戯言に終止符を


 カーテンの隙間から差し込んでくる光でナマエは瞼をこじ開けた。町外れのホテルの部屋は最低限必要なものだけを揃えたような無機質な部屋だったが、シーツだけは肌触りが良かった。体を起こそうとしてみたが何も身に纏っていないことに気づいて再び毛布の中に潜り込む、朝の冷たい空気に肌が触れて身震いしたがすぐに暖かい体温に後ろから包まれた。男の手が体を温めるように肩から腰を撫でて、抱きしめられる。ナマエは喉元まで湧き上がる熱い感情に苦しくなり、そして絶望した。もう一度深く眠りたかった。別の場所へ行くように、眠りの中へ去りたかった。誰にも見つからないところ、自分自身を無くしてしまえるところへ。だが求めるものは本当に眠りだろうか。ナマエはクロロの腕を振り払った。昨夜の過ちも、クロロの目に光る荒々しい欲情の記憶も。「何が気に入らないんだ」と耳元で囁かれた声は脳髄を支配しようとするくせに憂いを帯びていた。

「何者でもないくせに。何者にもなれないくせに。私は都合の良い女じゃない」

 起き上がって横になっているクロロを見下ろす視線も声も冷たかった。冷たいくせに心は燃えるように熱い。身を覆っていたシーツが落ちて、男の前に乳房が晒されようが構わなかった。ただこの激情をどうにかしたかった。

「ならお前は俺に一体何を求める?美術館へ行ってカフェで美味いコーヒーを飲み、夕日を一緒に見れる恋人か?どんな時もそばに居て支えてくれる伴侶か?言ってみろ、お前の望みを」
 
 クロロは幻想の中にだけ存在しているような男だ。この男に盗みをやめろとでも言うのか?盗みをやめたところでこの男の罪が消えるわけではない。背中に逆十字を背負った男が悔い改めるとも思わない。ナマエの中でそんなことは問題ではないはずだった。とっくの昔に、哀れな母親が証明したはずだった。強い男に縋った過去も、全てが痛みとなって今もなお存在し続けている。

「違う、そんなこと求めてない。そんなのはもう懲り懲りだ」

 誰かに自分の幸せを押し付けるなど間違っている。では、なぜ。何故これほど苦しいのか。心臓の一部をもぎ取られたような痛みが常に側にあるのはなぜだ。

「矛盾しているんだろ。過去に懲りたはずなのにどうしてだろうな」

 真っ黒の瞳はいつだって全てを見透かしているようだった。糾弾するかのように捲し立てられ耳を覆いたくなる。この場から一刻も早く逃げたしたかった。こんな現実から、既に逃げだした過去からもさらに遠く離れるように。

「じゃあクロロは私に何を望むわけ?蜘蛛にとって邪魔であったら殺すくせに…!」

 不意に気持ちが挫けるのを感じた。喉に何かがつかえたような、落ち着かない気分だ。芯のある瞳から目を逸らしたくなって俯けばポロッと雫が落ちてシーツに染みを作った。

「……何故だろうな。お前は、俺のことを必要としているように聞こえる」

 顔を上げた先に見えた男の表情は穏やかだった。この上ないほど、情欲を交わし合う最中ですらこんな顔は見せない。「違う、…クロロなんて、」と怯んだ身を後退させたが伸びてきた骨ばった手に腕を掴まれてクロロの上に倒れるように崩れた。震える体を抱きしめられれば何故か月が満ちるような自然の摂理のような、当たり前の何かを感じて。触れ合う肌から直接的に感じる温もりと、命の鼓動が男の人間味を強めた。

「お前に嫌われてもいい、とは言えない…言いたくない」

 耳朶を打つ掠れた声は本心なのだろうか。わからない。困惑したナマエの意識を手繰り寄せるように強引に唇を塞がれくぐもった声が溢れる。離れようとしてもクロロの手が後頭部を固定して叶わなかった。苦しく甘ったるい。啄んでいるうちに欲が満ち次第にナマエは自ら噛み付くようなキスをした。身体中を弄っていた手が尻を掴み、主張するものを押し付けられれば途端に腰が揺れる。あれほど激怒していたというのに、すっかり蠱惑の熱に浮かされた。しかし覚悟だけは決めていた。これで最後にしよう。次に目を覚ました時、クロロは隣にいないだろう。念能力を取り戻しに東に行くそうだ。念能力を使えない身でこの地に赴いたのもナマエにわざわざ殴られたのも全てが腹立たしくそして愛おしかった。次はいつ会えるのかわからないのだろうと繋がりあった先、黒い瞳の奥底を見据える。ナマエは濡れた瞳を細めた。

「もう貴方には会わない」

 これからくる痛みを思い、束の間の恐怖を覚えたが気にしないことにした。痛みは常に感じていた。これで痛みは終わりだ。



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