錆びゆく君の声


 心臓が忙しなく動き身体中が熱いのに、肺に入れる空気は冷たい氷のようだ。ここは、夜になると驚くほど寒くなるらしい。ほとんどの店が既に店仕舞いし人もまばらな寂しい街中をナマエは歩いていた。通りの角を左に曲がれば暖色灯に包まれた静かな小道に出た。白い壁が今は穏やかな夕暮れ色に染まっているように見える。ナマエは街灯が届かない路地裏へ入り込むと壁にもたれた。息を吐き出すとそれは白くなって散っていく、その様子を細目で眺めていたが次第に体は引きずられるように地面に近づいていた。冷たい地面に座り込んでしまえば手で押さえつけていた腹部の鋭い痛みが増した気がする。歩いていたほうが気が紛れてよかったのかもしれない。

 シルバの元から流石に無傷で逃げられるとは思っていなかった。殺されていてもおかしくなかったし、こちらもその気でいかなければならなかった。我ながら馬鹿なことをしたと思う。どうも最近は冷静になれていない気がする。ぼんやりとした視界が霞みそうになった時、ポケットの携帯が鳴る。息をついて応答すれば、見知った声が耳元に響いた。『久しぶりだな』と少しクセのある低い声、カイトだった。

「久しぶり、どうしたの?」
『いや、お前に頼みがあったんだ。それより、なにかあったのか?』
「どうして?何もないよ」
『嘘つくな。お前は昔からわかりやすい。それで、大丈夫なのか?』

 カイトの声から焦燥が滲み出て、穏やかな優しさを感じてしまえばカッと目頭が熱くなった。喉が込み上げてくる涙を呑み込むように動く。大丈夫ではなかった。負傷のせいじゃない。心がボロ雑巾にでもなってしまったかのように擦り切れているようだった。大丈夫なのか、という言葉を待っていたように胸がいっぱいになり、溢れ出してしまいそうだ。

「……すごいね、カイトは。でも大丈夫だよ、本当に」
『…全く、相変わらずだな』

 何が相変わらずなんだ。しかし確かに昔から迷惑ばかりかけている。カイトにはよく厳しく叱られたけどいつも呆れ顔で助けてくれる。そこにつけ入っていたのは自分の方だった。自覚していたからこそこうなってからは連絡をあまり取らないようにしていたが、タイミングよくカイトの声を聞いてしまうと抑えていたものが破裂してしまいそうだ。決して悟られぬように震える声を堪えた。

「キメラアントの調査を?」
『そういえばお前は昔から虫が苦手だったな』
「大嫌い。だから絶対に手伝わないよ」

 白々しい。最初から知っていたくせに。だが今はカイトの声を切望してならない。縋るような気持ちで耳に当てていた携帯が今だけは命綱だった。


***


「会長、彼女は本当に大丈夫ですか」

 崖の上から樹林を見下ろしていたネテロの背後にはモラウとノヴが控えていた。ノヴの言葉にネテロは頬の隅に皮肉な笑いを漂わせていた。

「心配せずとも大丈夫じゃ、あの子はジンの弟子じゃよ」
「なんだって?ジンってあのジン・フリークスか?」

 モラウとノヴが互いに顔を見合わせた時、ネテロは髭を触りながら目を細める。視線は遥か遠く、キメラアントが蔓延る地帯を映していた。実際、その場所にナマエがいるはずだった。垂れ死んでいなければあの強大な円を掻い潜り、着々と駒を進めているはずだ。一見大した力もなさそうな非力な女に見えたがネテロの言葉によってそれは払拭された。最初はネテロの誘いを断ったナマエが再び現れて「カイトを探す」とそれだけ言った。あの森で勝手に死なれては敵に吸収される恐れがある、それをノヴは懸念していたがネテロは依然と能天気な笑顔を浮かべているだけだった。

「あの子は強いぞ。が、あれ程負傷していれば、カイトを見つけるのに時間はかかるだろうがのォ」
「負傷?」
「わからんかったか?ありゃ腹にでかい穴でも開けられたんじゃな。最近負った傷のようだが」

 ではなぜ一人で行かせたのかと思ったが、誰もネテロには逆らえない。期待通りナマエたった一人で敵の戦力を減らしていたのも大きかった。しかし、カイトが見つかったという朗報で状況は一変する事になる。その知らせを聞いたナマエは一目散に森を後にしたがゴン達に一足遅れてカイトと再会する事になった。

