混沌なる沼へようこそ


 湿り気を帯びた空気はひんやりと冷たく肌に触れている。朝方の深い霧の向こうに見えた一人の男の後ろ姿に唇が震えた。男はあの時のように高い鼻先をこちらに向けて私を見ていた。高圧的であり、一線を引かれたようにそこには深い溝までも見える。あちらには決して踏み込めない、踏み込みたくないと思わせる空気。私と男の距離はどんどん遠くなっていくのにホッとしていたはずだ。しかし同時に感情の一部を剥ぎ取られたように虚しくてならない。虚しいという感情は非常に気持ちの悪いものだった、痛いとまではいかない喪失感、胸をチクチクと細い針で刺されているようで全てから目を背けたくなる。なかったことにできたらいいのに。男と出会わなければよかったのに。最初からわかっていたのに。

「お前に、会いたくなるよ」

 ぽつり、と男が呟いた途端私の立っていた地面が崩れて一気に浮遊感に襲われた。やめて、そんなこと聞きたくない。地獄まで落ちていきそうな中、私は両手で耳を塞いだ。しかし脳内では死んだ男の虚な目を思い出す。あれほど不快に感じたのはあれが私の末路だとわかっていたからだ。

 息を吸い込むと同時に瞼をこじ開けた。自分の家より遥かに高い天井、まだ夢でも見ているのかと視線を動かしてみれば上質なグリーンの壁紙やアンティークな家具達が見えた。どうやら本当に地獄に来てしまったようだ。イルミを待っていたような気がするが途中で気絶したように記憶がない、気づいたら実家に帰っていたようだ。鉛のように重たい体を起こしベットから抜け出して浴室に入る。既にバスタブには暖かいお湯が張っていて、ほのかに柑橘系の香りがした。ここの執事達は相変わらず準備がいい。お湯に浸かっている間に準備された黒いワンピースに袖を通すとサイズはぴったりだ。襟元はしっかりとしているし、腕のところは膨らんでいて袖はキュッと閉まっているタイプのワンピース、これもキキョウさんが選んだのだろう。髪を乾かして身支度が終わった頃に扉の向こうから「朝食の準備ができています」とアマネの声がした。

「まあ、ナマエちゃんそのワンピース似合ってるわ!」
「おはようございます。素敵なお洋服ありがとう、キキョウさん」
「姉さん、お久しぶりです」
「大きくなったねカルト」

 先に朝食の席についていたのはキキョウさんとカルトだった。カルトは何か話したげに視線を向けていたが、後から席に着いたシルバさんと祖父の存在を気にしてか何もいう事は無かった。叔父と祖父に挨拶をすると二人は嬉しそうに頬を緩める。それに安堵しながらも体に張り詰める緊張感は取り払えない。キルアがいないのは知っているが今日はミルキもいないようだ。それに私を連れてきたはずのイルミの姿もない。視線を泳がせていたのに気づいたのかイルミは仕事で夜中家を出たと教えてくれた。「大丈夫、すぐ戻るはずですよ」と最後の一言が気になったが運ばれてきた朝食に思考を遮られる。この家を離れてから故意に毒を摂取するなんてことするわけがない、幼少期は毒のせいで苦しい思いをしたのが鮮明に甦り呼吸が荒くなりそうだった。果たして自分はこの朝食に耐えられるだろうか、耐えられなくてもここで食べないという選択肢などない。意を決してフォークとナイフを手に取った。

「ナマエ、お前今は何をやっとる?」
「地方で古着屋をやってる」
「古着屋?お前は相変わらずそういうのが好きじゃなぁ、若いもんが古い服なんぞ着るのか」
「着るよ、好きな人は」
「お義父様、ナマエちゃんのセンスは素晴らしいのよ」

 今の会話だけ聞いていれば普通の家族のように聞こえるものだ。他愛もない話、声の柔らかさ、空気、しかしそれが一瞬で凍てつく冬のように変わるのだからこの家族は恐ろしいのだ。

「それでナマエちゃん、イルミとの結婚考えてくれた?」

 紅茶を吹き出しかけたが冷静を装って微笑んだ。イルミがこの二人に報告しているという可能性はゼロに等しいのはわかっていた。それでもイルミの中で何らかの葛藤があったのは確かなはずだ、私達は愛し合っている恋人ではない、私達は従姉弟だ、既に家族ではないか。

「…小さい頃から一緒なのにイルミをそういうのには見れないよ」
「従姉弟といえど、お前の母親と俺は腹違いだと知っているだろう」
「知ってるけど心の問題というか…」

 身体中から冷や汗が滲み出て食事もろくに喉を通らない。スライスされたレモンの入ったグラスを手に取って冷たい水を口に含むと微かに舌が痺れているような気がした。

「もしかして、恋人でもいるの?」

 後ろからナイフを突き刺されたような衝撃に息ができなくなった。背後に近づいてくる足音、口の中は既にカラカラに乾いていて、喉の奥に綿でも詰められているみたいだ。夜中出て行った男が戻ってきたことが問題ではない、銀髪の隙間から鋭く刺すような視線に身の危険を感じているのだ。さらに私の生を危うくするようにイルミは耳元まで顔を近づけた。息遣いで震える鼓膜、聞きたくなかったのか、動揺していたのか、イルミの声は遅れて聞こえた。

「蜘蛛の頭」

 心の臓まで凍りついた瞬間であった。虫が鳴くほど小さな声、周りには聞こえていないだろうが私にははっきり聞こえた。

「だったりしてね」

 すぐ側で見えた沼のような瞳に囚われる。生きた心地がしない。それとも闇が手招きしているのか。



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