりなのか。イルミもシルバも黙っている筈がない。間違いなく家族内指令の最中だろう。項垂れていた背骨に稲妻が駆け抜けていき床に縫い付けられた足の筋肉が震える。

「行かないと」
 
***

 病院から60kほど離れた森の中をナマエは走っていた。日が落ちて視界は悪いがナマエは夜目が効く。既に円で感知したイルミの針人間、執事、キルアとアルカ、そしてイルミが集まっている方向に一心不乱に走り続ける。何度も足がもつれそうになり、呼吸もうまくできない。最近までろくに食べていなかったせいで貧弱になっていたがこれでも大分体重は戻ってきた方だった。体は戻ってきても、体力は人一倍努力しないと戻らない。ようやく視線の先で闇を照らし出すライトが見えた。その下でアルカの肩を抱いているキルアを見つけ安堵の息が漏れる。道を阻むように立っているイルミとキルア達の間に割って入ろうとした瞬間、体が引き戻され気付けば後ろから伸びていた男の腕によって拘束されていた。口を開こうとしたが口元も大きな手のひらですっぽり覆われる。

「ダメだよ、邪魔しちゃ」

 耳元で響いたヒソカの声にざっと血の気が引いていく。キルア達に夢中で全く気配に気づかなかった。この男も円の範囲に入らないように自分を追跡していたに違いない。片腕だけで体を拘束しているというのにちっとも身動きができない。背後で喉を鳴らして笑っているヒソカを睨むと口の端を吊り上げた。ナマエの口元を覆っていた手を離したが「シーッ、今いい所なんだよ」と指先を立てて口元の前まで持ってくる。どうやらイルミがヒソカに協力を頼んだようだ。ヒソカから漂う血生臭さが喉の奥まで入りこみ咳き込みそうになる。ヒソカも、イルミも沢山人を殺したんだ。濡れた綿のようにずっしりと体が重い。手で作っていた拳に力が入り、小刻みに震える。頭の中がぐちゃぐちゃでこめかみがジンジン、と痛む。

「どうせ、アルカもキルアも殺すつもりなんでしょう」

 ヒソカの瞳が恍惚に細まった瞬間だった。「正解」と頬を緩ませて、ご馳走にありつく前舌舐めずりするように唇を舐める。

「正確には、イルミも殺ってキミと闘る」

 この男はいつも、そうだった。闘うことだけにしか快楽を得られない、なんで寂しい男なのだろう。しかしそれはこの男の揺るがない強さで、魅力でもある。最初は惹かれていたのだろう。しかし、ナマエは知っていた。気づいてしまうのも恐ろしい、ヒソカの中の弱さを。

「ヒソカ」

 腹に回っていたヒソカの腕に手を置いて、手の甲まで滑らせる。ヒソカの手を優しく覆うとピクリとヒソカの眉が動いた。

「お願い、あの子達を助けたい」

 今までヒソカに向けたことのないような優しい声色で、視線で。指先の熱がヒソカの皮膚を痺れさせ、切長の瞳が一瞬見開いて、眉が困ったように下がった。期待通りであったが、このヒソカの表情は実際には見たことがない。深く息を吐き出したかと思えばヒソカの顔が首元に埋まった。「キミってやつは、最低だね」とくぐもった声が聞こえてきて、吐息が首元を擽る。腹に回っていたヒソカの腕の力が抜けると体は容易に自由になった。

「ありがとう」

 ナマエは最後にそう口にして、地面を蹴る。ヒソカは小さく笑っていた。先程まで確かにあった血が逆立つような感情が、すっかり毒気を浮かれたように空白になってしまった。しかしそんなものは時間が経てばすぐに満たされ元通りになるだろう。嫌がるようなことばかりしてきた。突いて中にいる凶暴さが顔を出すのを待っていたつもりだったが、とっくに見透かされていたのか。しかしまだ、このぬかるみに浸っていたいと思う自分が不思議だった。ヒソカの唇がこれまでになく緩やかな弧を描き、らしくない感情を覆い隠すように片手で目を覆った。

「あんな顔ができるなんて知らなかったよ」

 



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