燃ゆる胎内


 昼間で、日が斜めに差し込む松の葉は鮮やかな濃緑色だった。暖かく、希望に満ちた日だ。ククルーマウンテン付近の街をぶらつきながら古い物を取り扱っている店を覗いたり、雰囲気の良いカフェに一人で立ち寄ったりする時間がナマエには必要だった。あの屋敷にいると四六時中執事に見張られているし、シルバとキキョウに怯えるのも、カルトの憎まれ役をやるのもうんざりしていた。それに留守だったミルキが帰ってきたのも疲労に上乗せされる。だが一番の原因はイルミだった。何故か暇があれば部屋を訪れて特に脈絡のない話をするし、外に出掛けようだとか、ディナーに行こうだとかやけに自分に構ってくる。彼らしくない行動に戸惑いなのか不満なのかよくわからない感情を感じていた。

 広場のベンチに座っていた時、かつての街砦の上に建てられた大きな装飾時計を持つ鐘楼が空気を揺らがした。高くもなく低くもない音が何度か鳴って午後3時の時刻を告げる。自分を監視していた執事の目を掻い潜って出てきたがいずれ見つかるだろう。もしかして制限時間が切れた合図だったのかもしれない。ベンチの背にもたれて瞼をゆっくりと下ろした。心地よい気温に、人々の談笑、足音、視界に入る情報が多いほど微睡が増す気がしていた。

「無防備だな」

 気持ちの良い眠りの中へ落ちていきそうになっていた時、一人の男の声が脳の一部を痺れさせ覚醒へと引っ張り上げた。刮目と同時に体を前のめりに起こして全意識を右手へと集中させる。ナマエの動きは広場にいる人間の目では追えないほど速かった。目の前の男とて例外ではない。ナマエは心に決めていた。次にもし、再開することがあれば、芸術品じみたあの男の頬をぶん殴ってやると。蜘蛛の頭に襲いかかることは簡単なことではない、返り討ちに遭う確率の方が高かった。しかし自分が受けた屈辱がそうさせた。惨めな矜持が拳まで駆け巡っていき目の前で振り上げられた。

「なっ…」

 久しぶりに目にしても変わらず美しい顔がそこにはあり一層憎たらしい。振り上げられた拳の風で靡く黒髪の隙間からはあの目が真っ直ぐにこちらを見ていた。そこには恐れも怒りもない。クロロは微笑した。それは生意気でも挑むような物でもなかった。あまりに多くの事を心得ている表情だったのだ。ナマエの全身は筋肉と骨が打たれた後のように脈立っている。だがこの微笑の前でたちまちの力を無くす。歯を食いしばって威力を弱めたが右手は真っ直ぐにそこへと向かっていく。せめてもの足掻きで拳の拘束を解き、掌で男の頬を打った時、胸が苦しくなるのを覚えた。寒気がして、目には涙が浮かんだ。衝撃で引きちぎれるほど横を向いていたクロロの頬は赤くなっている。「どうして」とナマエが掠れた声を放つとクロロの視線がゆっくりと正面に戻ってくる。その顔は変わらずあるべき感情を宿してはいないのだ。ナマエは勿論オーラを纏わせていた、そうでなければこの男に一発食らわせるのは不可能だからだ。だがクロロはナマエより遥かに無防備だった。そこには一切のオーラもない、分かっていたはずなのに、その素振りも見せなかったのだ。

「強烈だな」
「…わざわざ叩かれて、ご機嫌取りのつもり?」
「そんなつもりはない」

 クロロは片頬を赤くしたまま、スラックスのポケットから繊細なチェーンに繋がれた青い石を取り出した。細かい装飾が施されたルルカ石のネックレス。それはあの時、ヒソカが探し出した箱の中にあるはずだった。ナマエは一瞥して「本物じゃない」と険のある声で言えば、クロロは少しおかしそうに笑ってみせた。自身の行いを悔いるような、軽蔑するようなそんな微笑にも見えたのだ。

「お前の中には今もあの男がいる。確かめたかった」

 あの男とは、本物を持っているジンの事だ。本物だとしたら、ジンが手放したのだとすればナマエはどんな反応をするのか。それが知りたかったとでも言うような顔だ。そしてまた心に微かな期待を残すような表情だった。「もしかして嫉妬でもしていたの?」とさぞかし奇怪な顔で問いかけていた。

「…そうかもな、いや、そうだろうな」

 何故か納得したような顔をしてクロロはベンチに腰掛けてナマエに視線を向けた。隣に座れと促しているのは明白であったが、そこに座って話を聞いてやるつもりは毛頭なかったのだ。

「これ以上私に付き纏わないで。次、私の前に現れたら殺す」
「…殺す?随分と恐ろしい言葉を使うんだな。知らなかったよ」

 旋風の如き怒りが巻き起こる。盗賊のくせに、人を平気で殺すくせに。どの口が“恐ろしい言葉”などとほざいているのか。怒りで震えた唇が裂けそうなほど怒鳴り散らしたくなったがその感情を喉元で押さえつけた。

「お前は俺を殺せない、殺す気ならさっきの一撃で俺は死んでた。いい加減に認めろ」
「はっ…認めろ?何を、認めろっていうの?なんのために?」

 軽蔑の色が浮かんだ乾いた笑い。顔が歪むのがこれほど滑稽な事はない。同時に虚しかった。こんな怒り方でしか感情を表せない自分に嫌気がさしていた。クロロは立ち上がってナマエの震えた右手を握った。骨張った手の感触、温もり、その視線。全てがあの夕日の記憶を鮮明にさせる。心を震わせ、弱くする。透徹な光を宿した黒い切長の瞳、率直で冷たく、その視線に暴かれるのを心待ちにしているように血が騒ぐ。燃ゆる感情、肉体、塩辛い火が両目に流れ込み瞼の間から涙が溢れ出た時にはクロロに抱きしめられていた。

「その答えが俺は欲しい」

 硬い胸に押し付けられた場所からクロロの香りが広がり、体の中に落ちていく。肩に埋まったクロロの顔、体を締め付ける膂力のある腕。欲しい、知りたい、あまりにも横暴な欲望に腹の底が冷たくなったが男は何度でもそこに火をつける。抗えぬ定めのように現れる。ナマエはもう、懲りごりしていた。嵐に似た感情の起伏に。そして半ば諦めもしていた。この男から目を背けることに。



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