もぎたての心臓を君に


 地中海に面したこの街はまるで映画に出てくるように時間が止まった場所だ。穏やかな海と空、古風な建物、イルミにとってここに住む人間は人形のように見える。絵に描いたような静寂さはまるで自身の家と違っていた。だからこそここに居座ることを選んだ女に苛立ちを隠せずにはいられなかった。カフェと花屋に挟まれた小ぢんまりした古着店、ショーウィンドウにちょうど光が反射してイルミは瞳を細めたがそこにはcloseとかかれた札がはっきりと見える。三日前に訪れた時と同じ。ならばきっとあの女も変わらずあそこで蹲っているだろう。

 店を通り過ぎて住宅街までやってきた。ナマエの家は通りの裏側にあるので小道を抜ける必要がある。いつも手入れされている植物が無造作に傍で伸びて生い茂っている、進むたびに葉が足に当たって不快だ。視界にはすぐに白を基調とした一軒家が見えてくる。一般的な女が一人で住むには大きいだろう。オレンジ色の扉の前で一匹の猫が今日も飼い主を待っている。勝手に作っておいた合鍵で中に入ると昼間だというのに家の中はどんよりとして暗い。イルミは眉を顰めてカーテンを開けていく。キッチンには三日前に買ってきたサンドウィッチが袋ごとダイニングテーブルに置かれている。開けた形跡も残っていないが既にハエが袋の周りに集っていた。引き攣った顔でイルミは一番奥の寝室の扉を蹴り飛ばしその部屋のカーテンを勢いよく開けた。そうすると隅で丸くなっている小さな体が若干動いた。やはり三日前と全く同じ体制だった。イルミは片手に持っていた紙袋をベットに置いて「少しは食べれば?」となるべく柔らかい声で言ったつもりだった。朝イチで買ってきたクロワッサンとコーヒーはこの街では評判だと店主が自慢げに言っていた。しかしナマエは何も言わず、足の間に埋めた顔を動かそうともしない。

「…怪我は?」

 数週間前、シルバに負わされたナマエの負傷はまだ完治していないはずだった。重症のはずの本人は尻尾を巻いて逃げ、追跡の跡すら残さなかった。それから何があったか知らない。イルミがナマエの家を訪れた時はもうこんな状態だった。

 どれだけ問いかけてもなにも答えない事に痺れを切らし、銀色の絡まった髪を強引に引っ張りあげた時、イルミは一瞬息ができなくなった。喉の奥で感情の塊が本当に詰まっているみたいだったのだ。細い髪が何本かこけた頬に張り付いていて、湿り気が張り付いているように漂っている。金色の目の周りは真っ赤に腫れていて、まつ毛には幾つもの雫が絡んでいた。イルミは一瞬疑ったのだ。これは本当にあのナマエかと。こんな姿を見たことがなかった。言葉にできないまま固まっているとナマエは眉間に深い皺を作った。

「帰って」

 やっと声を発したかと思えば喉の奥が腫れ上がっているみたいに掠れた声だ。そして悟った。わかってしまえば尚更この手を離せなかった。哀れみか、怒りか、よくわからない感情が胸の中で嘶く。イルミが髪を掴む手の力を強めるとミシミシ、と皮膚が動く感触がする。「痛い」と顔を歪めたナマエにイルミが無慈悲な声色で問うた。

「ねえ、誰が死んだ?」

 途端に顔中に熱を集めたように顔を紅潮させ、ぐしゃりと歪んだ。スポンジを握って水が溢れ出た時みたいにじわっと湧き上がってくる涙がポロポロとこぼれて床を湿らせる。イルミは胸の片隅が針で刺されているような違和感を感じた。

「カ…ト、ぁ…っ」

 両手で顔を覆い、溢れ出る嗚咽を呑み込む様はシルバの一撃を喰らった時より遥かに苦しんでいるように見えた。そこでイルミは気づいた。『だから今度は殺し合いをするよ』と言ったナマエはわざとシルバの攻撃を受けたのだ。そこにどんな感情があったのかは知らない、油断させて逃げることが計画済みだったのかもしれないが。イルミに名も知れぬ怒りが湧き上がる。

「人が死んだくらいでそんなにダメージ受けてたらこの先生きていけないんじゃない」

 気づけばそう吐き捨てていた。ナマエの肩が震えて埋めていた顔が少し上を向いた。腕の隙間から見える金色の目が底光りし、とてつもない威圧感を纏った。

「黙れ」
「だって本当にそうじゃないか。人はいつか死ぬよ、俺も、お前も」
「黙れ、黙れ、黙れ!!」

 体の奥底から唸るような叫び声で鼓膜が痺れる。イルミは静かに瞳を細めた。彼女の行き場のない怒りや悲しみがこのまま彼女に留まり続けてしまったら膨らんだ風船が弾け飛んでいくように彼女の精神はバラバラになってしまうのではないだろうか。そう思うと戦慄が体を駆け巡った。あの時、ナマエの手を離してはいけないと思ったのと同じだ。失うことへの恐怖と、空っぽになった胸にスースーと通り抜けていく風。

「俺が死んでもお前は泣かないだろうね」

 ナマエの鋭い瞳が解けて、幽霊でも見たかのような顔になった。呆然と口を開けて、僅かに震えた眉、見開かれた瞳は確かにイルミを映している。

「何を、言ってるの、イルミ。馬鹿だな、悲しいに決まってる。そんなこと、二度と言わないで」

 ナマエの手が伸びて、自分からそれを掴めば引き寄せられた。数日で劇的に細くなった体を抱きしめてやると、ナマエはイルミの胸に顔を埋めた。いつか彼女が言っていた言葉『私、イルミのこと大事だよ。だからこれ以上傷つけ合うのはやめよう』と、何を綺麗事を抜かしているんだとやけになっていたが嘘ではないのかもしれない。感情に任せて色々言ってしまうが、少なくともイルミは傷つけたくなどないのだ。

「イルミ、暫くこうしてて」
「…仕方ないな」

 また涙まじりのか細い声が聞こえた。ナマエを抱き直して膝の上に乗せ、イルミが冷たい壁に背をつける。床にそのまま座るのは硬くて居心地が悪かったがナマエのためなら何時間だってこうしていられる。腕の中の女は瞳を閉じた。濡れた睫毛がキラキラと輝いているように見える。こんなに暖かい温もりを感じたのはいつぶりだろうかと考えながらナマエの背中をさすってやる。不意にイルミは無防備な唇に口付けした。触れるだけの穏やかなもので、ナマエは何も言わなかったし、拒絶もしなかった。もう一度唇を重ねにいくと、今度は自然に舌が絡んだ。唇から体全体に何かが広がっていく。ナマエは何も考えられていないようだった。朦朧として、半分夢の中にいるのかもしれない。それをいい事に繋ぎ合う唇を深めたがナマエがヒックヒックと再び泣き出した。たちまち心が痛くなり、その体を優しく抱きしめる。本当は自分が求められていないことくらいわかっている。それが許される関係でもないことも。しかし彼女の悲しみを埋められるならなんだってしたいしなんでもできる気がした。涙を流す目元に唇を当ててイルミは呟く。

「お前が望むなら、俺はずっと」

 最後まで言えなかったのは、彼女がまた、傷つく気がしたからだ。



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