運命の輪の中へ


「鍵開いてたぞ」

 なぜ、この男がここにいるのだろうか。しかも堂々と玄関から入ってきた。ナマエはいまだに呆然と目を見開いたままだった。呆気にとられて口は半開きになっているのに、一向に何も話さないナマエをジンは下から上まで見てから眉間に皺を寄せ目を細める。何も言われていないのにそれだけで胃がぎゅう、っと締め付けられた。なんてザマだ。と言われているように感じたのだ。ジンに漂った憤りのような何か、理由はわからない、とにかく心当たりが多すぎる。無意識に床につけた尻を引きずって後ろに下がったが背中の骨が壁に当たると同時にジンは目の前にいた。床に座り果てたナマエに目線を合わせるように膝を折り、焦茶色の瞳の奥で瞳孔が開いている。ジンの背景が黒ずんで見えるほど明らかな感情の現れに背中に嫌な汗が流れる。逃げ出してしまいたい、部屋の入り口をチラッと視線に移した時、顔の横で壁が嫌な音を立てた。

「逃げんなよ」

 鈍く放たれる低い声と共。顔の真横、壁に埋まっているのはジンの拳だった。圧倒的な凄みで体が石にでもなったかのように強張って、皮膚が敏感に張り詰めている。まるで昔に戻ったみたいだった。ナマエの顔から血の気が引き、呼吸が浅くなり、胸が大きく上下する。それでもジンは動かなかった。何に対しての憤りか、本当は自分の中でわかっている。ナマエの心で張り詰めていた一本の糸がジンの眼光によってみるみるうちに細くなり、プッツン、と今にも切れてしまいそうだ。それを呑み込み喉元で押さえ込んでいたのは矜恃だったのだろう。

「一体どういうつもりだ?」
「な、にが」
「最終試験を放棄するとはいい度胸じゃねえか」

 不意に顔が冷たくなるのを感じた。動悸が激しく鳴っている。背中の毛穴が開いて悪い予感が溶け込んだ汗が滲み出てきた。だが同時に矛盾も感じた。この男は弟子が最終試験を放棄したところで痛くも痒くもないはずだ。そんなことに眼中ないだろうと思い切っていたがジンは間違いなく怒りを表している。そしてその傲慢さに腹の底から静かな怒りが込み上げた。

「どうするかは私の自由だ」

 今まで何をしてきたって放任主義で基本関心など抱かなかったくせに。金魚の糞のようにまとわりついていた女が急に自分を追いかけなくなれば機嫌を損ねるとは。至近距離で反抗的な視線を向けてやればジンが目を尖らせて身震いするのがわかった。頬がピクピクと動き、よく知っている本気で怒っている時の顔だ。きっと胸をナイフで貫かれるような鋭い言葉を浴びせられるだろう。いつだってそうだった。この男は正論しか言わない。だから痛かった。

「ずっと一緒にいてくれって言ったのはテメーだろうが!」

 カッと目を見開いて、鼓膜がジリジリと震えるほど大きな声。そこに滲んでいた感情の色が胸の中でじわじわと広がっていく。縮まっていた肺が大きくなり、窮屈そうにしてた肋骨が押し広がって行くような感覚だった。すっかり考え事が喪失してしまい、拍子抜けの表情をしていたに違いない。呆気にとられているナマエを前に正気を取り戻したジンは決まりが悪そうに手を引っ込めた。

「…もしかして私のこと待ってた?」

 窓枠から差し込んでくる光が心地よく微睡んでしまいそうになるほど呼吸は落ち着きを取り戻していた。言おうか言うまいか迷っていた言葉だったくせに自然に吐き出せてしまった。傷つくことも承知の問いかけだったのに。ジンは顔を下に向けて「さあな」と拗ねたような声で吐き捨てるように言った。ジンの確かな感情の現れを、疑いたくなどなかった。自然にジンの頬に伸びかけた手をもう片方の手で押さえつける。暫く続いた静寂、どう言葉を切り出していいのか分からなかった。しかし最初にジンは立ち上がった。

「まぁ、色々あったのは見りゃ分かる」

 変化した髪色も、情けなくなった体も、ジンから逃げた理由も説明しろと言われても到底できなそうだった。遠のいたジンの体。また行ってしまうのだろうと、隠し切れぬ感情から目を背けるように俯いた。しかし頭に降りてきた大きな手の感覚、それは髪をぐしゃりと撫でる。喉元で押し止めていた感情が今にも噴き出しそうだった。