 錠付きの扉が音を立てて開くと同時に中にいたキルアの視線がナマエを捉えたが何か言葉を発することはなかった。ナマエの視線は既にカイトに釘付けになっていた。雑に縫い付けられたような継ぎ接ぎの肉体は人形のように機械的な動きでゴンを殴る。頬がげっそりとこけて、片目の瞼が三重になっている。細いけれど筋肉質で引き締まった体はカイトのものだ。しかしそれは本当にカイトなのだろうか。こめかみの辺りを急に殴られたかのように一瞬目の前が真っ白になり、立っているのが苦しいほどのめまいを覚えた。

『キメラアントの調査を?』
『そういえばお前は昔から虫が苦手だったな』
『うん、大嫌いだよ。だから絶対に手伝わないよ』

 痛みの奥で、声がする。端末の向こう側から響く声は相変わらず優しい声だったと思い返すたびにぐらりと体が揺らぐ。

「おい、あんた大丈夫か?」

 呆然としたナマエにナックルが声をかけたがナマエは何も答えない。まるで空っぽの目をしていた。ナマエの中で信じていたものが崩れ去っていく音がする。それは形がなくなっていき、最後の一部が消え失せた時、ようやくピクリと指先が動いた。ゆっくりとカイトに向かって踏み出したナマエに「お、おい」とナックルが手を伸ばそうとした時、その手をキルアが強く掴んだ。あのままカイトに近づいたら今殴られているゴンのようになる。しかしキルアは硬く口を紡いだまま首を横に振る。その目は「やめたほうがいい」と語り、ナックルの身を守るためでもあった。

 無言でゴンを押し退けて前に出たナマエにカイトは拳を振り上げた。グッと膝を曲げてカーブを描くように向かってくる拳も、その体も、カイトそのものだ。しかし、違う。カイトは今まで一度だってナマエに拳を向けたことがない。無理やりこじ開けられたような目も、動きも、強さも全く違う。

『嫌がるのはわかってた。ただ…』
『ただ?』
『久しぶりにお前に会いたいと思っただけさ』

 心にこびりついた声が、大きな塊となって、膿のように残っている。どうしてすぐにカイトの元へ向かわなかったのだろうと、くだらない問題にしか向き合ったことのない自分を責め立て、後悔し、絶望し、最悪の結果になってしまった。

 この場の全員が息を呑んだ瞬間だった。カイトの拳に向かっていったかと思えばミリ単位でそれを交わし容易に懐へ躍り込んだナマエは片手でカイトの首を締め付けていた。途端に動きを止めたカイトの上空には人形でも操るかのうように糸が伸び、念能力が形を表していた。小刻みに揺れているカイトを前にナマエはひどく嗜虐的な目をしていた。

「カイトを離せ」

 全員の張り詰めた視線を背中に負っていたナマエに話しかけたのはゴンだ。金色の瞳がギョロリと動いた。無垢な眼光が胸に突き刺さり、汚い部分を削ぎ落とそうとしている。ざっと全身に鳥肌が立った。憤りが腹の中で渦巻き、吐きそうになる。ぬるま湯に浸かっている少年が許せない。彼からもたらされる混沌に感情を乱されることさえ血を脈立たせる。

「これが、カイトだって言うの?カイトはもうとっくに死んでるよ」
「死んでない」

 ゴンの両目が一瞬見開かれたがそれはすぐに強い眼光となった。まるで信じないとでも言った顔だ。希望を今もなお抱き続け、後悔を怒りと強さに変えて都合よく生きながらえようとしてる。

「俺が絶対に、カイトを!!」

(お前に何がわかる)

「戻す!!」

(カイトの何を知っている)

 その真っ直ぐさがとてつもない嫌悪を腹の中から引き摺り出したのだ。キルアが直感的に地面を蹴ってゴンの前に滑り込まなければゴンは死んでいただろう。モラウやノヴが咄嗟にナマエの体を押さえつけていなければキルアも首を飛ばされていたはずだ。地面に伏したナマエは額に青筋を張らせ、目尻を吊り上げた。凶暴な憤りが喉の奥から唸る。

「このクソガキが!!!お前がいなければ!!!カイトは!カイトはこんなことにならなかった…!!!!!!!」

 ゴンの強い瞳がぐしゃりと歪んだのは、ナマエの目から溢れ落ちた涙のせいだった。一度流れてしまえば途端に溢れ出し、崩れるようにその場で身を丸めた。ナマエを押さえ込んでいたモラウとノヴは既にその気をなくし、間に立って恐ろしさを目の当たりにしたキルアでさえも喉の奥が締め付けられた。従姉弟の涙など一度も目にしたことがなかったからだ。

『お前に会いたいと思っただけさ』

 この声を聞くことは、もう二度とない。ナマエの何かが、折れる音がした。



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