畏怖の象徴


「じゃ、おやすみ」

 律儀に部屋の前までイルミが送ることなんて今まで一度も無かった。これは一体どういうつもりなのか、きっと何か裏がある。イルミに付き合ってと言われて街に出たが、特にイルミはどこかに行きたかった訳ではなかったらしい。カフェに行って街を散歩して通りかかった植物園に行ってみたり、雰囲気が良さそうなアンティークショップに立ち寄ってみたり、普段のイルミならしない事ばかり、これではナマエがイルミを付き合わせたようなものだ。最初から最後までイルミは何がしたいのか全く掴めない一日であった。

(明らかに変だ……)

 イルミの目的が掴めない事ほど落ち着かないことはない。ましてやこのゾルディック家に暫くいないといけない事を考えると尚更気分が悪い。ざわつく感情を誤魔化すようにナマエは先程ゴトーから拝借したタバコを一本咥えてバルコニーに出た。手入れされた美しい庭が月明かりに照らされていて昼間とは違う風景にも見える。不意に冷たい風が髪を揺らせば体がブルっと震えた。何か羽織って出てくればよかったと思ったが一度火をつけてしまったら中に入るのは抵抗があった。息を吐き出すと共に煙が流れていく様をただぼうっと見つめていると途端に胸の奥が痛くなる。喫煙している時は決まってそうなる。いや、そうなる時に喫煙したくなるのか。ナマエは元々吸う方ではない、増してや最近はタバコなんて忘れていた。明らかに最近の出来事が影響を及ぼしているとナマエはため息と一緒に煙を吐き出した。

「姉さんがタバコなんて吸って幻滅した?」

 静まり返った夜に響いた声は独り言ではない。バルコニーに出たナマエをずっと監視していた弟に放ったものだ。「そんなことないよ」と声と共に姿を表したのはカルトだ。月の光に照らされた艶やかな髪が揺れて、射抜くような瞳がナマエを見据えている。

「貴方にはとっくに幻滅してるから」

 険のある声に思わず顔を引き攣らせてしまった。カルトは表向きでは普通に接しているが、本当はナマエが嫌いで仕方ない。従姉弟に嫌われるのは心苦しいものだ。歳の近いイルミやミルキとは全く別の存在、キルアと同じようにナマエにとって下の弟達は可愛いのだ。しかしカルトがナマエを嫌うのはキルアが懐いているせいだ。

「兄さんは貴方を探してこの家を出た」
「そうみたいだね。でも今度は自分の意思で出て行ったんでしょ?」

 キルアが自分で選択したことだ。彼の意思で、友人を選んだのだ。しかし言動が気に食わなかったらしいカルトは松の葉のように目を細めて、唇を噛む。その瞬間肌寒い夜が大地を震わせるような凍てつく夜に変わった。カルトから滲み出る感情がざわめいた殺気となってこちらに突き刺さってくるようである。まるで小さい頃のイルミを揶揄って怒らせた時のようにも見えて、ナマエは思わず咥えていたタバコを落としかける。

「僕は兄さんみたいに貴方に思い入れはないよ。物心つく頃には貴方は家を出ていたから」
「…そうだね」
「なのに今更この家に戻ってくるなんて恥ずかしくないの?」
「…戻ってきたくなかったって言ってもきっと信じないだろうね、カルト」
「僕の名を気安く呼ぶな!」

 空気がキン、と鳴るほどの大きな叫びであった。懐から扇子を取り出して振り上げた瞬間、カルトはピタリと動きを止めた。厳密には動けなくなったのだ、動いてはいけないと脳から伝令が走ったのだ。目の前で煙を吐き捨てていたはずのナマエの瞳が真っ直ぐにこちらを見ている。金色の瞳孔が開き、カルトの眼球さえも通り抜け遠くまで突き抜けていきそうなほど凄みのある目だった。さっきまで纏っていた腑抜けた空気とは全く違う、冷たく恐ろしいモノに成り果てていた。ナマエからゴッと旋風が巻き起こり思わず瞳を閉じかける。屋敷を取り囲む木々が一斉に揺れると同時に全身が痙攣するかのような感覚を覚えた。怒りと不信と新たに芽生えた恐怖が全身を駆け抜けて、凶悪な感情に冷や汗が滲む。

「後にして。今は機嫌が悪いんだ」

 疲労を帯びた声に滲んだ獰猛な狂気。カルトは喉の奥をひくつかせる。ナマエを好まない理由はキルアの事だけではない。人が変わったような冷酷な冷たさが限りなく恐ろしかったからだ。従姉弟であろうとこんな得体の知れぬ女をこの家に置いておけない、両親がこの女を気に入っているのも不服であった。カルトは自然に出した扇子を引っ込めると、ナマエはまた穏やかな笑顔を浮かべた。

「いい子だね、カルト」

 ナマエは短くなった吸い殻を灰皿に押し付けると「おやすみ」と呟いてから部屋に戻っていく。その様子をカルトは見つめながら震えた唇を再び噛み締めた。今の自分では到底叶わないと思いながらも心の中で罵倒する言葉を探して歯軋りするのだ。



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