「カイトのことは聞いてる。でもな、お前何年あいつと一緒にいたんだよ。あいつの念能力をよーく思い出してみろ」

 上から響いた言葉が稲妻のように足の先まで駆けていく。一気に熱いものが目頭まで込み上げた。

「二週間後、あそこで待ってる。それまでに食うもん食っとかないと死ぬぞ」

 拒否を許さないように頭を押さえつけた手が、ふわりと軽くなって消えた。それでも顔を上げられなかった。ぼろぼろと溢れていく涙が真っ白なシャツを濡らす。両眼を塞ぐように両手を押しつけても込み上げた嗚咽が邪魔をした。

***

 車の窓を開けると潮のにおいが押し寄せる。目が痛くなるほどの鮮やかな空と海。海は空の色を写して深く沈み、大きくうねりながら波頭を白くきらめかせている。海の色はナマエの街の方が透き通っていて美しいと思ったが、ナマエの中で重く絡まったものがそう見させたのかもしれない。先日、モラウから教えてもらった住所はこの地域の街から外れた場所だった。海に面した丘、果てしない坂道をアクセルを吹かしながら登っていくと一軒の屋敷が佇んでいて、中からは複数のキメラアントの気配を感じた。屋敷から出てきた若い女にカイトを訪ねてきたと告げると、すぐに中へ通してくれたが女は張り詰めたような空気を纏っていた。屋敷のあちこちで息を顰めこちらを伺っている者たちの視線が矢となって体に突き刺さってくるようだった。居心地が悪い。

「こっちだよ」

 心臓が皮膚を突き抜けてきそうなほど大きく脈打っている。階段一つ一つを登っていく足が小刻みに震えているような気がした。一つの扉の前まで来るとはけ口のない耐え難い圧迫感で押し潰されそうになる。今にも腰が引けそうで、重たい頭がぐらりと揺れる。しかし扉が開いて、赤髪が見えた時、顔がぐしゃりと歪んだ。

「ナマエ、わざわざ来てくれたのか」

 体はまだ小さいのにやけに流暢に話す少女の視線がこちらに向く。もう以前のカイトの姿でも、声でもない。先程まで圧迫していた胸を突き上げてくる感情、熱いものが頬を流れるとカイトはぎょっとして駆け寄ってきた。「どうした、何があった」と困惑した様子でこちらを見上げてくる視線は以前のカイトと何も変わっていない。今まで溜め込んでいたものが吹き出して溢れ出した。

「随分心配してくれたみたいだな」
「当たり前だよ……すぐに駆けつけられなくて、ごめん」
「お前が謝ることじゃないさ」

 暫く泣き喚いたからか心なしか体が軽かった。向かいのソファでこちらを見つめるカイトは口元を緩めて笑う。その笑い方も変わらないままだった。謝りたいことも、聞きたいことも沢山あるのに言葉が出てこない。しかしカイトが目の前にいるという事実だけで何故か充分だった。不意に扉がノックされた。入ってきた先程の女がお茶をテーブルに運んできたのだ。「ありがとうございます」とお礼を言うと女は微笑する。しかしその指先は小刻みに震えていた。女が出ていくのを待ってからカイトに視線を移すとティーカップを片手に息を吐き出していた。

「気を悪くするな。皆、お前のことをよく知らないからな。あのネテロ会長さえ果たせなかったキメラアントの王を倒したんだ。ハンターでもない人間が。恐ろしくもなるさ」
「…本当に私が倒したのかな」
「…そう聞いているが?」

 あの時の記憶がナマエの中ですっぽり引き抜かれたように消えていた。思いだせるのは、キメラアントとしての形を無くした王の姿と、白髪の女の姿が一緒になって地面に横たわっている場面で、自分がそうしたのか、そうでないのかさえ判別がつかなかったのだ。ナマエの中にはカイトを失った痛みだけが強く残っていた。それからも記憶は曖昧で、気づけば家の隅で蹲っていた。

「あんまり覚えてないんだ」
「…そうか。まあ、この件は関わった奴らしか知らないから安心していい」

 ナマエの胃がぎゅっと縮こまり拳に力が入ったのを察したのかカイトは柔らかい笑顔を浮かべた。世間ではネテロ会長が倒した事になっている。平凡でいたいナマエからしたらそのほうが都合が良かった。それでもナマエにはゼノの言葉が付いて回る。もしかしたら自分が拒絶していたことも簡単にできてしまうのかもしれない。シルバの元にいた方が楽になれたのかと、思う日もあるのだ。

「ナマエはまだ、ジンさんが好きか?」

 唐突な問いかけに俯きかけていた顔を上げた。カイトの顔はいたって真剣そうで、笑って誤魔化そうにもそうできないような雰囲気だった。数日前に自分の元に現れたジンは、幻想のようだった。変わらない自分を照らすもの、縋り付いてしまいたくなるほど強い光。ジンへの感情はきっと変わらず心にあり続ける。しかし同時に身を焼き滅ぼすような熱い塊が存在している。太陽が海に沈んでいく光景を見る度に、あの男を思い出す。



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